第九話 やっぱり、あなたとお付き合いしたい!
わたしはドレスのスカートを両手で持ち上げた。急いで中庭を駆け、回廊から廊下へと戻る。警衛の近衛騎士の視線も気にせず、廊下を走り出す。
目指すは正殿への渡り廊下だ。
「どうしたの、リズ。そんなに急いで」
うしろから声をかけられ振り向くと、ラリサ伯夫人ともう一人の女官を連れたお母さまが歩いてくるところだった。
立ち止まる時間さえ惜しいので、その場で足踏みする。
「ちょっと正殿に用が……」
「そう。急ぎの用事のようだから、手短に話すわね。ヴィエネンシスの王太子との縁談なら、受ける必要はないわよ。それだけを伝えにきたの」
お母さまがアウリールおじさまと同じことをおっしゃったので、びっくりする。
「え!?」
「昨日、ロゼッテ博士に事情をお話しして、一緒に陛下を詰問したの。それで、縁談の相手を知ったのよ。まったく、呆れてしまうわ。よりにもよって、責任感の強いあなたが断りにくい縁談を持ちかけるなんて」
ヴィエネンシスの名前を出されても、お母さまはわたしの味方なんだ。嬉しくて、涙がにじみそうになる。
でも、今は感慨に耽っている場合じゃない。一刻も早く、ハーラルトにわたしの気持ちを伝えたい。縁談相手の噂が彼の耳に入る前に。
わたしは自分の決意をお母さまに伝えることにした。
「お母さま、ありがとうございます。あの、わたし、ハーラルトさまに会いにいきます。彼と正式にお付き合いしたいから」
お母さまはにっこり笑った。
「頑張ってね」
「はい……!」
お母さまに見送られ、わたしは廊下を走る。長い渡り廊下を抜け、正殿に足を踏み入れる。二階への螺旋階段を上り、昨日の記憶を頼りに資料編纂室を目指す。
「……ここだわ」
資料編纂室の前に辿り着いたわたしは、自分で扉をノックする。返事を待たずに開けると、部屋の中にいた官吏たちがぎょっとした顔でこちらを見た。
「……もしかして、王女さま?」
「間違いない。フェイエリズ王女殿下だ……」
自分に集中する視線には構わず、わたしはハーラルトの姿を捜す。
……いた。
彼は綺麗な顔をぽかんとさせて、こちらに歩み寄ってくるところだった。
「……殿下、どうなさいました?」
「話があるの」
ハーラルトの表情が少し強張った。「やっぱり、あなたとお付き合いするのはやめた」と言われるかもしれない、なんて思ったのかしら。
「かしこまりました。少々お待ちください」
ハーラルトは覚悟を決めたような顔をして、上役らしき男性のもとに向かう。
「室長、申し訳ありませんが、しばらく席を外してもよろしいでしょうか」
「もちろんもちろん。どうせ急ぎの仕事があるわけじゃなし。それに、王女殿下のお呼び出しをお断りしたとあれば、わたしの首が飛んでしまうよ。色男は辛いね」
「はあ……」
許可を取ったハーラルトは苦笑したあとで、わたしのもとに戻ってきた。
「お待たせいたしました。参りましょうか」
「ええ、場所はこの前の応接室にしましょう」
以前訪れた時のように、臣下用の応接室に入る。二人して席に着くのを待って、わたしは口火を切る。
「実は、例の縁談がヴィエネンシスの王太子とのものだと分かったの」
ハーラルトが息を呑む音が聞こえたような気がした。わたしは大きく見開かれた彼の若草色の目を見つめ、きっぱりと言う。
「だけど、わたしはあなたとお付き合いしたい」
ハーラルトはさらに目を見張る。彼の頬が紅潮していく。
「……嬉しい。とても嬉しいよ。でも、一体全体何がどうなってそういう結論になったのか、詳しく教えてくれないかな?」
確かに結論だけ言われても、当事者としては首を捻ってしまうわよね。
わたしは昨日から今日にかけての出来事をかいつまんで話し始めた。
ハーラルトと交際することになった直後に縁談を断りにいったら、お父さまから相手がヴィエネンシスの王太子だという衝撃の事実を告げられたこと。
大法官ラリサ伯にヴィエネンシス国王の危険性について教えられたこと。
アウリールおじさまとお母さまが「縁談は断って構わない。好きな相手と結婚していい」と言ってくれたこと。
話を聞き終えたハーラルトはしばらくの間黙り込み、やがてぽつりと言った。
「気持ちはすごく嬉しい。……でも、本当に俺でいいの?」
彼の顔は怖いくらい真摯だった。不安になったわたしは問う。
「どういう、こと……?」
