第二十二話 思い出したこと
お父さまとの面会から歌唱の授業を挟んで三十分ほど。ハーラルトがわたしの書斎を訪れた。
「これから次の公務の打ち合わせをさせてもらうよ」
そう言ったあとで、わたしの顔をしげしげと見つめる。わたしの表情がぱっとしないことに気づいたのだろう。
「その前に……国王陛下とのお話はどうだった?」
「それが……」
わたしは前もって決めていた通り、包み隠さずにお父さまとの会話の内容と顛末を話した。
話を聞き終えたハーラルトは呆れた様子もなく、ただ苦笑しただけだった。
「リズはもう分かっていると思うけど、それじゃ国王陛下がおかわいそうだよ」
……やっぱりそうよね。お父さまは事実としても心情としても、わたしたち姉妹を分け隔てなく扱ってくださっているのに。でも……。
「わたしはずっと、本当は父に疎まれているんじゃないか、って思ってきたの」
ハーラルトはきょとんとしたあとで、目をぱちぱちさせた。
「どうして?」
今まで人に話したことのなかった出来事を言葉にするのは、正直抵抗がある。それでも、この話をしなければ前には進めないと思ったから、わたしは勇気を出した。
「説明するとだいぶ昔の話になるのだけれど、聞いてくれる?」
「もちろん」
「子どもの頃、女官たちが祖母の肖像画の前で噂話をしていたの」
「うん」
「わたしはよく知らないけれど、父はアウリールおじさまに育てられたのでしょう?」
「そうらしいね。父の話を聞く限りではそんな感じだよ。でも、どうしてそうなったのかに関しては、父もあまり教えてくれなかったからね。詳しい事情は俺も知らないんだ」
「女官たちによると、祖母は子どもの頃の父を可愛がらなかったそうなの。多分、放っておかれたのだと思う。晩年には二人の仲がよかったらしいという話も嘘だって。父はきっと、祖母のことが憎かったと思う」
ハーラルトは小首を傾げた。
「その話とリズになんの関係が?」
「わたし、祖母にそっくりでしょう? ハーラルトはそう思わない?」
ハーラルトは、ようやく納得した、という表情になる。
「確かに似ているとは思うけど、君と王太后陛下は全く別の人間じゃないか。そりゃあ、自分に無関心だった親に子どもが似ていれば、おもしろくないと思う人もいるかもしれないね。でも、国王陛下はそういう類のお方ではないと思うよ」
そう……なのかしら。わたしにはお父さまのお気持ちが未だによく分からない。
腑に落ちないわたしを前に、ハーラルトはニコッと笑う。
「俺も昔話をしていいかな?」
なんだろう、と思いつつ、わたしは頷く。
「ええ」
「子どもの頃、国王陛下が『本当にリズと結婚したいのかい?』と俺にお尋ねになったことがあってね」
ハーラルトはきっと元気よく「はい!」と答えたに違いない。彼が正解を言う前に、わたしは思わず笑った。
「もちろん、俺は『はい!』と答えたよ。そうしたら、陛下はなんておっしゃったと思う?」
本当に分からなかったので、わたしは首を横に振った。
「陛下はものすごく真剣なお顔で、こうおっしゃったんだ。『それなら、君が大人になった時、それ相応の試練を受けてもらうよ』ってね」
驚いた。お父さまがまだ子どもだったハーラルトにそんなことをおっしゃっただなんて。お父さまは男の子を授からなかったせいか、とてもハーラルトを可愛がっていらっしゃったから。
ハーラルトは懐かしそうに目を細めた。
「俺は子ども心に、陛下が自分に目をかけてくださっていると分かっていたから、『陛下はそれだけリズのことを大切に想っていらっしゃるんだ。立派な大人にならなきゃ』と深く心に刻んだものさ。だから、陛下が君をお嫌いだなんてことは、絶対にないんだよ」
ハーラルトに諭されてなお、わたしはその言葉を額面通りに受け取れなかった。
「でも……」
「君は俺の話より、そんな無責任な噂話を信じるの?」
優しい表情と声でそう問われ、わたしはハッとした。
ああ、そうだ。わたしはもっと、身近な人たちを──誰より自分自身を信じるべきだったのだ。
そして、わたしが今、自分の他に一番に信じなければならないのは──。
「わたし、ハーラルトのことを信じたい」
ハーラルトは黙ってほほえんでくれた。
*
わたしの話を聞いてくれたハーラルトは、次の公務の打ち合わせを終えたあと、書斎を出ていった。「俺も君を信じてるよ」と言って。
わたしは大広間に入り、台座に置いてあったリュートに手を伸ばす。
単に自由時間を潰すためではない。何かを……こうすれば大切な何かを思い出せるような気がしたのだ。
大好きな『シュツェルツ王太子と美姫ロスヴィータの恋』を奏でる。曲を演奏していくうちに、わたしの中で、ある疑問が浮かび上がる。
この曲を初めて聴いたのは、あの噂話を聞いてしまう前だった。両親が登場するこの曲を聴いて、大興奮したのは覚えている。だけど、そのあと、何があったっけ? わたしはその興奮を誰に伝えたのだっけ……?
──お父さま! あの曲、とってもすてき! お父さまとお母さまが結婚できてよかった!
あ……。わたしはリュートを爪弾く手を止め、思い出しかけている記憶をさらに手繰り寄せる。
──わたしもお父さまと結婚する!
まあ、まだ小さかったとはいえ、わたしはそんなことを言っていたのね。
今より若々しいお父さまは、照れくさそうでいて、とても嬉しそうに笑う。
──リズ、すまないけど、わたしの妻はロスヴィータ──お母さまだけだと決まっていてね。リズとは結婚できないんだ。
──そうなの……?
──そうなんだ。いいかい、リズ、これだけは覚えておいて。リズが大人になった時、周りが国や家のために結婚したとしても、リズがそうしたいなら、好きな人と結婚していいんだよ。
お父さまの言葉は、一語一語丁寧で、とても優しかった。
わたしは元気よく頷く。
──うん! わたし、お父さまと同じくらい好きな人と結婚する!
そう、わたしはお父さまが大好きで──その会話が恋愛結婚を目指し始めたきっかけだった。
真実はこんなに単純なことだったのだ。
お父さまはわたしを愛してくださっている。だから、とにかく心配で、あんなことをおっしゃったのだわ。
気づくと、温かい涙が頬を伝っていた。
「……ハーラルト、ありがとう」
胸の奥が熱かった。
ああ、そうだったのね。わたしは本当に鈍感だわ。自分の気持ちにすら気づいていなかったなんて。
わたし、ハーラルトのことが好き。
大切なことに気づかせてくれた、いつも優しい彼が。
わたしはリュートを台座に置くと、次にすべきことを考え始めた。
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