海井 奏多【憑依】.3


 段々と日が登るのが遅くなってきた。

 少しづつ外気温が下がっていくのを誰よりも早く肌で感じられるのは、ここが海が目の前だからだろう。

 朝とも夜ともつかない空の色を窓越しに眺めながら、まだ眠っている金崎が寝息を立てているのを確認して、できるだけ静かに食事を用意する。

 金崎ができるだけ不自由さを感じないように、一通りテーブルにセッティングしてラップを掛け、家を出る。生活のルーティンが出来上がってしまえば特に大変だとも思わずに過ごせるようになった。

 不安なのは、家に帰った時に彼女が息をしていない事だが、今の所そんな心配は杞憂で、穏やかに問題なく暮らせている。


 早朝からの現場で仕事をこなした後「今日だけは急いで帰らねえと絶対キレられる」と、一体何の話なのかの説明も無いまま珍しくさっさと帰宅する小川を見送って、俺は鴻上珈琲へ向かった。





 今日は全てを話そう、と決めていたが故に、赤いドアを開くことが少し怖くなって一瞬躊躇した。一度呼吸を整えてからドアを開くと、心地良い焼き菓子やコーヒーの匂いとオーナーの優しい顔に迎えられる。

「おう、海井。仕事帰りか、お疲れ様。ここ座んな」

 オーナーに言われるがままに、カウンターに座る。

 中途半端な時間だったからか、店内には見覚えのある常連が二人雑誌を開いているだけで、オーナーは「丁度、さっき暇になったところ」と豆を挽きつつガトーショコラの端切れにクリームを乗せて俺の前に置いてくれた。

「あの、オーナー。俺、話したいことがあって」

 俺がそう言うと、オーナーは若いバイトに何か指示を出し、俺の前へコーヒーを置き話を聞く体勢を取ってくれた。


 俺は海で金崎と初めて会った日の話をした。

 金崎が雄二と別れ鴻上珈琲を無断欠勤してから金崎の身に起きていた酷い事や怪我の話、オーナーの電話に彼女が出られなかった理由、金崎の夫が自殺をしていた事や、海で俺と偶然会ってしまって二人で泣き喚いた後に彼女が自殺未遂をした事も。


 オーナーは黙って聞きながら、たまに鼻をすすった。

「……海井、気付いてやれなくてごめんな。俺はどうしていつも気付けないんだろう、酒田の時だってそうだったのにな」

 「オーナーにはちゃんと話すつもりでしたけど、俺も一気にいろんな事が起きすぎて、うまく話し出せずにいました。心配してくれてたのは分かってたのに、黙っていてすみませんでした」

「いや、いいよ。こうして顔出して話してくれてるしな。でも辛かっただろ、全部一人で抱えるのは。よく頑張ったよ。金崎さんは、どうしてる?」

 表情にやや不安を滲ませながらも、オーナーは落ち着いた声色で問いかけた。

 まだ湯気が上がるコーヒーを一口飲んで、病室にいるボロボロの金崎が俺を呼んだ声を走馬灯のように思い返す。

「金崎さん、記憶障害があります」


 話し始めると、俺は自分で想像していた以上に冷静だった。

 緊急搬送された金崎が目を覚ますと、彼女の認識の中で俺が「雄二」になっていた、ということから、家を買い現在の生活に至るまでの流れを淡々と説明した。

 しかし、今までのような焦燥やもどかしさを感じない。

 それがどういう事なのか正直分からないけれど、何となく憑き物が落ちたような感覚だった。或いは、その逆なのかもしれない。


 俺がこの数ヶ月の出来事を整理するようにオーナーへ話し終えると、オーナーはしばらく考え込んで、慎重に言葉を選びながら俺を諭すように口を開いた。

「……なあ、海井。それはお前が頑張る必要があるのか。専門家に任せてお前はお前の人生をやればいいんじゃないか。金崎さんのことは可哀想だけど、俺はそれよりも海井のことが心配だよ。お前、自分で気付いてるか分からないけど、凄く痩せたぞ。辛いことは山程あっただろうけれど、これ以上背負う必要ないだろ」

「いいんです、きっと雄二ならそうする」

「でも、お前は酒田じゃ」

「分かってます。俺は雄二じゃない。でも、愛ちゃんは俺を雄二って呼ぶんです」

「だからって、」

「だって、今も、雄二、ここで生きてんですよ!」

 咄嗟に掴んだ心臓がバクバクと血を運び続けている。


 つい語尾を荒らげて、ハッとして周りを見渡し、オーナーへ小さく謝罪をした。

 気付けば冷めつつあるコーヒーに手を伸ばして、香ばしい甘さに落ち着きを取り戻す。優しい人の淹れたコーヒーは優しい味がして、何故か金崎の「大丈夫、大丈夫」という言葉が、耳元で聞こえた気がした。