「身分だけ見れば、俺は単なる新興貴族の──子爵の息子でしかない。ヴィエネンシスの王太子とは比ぶべくもない。今は昔のことを思い出したばかりだから、俺と付き合いたいと強く思うのも分かるよ。けど、何年もたてば、また気持ちも変わってくるんじゃないか?」
そんな……そんなことを言わないでよ。告白してくれた時、あなたは間違いなくこう言ってくれた。
──縁談の相手って、きっと顔も知らない男だろう? そんな奴じゃなく、俺を選んでくれないか。
あの言葉があったからこそ、子どもの頃、結婚の約束をしたことを思い出したわたしは、結婚を前提にしてあなたとお付き合いしたいと思ったの。
わたしはぎゅっと拳を作り、身を乗り出した。
「ハーラルトは、わたしのことが好きなのでしょう?」
「もちろん。誰にも負けないくらい君のことが好きだ」
……そんなにはっきり言われると、反応に困ってしまうわ。
それは置いておいて。変に恥じらうこともなく、ストレートにわたしを好きだと言ってくれるあなただからこそ、信じられる。あなたはわたしが今までお付き合いしてきた
「わたし、会ったこともないヴィエネンシスの王太子より、あなたのことを信じたい。まだ、好きだとか愛しているとは思えなくても、もっとあなたのことを知っていきたいの」
わたしがそう宣言した直後、ハーラルトは片手で口元を押さえ、椅子の肘掛けにしがみついた。
「……ダメだ……嬉しすぎて……幸せすぎて……気絶しそう……」
彼、わたしが「好き」だと告白する日がきたら、本当に悶絶するんじゃないかしら。
心配するわたしをよそに、ハーラルトは起き上がり、座り直す。お父君譲りの涼し気な目元は既に冷静さを取り戻していた。
「分かった。もう同じことは訊かない。俺も覚悟を決めるよ」
ホッと息をついたわたしは、ようやくあることに気づく。
どうしよう。結局振り出しに戻っただけだわ。わたしがハーラルトの告白に返事をして、お付き合いしようということになって……それから何も進んでいない。
縁談も断っていないし、お父さまに交際を認めていただくための行動を何も起こせていないのだ。
すぐにお父さまにお会いしなきゃ、と思い、ふと我に返る。昨日みたいに一人でお父さまと会ったら、また変な方向に話が進みそうな気がする。
わたしはハーラルトの目をじっと見つめた。
「ねえ、ハーラルト、お願いがあるの」
「な、何?」
「わたしと一緒に父と会って、例の縁談を断りついでに、交際の許可をもらいましょう」
「今から?」
「今から」
しばしの沈黙。あれ? 昨日は「一緒に行く」って言ってくれたのに。
わたしの疑問に満ちた視線を感じたのか、ハーラルトは情けなさそうに頭をかいた。
「……いや、昨日は君にいい返事をもらった嬉しさの勢いで『一緒に行く』なんて言ってしまったけど、あのお優しい国王陛下にものすごい形相で睨まれたらと思うと、少し怖くなってさ」
わたしもお父さまに彼氏を紹介したことはないから、その反応は予想がつかないけれど、そんなに怖がるようなことかしら。
でも、お姉さまがご結婚なさった時は、お母さまはニコニコ、お父さまはだいぶショックを受けていらっしゃったような……。
そもそも、お父さまはわたしが縁談を断ることに不快感を感じることこそあれ、ハーラルトとお付き合いすることになんらかの感情を抱かれるのかしら。
──陛下はあなたさまのことをご心配なさっておいでになるだけですから。要するに親馬鹿です。
ふと、アウリールおじさまの言葉が耳の奥に蘇る。
自分のことを嫌っていた母親に似ている娘を心配できるものなの? 正直、子どものいないわたしには分からない。
とにかく、お父さまがわたしのことをどう思っていても、縁談を断って、ハーラルトとの交際を認めていただかないと。
「ハーラルト、ついてきてくれる?」
わたしが彼を見上げると、ハーラルトはさっきまでの頼りない雰囲気はどこへやら、力強く頷いてくれた。
「うん、リズの行くところなら、どこへでも」
「じゃあ、行きましょう。父のところへ」
わたしたちは立ち上がると、扉に向け、並んで歩き出した。まだ手を繋ぐには早い時期。けれど、彼の隣にいるだけで、わたしは充分に満たされていた。
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