第八話 中庭にてメタウルス子爵と
ラリサ伯が下がったあと、リシエラがわたしに向け、眉を下げてかしこまった。
「申し訳ございません、リズさま。父がとんでもないことを……」
わたしはなんでもないことのように笑ってみせた。
「リシエラが気にすることじゃないわ。それに、伯爵のおっしゃったことは理に適っていたもの。ところで、ちょっと部屋を留守にしていいかしら?」
リシエラは「お供いたします」とは言わなかった。こういう時のわたしの行動パターンをよく分かっている彼女らしい。
「……中庭においでになりますか?」
「ええ。誰か来たらよろしくね」
わたしは部屋を出た。
ハーラルトにお詫びにいこうか、それとも、縁談を受けます、とお父さまに言いにいくべきなのか、悩みながら廊下を歩く。
中庭で外の空気に触れてから考えよう。
そう頭を切り替えようとした時、壁に飾られた絵画が目に入る。
祖母の肖像画だ。
この肖像画はわたしが物心ついた時には既に飾られていて、お父さま、お母さまと一緒にここを通るたび、二人は「リズはお祖母さまにそっくり。将来はきっと美人になる」とニコニコしながら言ってくださった。
それに、わたしの本名は「フェイエリズ・アネマリー・マルガレーテ」。
祖母の名「マルガレーテ」を由来としてつけられた名前だとお父さまから聞いていた。
だから、生まれる前に他界したせいで一度も会ったことがない祖母に、わたしは親しみを感じていたものだ。
それが一変したのは、確か八歳くらいの時だ。
この頃になると、東殿の一階だけなら、わたしは両親やお姉さま、お付きの者がついていなくても、一人で行き来することが許されるようになっていた。
ある日、この肖像画の前で女官たちがおしゃべりをしていた。どんな話をしているのか気になって、幼かったわたしはそうっと柱の陰からその様子を見守ることにした。
──王太后陛下は子どもの頃の国王陛下をお可愛がりにならなかったから、メタウルス子爵が国王陛下をお育てになったのですって。
王太后とは祖母のことだと、幼いわたしにも分かった。メタウルス子爵はいつも優しくしてくれる、ハーラルトお兄さまのお父さま、アウリールおじさまのことだ。
お祖母さまがお父さまを可愛がらなかった?
それで、アウリールおじさまがお父さまを育てた?
確かに、お父さまとアウリールおじさまは兄弟みたいに仲がよろしいけれど……。
混乱するわたしの耳に、次の言葉が届く。
──でも、晩年の王太后陛下は国王陛下と仲がよろしかったと聞いたわ。
よかった。さっきの台詞は、きっと何かの間違いだったんだ。ホッとしかけたわたしの心を続く言葉が握り潰した。
──仲がいいフリだったのでしょ。だって、王太子を邪険には扱えないじゃない。
女官たちが去るのを待って部屋に戻ったわたしは、ベッドに突っ伏し、泣きじゃくった。
なぜだか知らないけれど、お父さまはお祖母さまに嫌われていた。
わたしはお祖母さまに似ているから、きっとお父さまに嫌われているんだ。
お父さまがわたしに優しいのは、何かを隠すためで、全部嘘なんだ。
……その思いは、今もわたしの中にいつまでも枯れない根のように残り続けている。
お父さまがわたしたち姉妹を平等に扱おうとしてくださっているのは理解できる。でも、それはお父さまが優しいからで、きっとお姉さまやカトラインのほうが可愛いに決まっている。
だって、わたしには何もないんだもの。それは、「綺麗だ」と言ってくれる男性もいる。だけど、唯一姉妹と張り合えるかもしれない外見すらも、お父さまに冷たかった祖母に似ているのだ。
お父さまはどんな思いでわたしに祖母と同じ「マルガレーテ」という名をつけたのだろう。わたしが祖母そっくりに成長していくにつれて、そう名付けたことを後悔したのだろうか。
ねえ、お父さま。わたしが恋愛結婚の夢を諦めて、今からでも国のために結婚する「模範的な王女」になれば、心から褒めてくださいますか?
わたしは愚にもつかない問いかけをやめると、祖母の肖像画の前を去り、中庭に向かった。
*
回廊に続く扉を開けると、十月のひんやりとした空気が頬を撫でた。
廊下を出る。回廊を警衛する近衛騎士が敬礼を送ってくる。わたしは目礼を返し、回廊を抜け、中庭に下り立った。
秋の中庭には、赤いケイトウの花が咲き乱れている。石畳を歩きながら、わたしは深呼吸をした。自然に触れると心が生き返る気がする。
わたしは考え事をしたい時は、決まってここを訪れる。だから、リシエラもついてこない。
その名の通り、鶏のとさかのようなケイトウの花をつつく。
わたしはこの国の王女だ。王太女ではないから帝王学は受けていないけれど、自分の立場は理解している。生まれながらに国民の血税で恵まれた生活をし、権力を持ち、廷臣にかしずかれる代償として、王族は民に奉仕しなければならない。
少なくとも、わたしはそうして生きている両親やお姉さまを見てきたし、お
ハーラルトに事情を話し、交際を取りやめてもらおう。
初恋の相手とはいっても、今のわたしは彼を異性として好きになったわけではないのだ。ただ、好きになれる可能性が高いだけ。
きっと、酷い女だとハーラルトは思うだろうな。
ふふ、これじゃあ、わたしが今までお付き合いしてきた男性たちをとやかく言うこともできないわね。
ハーラルトに嫌われてしまったあとで、縁談を受けよう。顔も見たことがない相手。けれど、王室や貴族の娘たちは、そのほとんどがそうして結婚してゆくのだから。
わたしがヴィエネンシスの王太子と結婚すれば、お父さまはご満足なさるだろう。
そう考えて納得しようとする。それなのに、心がしくしくと傷んだ。
夢を諦めて政略結婚をしなければならないから? それとも、ハーラルトに嫌われてしまうから?
