プラダを脱いだ悪魔①

 十年前に勤めていた職場に欠員が出て呼び戻されて驚いたのは、「挨拶をしても無視される」ということである。

 私の職場は商業施設内にあるコールセンターである。商業施設なので、コールセンター以外にもたくさんの店やサービスが軒を連ねており、少なくとも十年前、ハタチの私がニコニコ挨拶をすればニコニコ挨拶を返してくれる人しかいなかった。

 まあ私も十年経てば図太くなる。大人になるってそういうことだ。

 挨拶を返してくれなかったからと言って別段気分を害しもしないし──ただ驚いた──、お客様に罵詈雑言を浴びせられてもメソメソせずに中指を立てながら穏やかな声を出す。ハタチの時分は毎朝二時間かけてメイクとヘアセットをしてお洒落してキラキラツヤツヤ仕事に行っていたのを、着替えとメイク合わせて三十分で済ませるようになる。


「お前変わったよな」

 職場の古株であり、ハタチの時分の後輩であり、また私が退職してからも友人であり続けた友人は笑った。彼女は私と同じくらい口が悪く、しかしその心根は繊細な女である。

「メイクが変わったとか、体型とか髪型とか服装とかじゃなくて。発声の仕方も、表情も、立ち姿まで別人だよ。なんていうの、『凄み』がある」

 彼女は私が変わった理由を知っている。常に傍にいる友人であったからだ。

 モデルを志したその夢の挫折と、離婚に伴う失恋。彼女はそれを見ていた。

「大人になるってそういうことだろ」

 私はちょっと笑ってからヒラヒラ手を振って喫煙所に向かった。

 ひらひらのワンピースを着ていた身体に纏うのはスウェットパンツと安普請のジャケットであり、メイクも髪型も手抜き、スニーカーであった。


 私は物心ついた頃から『可愛いこと』が好きだった。

 それこそピンクだとか、繊細なアクセサリー、手の込んだメイクとネイル、可愛いリボンの付いたハイヒールにお花の匂いのする香水。髪は長くて毎日巻いて、カラーコンタクトと、当時流行っていたつけまつげで毎日全力のおしゃれをした。当時付き合っていた彼氏が大好きで、いつ呼び出されても良いように、彼の前でも彼の前でなくても可愛く過ごした。可愛い声で話し、可愛い仕草をする。

 別段、「女の子なんだから可愛くするべき」と思っていたわけではない。ただ好きだから、砂糖菓子みたいに甘い女の子として生きていた。彼氏に可愛いと思って欲しかった。


 モデルを志したきっかけは、趣味で知り合ったカメラマンさんに撮ってもらったポートレートを雑誌編集部に送ったら読者モデルになったことだ。それは素晴らしいことに思えた。雑誌のロゴの入ったサイトで、自分のブログを書ける。私は当時から物を書くのが好きだったので、よくブログを更新したし、私の『可愛い』は他の子達には負けたけれど、面白い記事を書こうと思って書けばちゃんとランキングに成果として現れた。

 そう、他の子達には負けた。『可愛い』には果てが無いのだ。読者モデルの子達と女子会に行けば信じられないくらいキラキラしていて目が霞んだし、──惨めになった。自分が可愛くないことが辛かった。


 さてこれと同時並行で起きたのは、当時付き合っていた彼氏との結婚である。気が遠くなるような回数のアピールの果て、私は大好きな彼氏と結婚したのだ。

 これはもう全ての過ちだった。

 多分、私も悪かったし、彼も悪かった。生活は混沌を極め、私は精神をおかしくした。どのくらいおかしくしたって、閉鎖病棟に入れられるくらいおかしくした。薬とストレス過食とでどんどん太り──なお今もその脂肪はちゃんと負の遺産として私の腰回りに乗っかっている──そう、肥満で読者モデルどころではなくなったのである。


 さてそうなるとどうするか。私は『ぽっちゃりモデル』なるものを志し始めた。

 オーディションはだいたいいつも二次まで進んだ。モデルにはなれなかった。


 そうこうしているうちに、私は当時の夫と離婚をする。その頃には生活も、私の身体も精神も凄惨なものになっていた。

 実家に戻り、在宅で仕事をする。美容ライターの仕事は上司との折り合いが悪い。上司は『可愛い』女性であり、物語の中の『可愛い女子』みたいに感情的に喚いた。


 馬鹿みたいだ。


 在宅の仕事をしていた時、不意にそう思った。仕事のストレスで吸い始めた煙草で部屋の中を燻しながら、碌な服も着ずに溜息を吐く。

 天井を見上げれば、ヤニで黄色く汚れている。指紋だらけのあぶらぎった眼鏡のレンズで、視界は白く曇っていた。


 全部馬鹿みたいだ。やってられるか。可愛いとか、お洒落とか、美容とか、全部馬鹿みたいだ。

 私がそれをして得たものなんて何も無い。全部まやかしだ。

 煙草の煙は細く立ち上り、私は眉根を寄せて、眼鏡を押し上げ、手のひらで顔を擦る。


 私はその日そのまま、上司に退職願いを出し、『可愛い』の残骸を捨てた。

 私のいちばんのお気に入りだった、そして私にはもう若すぎる、リボンのワンピース。散々着て歩いた、白いワンピース。レースのタイトスカートは捨てずに箪笥の奥に仕舞い込んで。

 二度と踊らされてたまるか。くだらない。

 涙も出なかったし、咥え煙草で全ての作業を終えた。部屋の床に灰が落ちても気にもならない。


 私が古巣に呼び戻される一週間前、そして私が『可愛い』を取り戻す一年前の話である。


 そう、これは私が『可愛い』を取り戻す話である。

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