プラダを脱いだ悪魔②

「ゆめちゃん、なんか想像してたのとだいぶ違うわね……」


 新しい、また懐かしい職場の上司は眉を下げて笑った。

 上司は五十代の女性で、よくわからないくらい穏やかで優しいのに、それに輪を掛けてよくわからないくらい仕事の押しが強い、所謂『強かな女性』である。

私がハタチの頃勤めていた頃にも彼女は居て、当時から優しい先輩だった。要は彼女は出世をした。


「声低。酒焼け?」

「いや下戸なんで私……煙草でやられました」

「もーっ。高くて感じの良い声出してね!」

 上司は昔よりも少しだけ草臥れた目元を緩めた。その年月は嫌味が無く、穏やかだ。一方の私は乾いた笑い声を出して頷いた。可愛いハタチの女の子は、世捨て人みたいな三十路になっている。


 仕事に着て行くのはいつも似たような服である。

 Tシャツ、スウェットパンツ、一応仕事なのでジャケットと、ローヒールのパンプス。機嫌が悪い時は隠しもせずにジャケットを羽織らず、パンプスはスニーカーになった。

 朝はギリギリまで寝て、そのいつもの服を着て、ベースメイクと眉だけ描いて、家を出る。始業三十分前に着いて、職場の喫煙所で数本吸ってから勤務開始。機嫌が悪い時は喫煙所の床に蹲って吸った。

 喫煙所はいつも、誰もが正しく他人に無関心だ。時折顔馴染みの人間同士がサワサワと静かに話をしている。私は煙草を吸っている時に話しかけられることが何よりも嫌いなので、いつも「私、とても機嫌が悪いです!」という顔をしていた。眉間に縦ジワ、身体を傾けて立つ。

 喫煙所あるあるだが、時間によってある程度メンバーが固定されている。このおじさんよく見るな、とか、このお姉さんは火曜日この時間に必ずいる、とか。私も多分ある程度覚えられて、しかし誰も話しかけてこない。それは心地良かった。誰も私に関心を向けないでくれるのは、すべてを投げ捨てたかった私には都合が良かったのである。

 重たい煙草は疲労を鈍麻させるのにちょうどいい。それは仕事の疲れであり、繰り返した挫折による疲れでもある。

 そうやって不機嫌に煙草を吸えば、私は自席で感じ良く仕事が出来た。ある種のメリハリでもある。

「ほどほどにしなさいよー」

「禁煙しなさい禁煙」

「ガムいる?」

 しかし喫煙者のいない職場では浮いており、先輩方は揃いも揃って私の喫煙を諌めた。何なら上司は「禁煙してほしいから」と喫煙所の場所を教えてくれなかった。警備のおじさんに場所を訊いたら教えてくれるので、それは大した障害にはならなかった。

 挨拶の無い職場ビルの中は無機質だ。薄らと、敵意すら透けている。きっと皆疲れているのだろう。満員電車みたいな空気感である。


 さてその日、私は休みであった。衣替えをしていた。夏物のTシャツを洗って仕舞う。薄手の素材のスウェットパンツも。

 煙草臭い部屋の中、箪笥をゴソゴソやっていたら──不意に手に触れたのはレースのタイトスカートだった。

 ピンクの繊細なレースと、完璧なシェイプ。

 所謂『プラスサイズブランド』のそれは、何と無く捨てずに取っておいたものである。

 捨ててなかったなそういえば、と私はスカートを広げて、仕舞い直し。


 ほんの気まぐれである。

 別に理由があったわけじゃない。

 好きな男が職場にできたとか、そういうのでもない。

 ただの気まぐれで、職場に履いて行ったのだ。きちんとメイクとヘアセットをして、かつてキラキラしながら職場に行ったように。


 ハイヒールというのは歩き方にコツがある。私は久々に足を入れるピンヒールのパンプスに、理由もなく心をときめかせた。スカートもブラウスも『可愛い』が好きだった当時のもので、新品ではないけど気に入ってたものだから、自然と動きが当時に戻る。

 背筋を伸ばし、コツコツと控えめな踵の音を伴い歩くのは気分が良かった。


「ゆめちゃんどうしたの! 可愛いわね。お洒落」

「あらーっ! いつもそういう格好しなさいよ」

 先輩たちには大好評である。

 私はちょっと気分良く仕事をして、さて休憩時間。

 喫煙所に行って、こんな可愛い服を着て地べたに座るわけにはいかない。私は背筋を伸ばして窓辺に立ち、いつもの煙草に火を付けた。喫煙所の中は静かである。

 様子が変わったのは、ひとりの男性が入ってきてからだった。五十代くらいの、サロンで焼いたような黒い肌と白髪頭。仕立ての良いスーツを着ている。彼は何やら私をジロジロ見て、煙草を吸い始めた。何だか、身体がこっちを向いている。

 さて私は先述の通り、私は煙草を吸っている時に話しかけられることが何よりも嫌いだ。ひとりの時間をひとりの時間として過ごすことが大事なのだ。それなのに、

「あなた、ここでよく見るね」

 話しかけてきやがった! これに私はザーッと血が下がるような怒りを覚える。腹の底が冷たく、頭がカッと熱くなった。


 多分、現代日本で女性が生きていると、若い頃は普通にナンパを受ける。それは綺麗なひとだからとかじゃなくて、女であるからだ。女であり、話しかけやすそうな雰囲気があれば、ナンパ男はナンパをする。悪く言えば『隙がある』女ほどナンパをされる、とも言えるかもしれない。少なくとも私はそう捉えている。

 このナンパというもの、大抵の場合、ちっとも嬉しくない。受けて嬉しいナンパは、ナンパを待っている時のナンパか、余程スマートなナンパだろう。嬉しくないし、困るし、端的に言って不快なのだ。

 しかも、ナンパはわかりやすい。話しかけられた一言目、その目を見ればわかるのだ。ああ私はナンパをされている、と理解できる。


 理解できた。ナンパをされた。いちばん話しかけられたくない時に。

 喫煙者の友人に聞くに、喫煙所のナンパはよくあるらしい。私は喫煙者になってから初めて受けたからわからなかったけれど、それは酷く不躾なものに感じられた。

 職場の喫煙所というのは逃げ場が無い。無視をしても後に障るし、その気が無くても下手に話をしてあげてしまうと勘違いをされる。だから私は余計に怒り狂った。こいつ私を舐めてるな、と言葉を失い、ややあって、

「はは。左様ですか」

 低い声でそう言って場所を変えた。全身全霊の拒絶であった。


 その後の記憶は曖昧である。自席に戻ってから私はぐるぐる考え続けた。

 三十過ぎでナンパ? 太ってるのに? ちょっと『可愛い』をしただけで舐められるの? 逃げ場がない場所で?

 腹が立ちすぎて先輩たちに愚痴ることすらできない。私は受電中以外はジッと黙って俯いて、やがてひとつの結論に辿り着いた。


 このスカートもブラウスも、ヒールも、全部捨てて仕舞えば良い。

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