「……これ以上、あの人を一人にしたら雄二がキレます。放っといて死なれでもしたら、多分もっとキレます。だから、生きていく用意をしたんです。雄二が愛ちゃんにしてやりたかった事を、俺がするんです」

「海井お前……」

「俺なら大丈夫。オーナーの言う通りにちゃんと飯食ってちゃんと寝て、顔出します。だからオーナー、俺にもコーヒーの入れ方、教えてもらえませんか」


 それまでずっと真剣な顔で向き合ってくれていたオーナーは、カウンターに手を付き項垂れて、呆れたように笑った。

「……もう何なんだ、お前たちは。高校の頃から変わらねえな、心配ばっかかけさせやがって。話は分かった、いいよ。旨いコーヒーの淹れ方教えてやる」

 オーナーは俺の冷めきったカップを下げて、新たに豆を挽きながら話を続けた。

「でもな、海井。約束があるぞ。まず、もう一人で背負うな。俺はお前の味方だ、金崎さんや酒田の味方でもある。状況を理解した今、俺にだって出来ることはあるだろう。俺にも手伝わせろ、これは絶対だ。

 それから、金崎さんをここへ連れておいで。常連さん達に会わせたくないなら閉店後だっていい、俺は待ってるから。海井のことを酒田だと思っているなら話は合わせるから。彼女はうちのコーヒーとケーキが好きだったよ、食べさせてやるから連れてきな」

 「……ありがとうございます」

「ほら、今度は冷めないうちに飲みな」

 カタンと小さな音を鳴らして、目の前にカップが置かれた。淹れ直してくれたコーヒーが湯気を上げてふんわりと香る。


 店内のどこを見渡しても雄二がいるような気がする。

 二人揃ってバイトをしていた頃の雄二も、俺が客で行くと満面の笑みで隣に座って仕事をサボりだす雄二も、すぐに蘇って見える。懐かしさは感じない、それが幻であろうと、雄二に会える事がただ単純に嬉しいのだ。

 きっとこれからも、俺は雄二の幻影を見続ける。どこへ行っても、何をしていても、雄二が絶対に傍にいるだろう。雄二は俺の中で永遠に生きている。

 俺だって、金崎と何ら変わり無いのかもしれない。

 ぼんやりしていると、オーナーはもう一つのカップを俺の横に置いた。

「これは酒田の分。俺のおごり」

 カウンターに二つ並んだカップは、いつものように雄二が隣に座っているようだ。オーナーは洗い物をするていで俺に背を向けて、涙を堪えた。

 雄二は、どんな時も誰からも愛されていたのだと感じる。

 オーナーが堪え切れずに静かに泣くのを見て、俺も同じように堪えられなくなって瞬きの度に涙が溢れるのを感じながら、怒りとも悲しみとも違う寂しさで喉がギュッと絞まる。





 帰り際、オーナーは「こんな容器しか無かったけど」と、プラスチックの保存容器に入ったパウンドケーキを二人分と挽きたてのコーヒーをドリップバッグに入れて持たせてくれた。人通りの増えてきた駅前通りの店先まで出てきて「海井は大丈夫、うまくいく」と、力強く抱き締めて俺を見送った。


 帰宅して鴻上珈琲へ寄ったことを話しながらオーナーから持たされた紙袋を金崎に渡すと、まるで子供のように目をキラキラさせて喜んだが、その後すぐに何か考え込むように黙りこくり、次の瞬間には不安げな顔をみせた。

「……あの、私、オーナーに事故の事話してないよね。すっかり忘れていたけれど、無断でお休みしてしまってるんだよ、ね? それに、これ、貰っちゃったけど……私達の事、雄二くんが話したの? オーナー、怒ってなかった……?」

