恋と狂犬とイタリア人

 いつも行く美容室の担当のスタイリスト氏は、美容師としての腕のみならず、気さくで愉快なお人柄も魅力の男性だ。愛妻家で、子供たちのお父さん。

 私は二十七の時分から彼にお願いしていて、つまりもう五年の付き合い。

 私は美容師さんに失敗された経験もそれなりに多く、また髪型が決まらないと死んでしまう病に罹っているので、基本的に友人の結婚式の日のヘアセットなども彼に頼んでいる。ほかの人間に触らせることに警戒心があるのだ。

 私と彼がInstagramの相互になったのは、確かここ二年くらいの話。彼のサロンワークや日常、ねこちゃんの写真に私はいいねをするし、彼も私のくだらない投稿──父の作った豚汁の画像とか、踊りながら煙草を吸ってる動画とか──にいいねをする。

「ゆめじさんの投稿、いつも自然体で良いですよね」

 今日髪を染めに行けば、彼はちょっと笑ってしまいながら言った。その笑いに嘲りの色は混ざらず、例えるなら、動物園でおじさんみたいに座ってお腹を掻いているカンガルーを見かけた時のものに似ている。

「豚汁美味しそうでした」

「あれねぎを青いままにしとくのがコツなんですって。父が言ってました」

「へぇ」

 会話はいつもゆるい。特に中身のない、美容の話でさえない世間話である。

 本日の議題は、先日、私が当時惚れていた男にどぎつい理由で振られたことから恋バナであった。

「父が懐に歳の近いイタリア人を隠してるの知ってるんですよ」

 私は沈鬱な声でいった。鏡越し、スタイリスト氏は僅かに目を大きくして「え?」という顔をする。

「父と話してて、そのイタリア人が会話に出てきた時に五百万回くらい『紹介しろ』って言ったんですけど、『だめだめだめ無理無理無理カッコよくないカッコよくない』ってド拒否で」

「ゆめじさん、お父さんに可愛がられてますからねぇ」

「違うんですって。この場合匿われてるのはイタリア人の方なんですって。『ラテン系は女を殴るから』とか言っておいて、絶対あれ言い訳だから。だって顔に書いてある。見てわかる。親子だから」

 私がぶちぶちグチグチ言うのを聞いてスタイリスト氏は引きずるように笑いながら髪に薬剤を塗る。今日はラベンダーアッシュである。

「『ラテン系は女を殴る』って言うけどさ。個人差ですよ。殴られても別に困らないし」

 私は顔を歪めながら声を荒げた。これは世間に対する不平である。スタイリスト氏は眉を上げて私の目を見る。彼は私が昔の彼氏と、スタジオジブリも真っ青の『DVド屑合戦ボコボコ』を繰り広げて別れたことを知っているので。

「そりゃあね。日常的に、とか、あざだらけになるまで骨が折れるまでとかやられるのは嫌ですよ。怖いし。痛いし」

「そうですねぇ」

「でも普通に考えて、喧嘩したら手って出るくないですか? 殴られたら殴り返せば良いんですよ。殴ったら殴り返されれば良いんです。まあ性差はありますからね、私は男性には勝てませんから、殴るには道具使わせてもらいますけども。やるからには勝ちたいから」

 二拍。二拍、沈黙が流れた。その沈黙に、私は「アレ何か間違ったこと言ったかな」と考える。多分間違ったことは言ってないはずだ、と結論付けてスタイリスト氏を見れば、彼は何かを堪えるような顔をマスクの上から覗かせていた。

 ややあって、

「……狂犬?」

 半笑いの声がする。

 ──私今狂犬て言われた? 人生で狂犬に例えられることってあるんだ! 私は引きつれたみたいな笑い声をあげてしまいながら、遠い昔を思い出していた。

 さて母はエッジの効いた女である。私は自分がかなり苛烈な女である自覚があるが、母はその比ではなく、しかも自分よりたおやかな女はいないと心の底から思っている。端的に言ってヤバい女だ。彼女はオードリー・ヘップバーンを自称しているが確かに美人で、ジミーチュウのヒールを愛する女。だけれど世紀末を生きていた。

「ゆめじさ。喧嘩はして良いよ」

 私が幼い頃、多分小学校に上がったばっかりとかの頃。私は確か妹と喧嘩をした後で、私と妹を懲罰した後に換気扇の下で煙草を吸う母の前で直立不動になっていた。

「喧嘩はして良いけど、人を殴るのは素手にしなさい。人って物で殴ると案外簡単に死ぬから。殺してしまうのは良くないから、納得するまで素手で殴りな」

 その時の母の顔は覚えていない。窓際で逆光だったから、顔は塗りつぶされたみたいに黒かった。声に柔和な笑みを含んでいたのは覚えている。柔らかくて優しくて、髪を撫でながら子守唄を歌ってくれるような声で母は『暴力』を口にした。私はその姿を見て「このひとには逆らっちゃいけないんだなぁ」と思っていた。

 ──確かに母も道具は使うなと言った。殺してしまうのは良くないからと。確かにこれは狂犬でも仕方ないかもしれない。私は自らの倫理を見直して僅かに背筋を伸ばす。

「殺してしまったり後遺症が残ったりしなければ良い気がします。素手の方が良いかも」

 私が真剣な顔で訂正すれば、スタイリスト氏は成る程といった顔で頷き、

「うん。狂犬」

 味わい深そうにその言葉を反芻したのであった。

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