2 異世界転移

「おじさま。……おじさま?」


 不意に鈴が転がるような美しい声が俺の耳に響いた。ずっと聞いていたくなるその声は、さらに音色を奏でる。


「もしかして今なら気づかれずに色々と……。い、いえ、今だけは自重しなくては……おじさま、起きてください、おじさま!」


 今度はやや切羽詰まった声だった。少し残念に思いながらも、俺の意識は徐々に浮き上がっていく。


 この声は……伊勢崎さんだ。


 そうか、俺はナイフで刺されて……ナイフの傷が綺麗に消えてなくなって、それから――どうなったんだっけ……?


 俺はようやく重いまぶたを開いた。すぐ近くに伊勢崎さんの心配そうな顔と、後頭部には柔らかな感触。どうやら俺はまた伊勢崎さんに膝枕をされていたらしい。


 俺は伊勢崎さんに礼を言いながら体を起こし、辺りを見回した。


 辺り一面はほとんど草木も生えておらず、ただただ荒れた大地が広がっている。まるで以前写真で見た火星の荒野のようだ。


「伊勢崎さん、どうして俺はこんな所に? というか、ここってどこなんだろう?」


 俺の問いかけに伊勢崎さんは静かに答える。


「……おそらくですが……ここは前線都市グランダのすぐ近くだと思われます」


「前線都市グランダ」


 そんな市町村を聞いたことはない。意味もわからずオウム返しをした俺に、伊勢崎さんが真剣な面持ちでコクリとうなずいた。


「ここにいては危険です。今すぐに場所を移動しましょう」


「う、うん。それには賛成だけど、それでここはどこなのかな?」


「前線都市……いえ、そうでしたね。それだけじゃわかりませんよね。ここは……つまり……」


「つまり?」


「……異世界です」


「異世界」


 もうオウム返しするしかなかった。俺が絶句していると、伊勢崎さんがスカートに付いた土を払いながら立ち上がった。


「私に大聖女の聖なる力が戻り、その力で瀕死の重傷を負ったおじさまを回復させました。そしてその後……どういうわけか、私とおじさまは異世界に転移したみたいなのです」


「ええと……俺も学生の頃は異世界ライトノベルとか少しは読んでいたけど、異世界ってそういうアレってことなのかな?」


「ふふっ、そうです。そういうアレです」


 伊勢崎さんはくすくすと笑いながら答えた。俺が理解したことが心底嬉しかったのだろう。


 その笑顔は純粋で、俺を騙したりドッキリを仕掛けているようにはとても思えなかった。それくらいの信頼関係は俺たちにはあると思う。


 俺と伊勢崎さんは異世界に転移した――どうやらそれを信じるしかなさそうだ。



 ◇◇◇



 そうして比較的安全だという町に向かって歩いていく最中、伊勢崎さんからまずはこの世界の話を聞いた。


 ――今から十年以上前の話になるが、伊勢崎さんは両親を交通事故で亡くしている。


 高速道路で対向車線からはみ出してきた居眠りトラックと衝突したのだが、その時、車には両親と当時五歳だった伊勢崎さんが乗っていた。


 事故を起こした車からは両親の遺体が見つかった。しかし伊勢崎さんだけは見つからなかった。


 それからしばらくの間、伊勢崎さんの捜索は続けられたのだが、高速道路のすぐ近くに川が流れていたこともあり、跳ね飛ばされてそこに落ちたのだろうということで捜索はさらに難航し、やがて打ち切られた。


 そしてそれから約六年後。交番に保護された一人の少女が伊勢崎さんのお婆さんに電話をかけてきた。それが六年間行方不明だった伊勢崎さんだ。


 行方不明当時は黒かった髪はなぜか銀色になっており、空白の六年間の記憶もない十一歳の少女であったが、質疑応答とDNA検査の結果、たしかにあの事故で行方不明になった伊勢崎さんだと判明。それからは祖母の家で暮らすことになった。


 両親の衝突事故はニュースでも取り上げられたが、伊勢崎さんが戻ってきた件はニュースにはならなかった。


 これはで懇意にしている警察の方々が裏で手を回したのだと聞いている。


 なお、伊勢崎さんの本当の名前は聖奈。日本で有数の財閥、城之内財閥のお嬢様である。


 さすがにこのご時世、そのままの名前ではバレてしまうことも考えられるので、伊勢崎さんのお婆さんの旧姓に変更し、なにやら手を回して戸籍もお婆さんの養子ということになったらしい。


 ちなみにここまでの話は、伊勢崎さんと仲良くなるうちに伊勢崎家で鍋を囲みながら聞いていた話だ。近所に住んでいるだけのリーマンの俺に、どうしてこんな事情を話したのかは謎だけど。


 問題は彼女が行方不明だった空白の六年間だ。


 彼女が言うには、本当は記憶喪失にはなってはおらず、その六年間はこの異世界に転移していたと言う。そこで大聖女として生活していたのだそうだ。まさに異世界ラノベのお話のようである。


 そのような話をしながら荒れた大地を歩いていくと、やがて遥か遠くに高い壁が見えてきた。


 壁はところどころ破損しており、それを修繕しようと作業している人の姿も遠くから確認できた。その様子を見て伊勢崎さんはホッとした表情を浮かべる。


「どうやらここは前線都市グランダで間違いなさそうです。おじさま、スーツ姿は目立ちますわ。今は脱いでくださいませ」


 俺は伊勢崎さんに言われるがままにスーツを脱ぐ。だがその下に着ていたワイシャツはべっとりと血まみれだ。


「うわ……逆に目立たないかな、これ」


「いえ、ここは戦場ですから……。おそらく大丈夫ですわ」


 そう言いながら伊勢崎さんは制服のブレザーを脱ぐと、しゃがみ込んで土を掴み、着ている真っ白なブラウスを土で汚し始めた。


 そうして薄汚れたブラウスを眺め、伊勢崎さんは満足げにうなずく。


「これで目立たないと思います。さぁおじさま、行きましょうか」


 それぞれが自分の鞄に上着を入れ、俺たちは再び壁に向かって足を進める。


 やがて壁に近づくと、近くで作業していた上半身裸の男が声をかけてきた。


「おう、嬢ちゃんは魔術師か? 今日は災難だったな。そっちの兄ちゃんも血まみれだが平気かよ?」


 おじさまおじさまと言われ続けていたが、久々に兄ちゃんと言われた気がする。


 というか異世界だというのに、言葉は通じるんだな。これも異世界ラノベの定番ではあるけれど、どういう理屈なんだ……。


 異世界初体験で戸惑う俺とは違い、異世界経験済みの伊勢崎さんは慣れた様子で肩をすくめながら答える。


「この方のは単なる返り血よ。それにしても、まったくこんな不毛な争いをいつまで続けるつもりなのかしら。今年で……何年目でしたっけ?」


「十八年だよ。まったくいい加減飽きてきたぜ!」


 ガハハと笑いとばす男。伊勢崎さんもやれやれと言った様子で苦笑を浮かべると、そのまま男の横を通りすぎていき、俺もその後に続く。


 すると伊勢崎さんがボソリとつぶやいた。


「……十八年ってことは……ここは私が殺されてから十年後の世界ってことね」


 眉をひそめる伊勢崎さん。なにかまた物騒なワードが飛び込んできたんですけど?

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