 俺はその動揺っぷりに思わず吹き出しそうになる。

 職場恋愛禁止がだったのは覚えているのか。全く都合が良い脳味噌だな、とおかしくてついつい笑ってしまう。

 金崎の為に改ざんされた金崎の世界は、兎にも角にも、金崎の為だけにあるようで、羨ましくも可哀想で切ない。

「オーナー、怒ってないよ。怪我のことも心配してた。ケーキご馳走するから一緒にに顔見せにおいでって言ってたよ」

 そっかあ、とホッとしたように眉尻を下げる金崎の横で晩御飯の準備を始める。

 すっかり手際の良い主夫になった俺は、前日に仕込んでおいた鍋に火を絡めながら二人分の皿を用意してテーブルを拭けるようになった。

 ほとんど家から出ない金崎が今日読んだ本の話や、窓から海を見ていたら子供が貝殻を拾いに来ていた話を聞きながら食事を摂るのも、日常になった。

 このつまらない映画のような日々も、雄二にとっては幸せの一コマなのだろう。愛しい人が孤独を感じず、穏やかに笑って暮らす。そこに自分が一緒に存在すること。

 親友を奪われたようでどこか金崎に嫉妬していた自分が恥ずかしくなる程、雄二はこの時間が大切だった。「雄二」でいるからこそ見える景色は、受け入れるには悔しいが、確かに暖かく美しい景色だ。


「ね、雄二くん、お醤油取って欲しい」

「ああ、うん、待って」

 テーブルの端の醤油差しを取ろうと手を伸ばしすと、うっかり袖が皿に引っかかってしまい、床に落下して大きな音を立てて割れた。

「あ…………」

「うわ、ごめん、かからなかった?」

 慌てて目をやると、金崎は明らかに顔面蒼白で瞳孔を開いてガタガタと震えている。

「……ごめんなさいごめんなさい、あ、あの私が、ごめん、なさ、あ」

「あ、愛ちゃん?!」

「ごめんなさ、ごめんなさい、もうしません、ごめん、も、やめ、ごめんなさ……」

 金崎の目にはみるみるうちに涙が溜まり、唾液なのか涙なのかゴボゴボとまるで水中にでも居るかのような音と同時にひたすら誰かに謝り続けている。頭を抱える腕が戦慄しながら髪を強く握って、ぶちぶちと抜けて指に絡まってゆく。

 治りきらずに腕に残る傷跡を見てピンときた。

 ――フラッシュバックだ。

 急いで金崎に駆け寄り、顔を包んで声をかけた。

「愛ちゃん。大丈夫、怖くない。俺だよ、ここにいるよ」

 何も聞こえていないであろう金崎を抱き締めて、背中を擦りながら呼吸を促す。

 何度も「大丈夫、ここにいる」と繰り返し伝えながら、本当は自分も震えていた。

 ……怖くて仕方がない。金崎が見ている世界が分からない、どこに地雷が埋まっているかも分からない。

 こんな時雄二ならばどうするか、なんて考える間もなく、俺は目の前の金崎をただひたすら落ち着くまで抱き締めて声をかけ続けた。退院する時に医者から処方されていたパニック発作に対応する薬の存在を思い出して、なんとか飲ませる。


 しばらくすると症状は落ち着いた。

 くたくたになった金崎を抱きかかえ、取り急ぎソファに移動させて毛布で包み手を握ると、金崎は「ごめんね」と、またホロリと涙の粒を頬に伝わせた。

「大丈夫。怖かったり、困ったり、泣きたくなったりした時は、俺が守るから。ちゃんと傍にいるから、全部大丈夫。愛ちゃんは、安心していいんだよ」

 金崎は濡れた睫毛をゆっくりと閉じて微笑んだ。

 もたれかかる頭を少し撫でているうちに寝息が聞こえてくる。風が窓に当たる音と深呼吸がシンクロして、自分の中だけがやかましい。そっと体を引き抜いてそのまま寝かせて毛布を直し、近くで優しい香りのキャンドルを焚く。





 こんな事はきっとこれからもずっと付いてくるのだろう。

 金崎の閉じ込めた記憶には、恐怖が必ずセットになっている。

 いつか金崎が、雄二との思い出や大切な記憶を取り戻す日が来たとして、その時には心を蝕み襲ってくる怪物とも同居することになる。それどころか、傍に居るのが雄二ですらなかったと気付いたら彼女はどうなってしまうのだろう。

 本当は思い出して欲しい。辛いことも悲しことも、全部含めて金崎の人生の事を。その人生には間違いなく彼女を愛した雄二がいるから。最後の最後まで愛されていた事を、知らずに生きて欲しくない。

 ……でも。

 全てを知ったとして金崎は、それでも朝を迎えてくれるだろうか。

 「雄二」の居ない怪物だらけの世界を、受け入れてくれるのだろうか。

 

 忘れたままでも金崎が生きている世界と、全て思い出して耐えられなくなる世界。

 雄二が許さないのがどちらかなんて、最早、考えるまでもない。


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