……自分でも、よく分からない。
ぼんやりしていると、すぐうしろで石畳を踏む音がした。
振り返る。立っていたのはハーラルトのお父君、メタウルス子爵にして秘書長官のアウリール・ロゼッテ博士だった。博士と呼ばれているのは、彼が正真正銘の医学博士でお父さまの侍医も兼ねているからだ。
アウリールおじさまは五十代前半なのに、老いというものを感じさせないお姿をしていて、ハーラルトによく似ている。瞳の色も彼と同じ若草色で、髪の色は少し色合いの違う薄茶色。
アウリールおじさまはすぐにその目を優しく細めた。
「ああ、やはり、リズさまでおいででしたか。お一人でどうなさいました?」
ご令息のことを考えていたのです、とはもちろん言えず、わたしは真実ではないけれど嘘でもない答えを返す。
「少し、外の空気が吸いたくなって……」
「わたしもです。正殿に詰めていると、この中庭は癒やしでございますよ」
アウリールおじさまのまとう雰囲気は柔らかい。彼は昔から、我が子同然にわたしたち姉妹を可愛がってくれた。わたしにとっては、お父さまよりも親しみを感じられる存在と言えるかもしれない。
それだけに、これからのことを思うと罪悪感を感じてしまう。
「そういえば、国王陛下がヴィエネンシスの王太子との縁談をリズさまにお持ちかけになったでしょう?」
まるで「朝食はパンでしたよね?」と尋ねるように、おじさまがそう切り出したので、反応が少し遅れた。
「……は、はい」
「あれ、お断りになっても構いませんよ」
「ええ!?」
驚くわたしに、おじさまは苦笑してみせた。
「陛下はあなたさまのことをご心配なさっておいでになるだけですから。要するに親馬鹿です。聞けば、王妃陛下にもご相談なさらなかったとおっしゃるのですから、呆れた話ですよ」
お父さまが、わたしのことを心配……?
にわかには信じられないけれど、アウリールおじさまは嘘をつくような方ではない。
もしかして、わたしが一人の
「え、ええと、どうしてそのようなお話に……?」
「昨日、王妃陛下が『夫が娘の縁談を勝手に進めようとしているらしい』とご相談くださったのです。国王陛下を問い詰めたところ、『あくまでも内々の話にしたかった』と」
わたしは「あ」と声を上げた。
「それで、ラリサ伯もご存じなかったのですね」
アウリールおじさまが目を丸くする。
「おや、彼の知るところにもなりましたか。ラリサ伯は生真面目なので少し面倒ですが、わたしが話しておきましょう」
「で、でも、リュシアン陛下は、その、危険なお方だと……」
「国同士の不和という負債を若い世代に押しつけないで、外交努力をするのが我々の役目です。それに、この縁談は我が国にとって大したメリットはございませんから」
そ、そうなの……? でも、わたしは王女だし、少しでも国の利益になるように行動したほうが……。
アウリールおじさまはこちらを安心させるように、ふわりと笑った。
「リズさまは、お好きなお相手とご結婚なさってよろしいのですよ」
その言葉が胸の奥まで染み渡った時、奇妙な懐かしさが込み上げてきた。泣き出したくなるような不思議な気持ち。昔、誰かに同じようなことを言われた気がした。
わたし、好きな人と恋をして、結婚してもいいの……?
──なら、もっと君に好きになってもらえるよう頑張るよ。
ハーラルトの輝くような笑顔が浮かぶ。
気づくと、わたしは問いかけていた。
「あの、今回の縁談がヴィエネンシスの王太子とのものだということをハーラルトさまもご存知でしょうか?」
おじさまはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、国家機密ですから」
多分、おじさまはわたしとハーラルトのやり取りを知らない。元々、息子を王女に近づけて逆玉の輿を狙うとか、そういうことは考えもしない方だ。
「わたしはそろそろ正殿に戻ります。リズさまはどうぞごゆっくり」
立ち去ろうとしたアウリールおじさまの背中に声をかけずにはいられなかった。
「おじさま! ありがとうございます……!」
アウリールおじさまは振り返ると、にっこり笑って応えてくれた。
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