海井 奏多【憑依】.2
「雄二くん、急がないと間に合わなくなっちゃうよ」
休日の水族館は平日昼間とは比べ物にならない程に混み合っていて、あまりの鬱陶しさに夜勤明けの体を目の前の水槽に沈めてしまいたくなる。
大きな回遊水槽の中で一切止まらずこちらを睨むようにして泳ぎ続ける魚の視線に恐怖を覚えて目を逸らすと、金崎はショーのタイムテーブルを眺めながら俺の歩みを急かした。
金崎の全身についた被虐の傷は、失った目玉以外はかなりマシになってきている。
それでも洋服で隠れているからマシに見えるだけで、実際は痕になるような怪我も多く、痛々しい。
折れた骨も徐々に回復してはきていたが、後遺症として半身に麻痺が残り、すっかり体力も筋肉も落ち心に傷を負った金崎は、退院してからも車椅子メインの生活を続けていた。ボロボロの家も可能な限りバリアフリーに対応できるように、少ない預金の許す限りではあったが簡単なリフォームを入れた。
自殺未遂の一件の後、零れ落ちた記憶について金崎には「ひどい交通事故にあった」と伝えてあり、本人は全身の怪我は事故によるものだと自覚している。
娘を失った辺りからの記憶が混濁しているようで、夫からの暴力も、自分と雄二が不倫関係であった事も、その末に二人は別れて夫は自殺し雄二が死んだことも、金崎の口からは一切語られる事は無かった。
そして、彼女の中で雄二は、今も生きている。
記憶を改ざんして一人で勝手に孤独から開放され絶望を捨てた金崎は、雄二から聞いていたオドオドと挙動不審なイメージとはかけ離れた、穏やかながらもごく普通の女性にみえる。
「……トドのショー、見たいなぁ」
俺が絶対に失くすまいと硬質ケースに入れて保管していた、雄二と最後に行った水族館の半券を何も知らずにじっと見つめて金崎が呟いた事があった。
俺は、もしかして水族館なら記憶を戻す手がかりになるのではないかと期待をして、此処に至る。
「……あの、さ。愛ちゃん、ここ、来たことある?」
「ある、と思うんだけど……いつだったかな。雨でショーが見れなくてガッカリした覚えはあるんだけど、あまり覚えていないから相当昔なのかなぁ」
「そっか」
「だから嬉しいよ、雄二くんが連れてきてくれて。ありがとう」
金崎は穏やかな笑顔で俺を見つめた。
案の定、雄二との思い出すら都合の悪い部分は忘れてしまっている。
それが悔しくて腹立たしく、同時に、か細い蜘蛛の糸のような期待がぷつんと切れていくようで悲しい。この調子じゃあ、先も長いだろう。
雄二は金崎と二人で水族館に来た日の事を本当に愛しげに話していたのにな。俺はあんな雄二を初めて見たってのに。最悪だ。
人間は、脳内に溜まったヘドロのような記憶を洗い流すと、あんなに大切だったはずの思い出すらも消してしまうのか。だとしたら、辛さだって残しておくべきだっただろう。綺麗なものまで手放してどうする。
クソ、ああ、でも。
金崎の身に起きた事を全てを知っている訳じゃない、でも壮絶だったであろう事は視覚の情報だけでも容易に想像が出来た。痛みから逃げる、のが生きていく為の手段であった事だって簡単に納得できる。
本当ならすぐにでも殺してやりたいほど憎い相手であるはずなのに、今の彼女には憎まれる筋合いがない。雄二の苦しみよりももっと苦しんでもがけばいいと思っていたのに、それ以上に苦しんだ成れの果てがこれだ。
……為す術もない。
そもそも、顔も身長も声も、何もかもが雄二とは違う俺を、寝ても覚めても恋人と見紛う精神状態なのだ。
今更何を思ったって、仕方がない。
何度も何度も「仕方ない」と押し潰した感情は、今や溢れて爆発する気配すらなくなった。これが、諦めというのかすら、判断がつかなくなっていた。
『ご来館のお客様に申し上げます。本日予定しておりましたトドショーは、トドの体調不良により中止となりました。お楽しみにして頂きました所、大変申し訳御座いません。なお、明日以降のショーにつきましても……』
「あ……」
頭の上でスピーカーから流れるアナウンスを聞き、しゅんとした表情を見せながら手元のパンフレットを開いて金崎は笑った。
「中止だって。残念」
俺は何度も見すぎて一字一句暗記している雄二のリストと、リベンジに来たあの日トドへ満面の笑みで手を振っていた雄二の姿を思い出しながら、金崎の車椅子をUターンさせて順路通りに押し進めた。
「……前にもこんな事、あったんだよね」
「え? 水族館で?」
「ああ、いや。なんでもないよ」
キョトンとする金崎が雄二とここへ来た事を忘れてしまっている事は明らかだったから、わざわざ言わないことにした。
これは俺なりの抵抗でもある。
雄二と水族館に来た記憶は俺のもので、トドのショーを見て二人で大笑いしてソフトクリームを食べたのは、俺だけのものだ。
俺がここへ来たあの一日が、失踪した金崎の代打であったことは最早どうでも良いのだ。彼女がここで雄二と過ごした日を忘れていたって、あの日が本来リベンジの一日で本当ならば雄二だって俺では無く彼女が隣に居て欲しかったとしたって、俺が雄二の表情や言葉を隣で見ていた現実があったことはリアルで、俺と雄二の、二人きりの思い出。俺は忘れたりしない。
その経緯を金崎が思い出せないのならば、まあいい。なかった事、にしておこう。
ああだこうだと言いながらそれなりに楽しむ素振りはしてみたものの、結局水族館には金崎の記憶をどうこう出来るきっかけは落ちていなかった。
俺は水槽の角を曲がる度に雄二がいた影を見て、過ごした時間を思い出して、まだ体が燃えそうなほどの喪失感を感じながら、それでもこうして思い出せることが嬉しかった。
金崎のことは焦らなくても良い。一気に記憶を戻してパニックを起こして、また自殺未遂でもされたら、今度こそ雄二も黙っていないだろう。
雄二なら、きっと、時間をかけて良いと言うと思う。
帰りの電車を降りて改札を抜けると、潮の香りのする風と一緒に予報外れの雨がぽつらぽつらと降ってきていた。
「濡れて風邪引くといけないからちょっと飛ばすよ」
車椅子をいつもより早足で押して歩く。金崎はいいよ、と微笑んで手で雨粒を掬うような仕草をした。
異性の小さな仕草に胸を打たれることがあるだろう。雄二であれば金崎のこの横顔を「かわいい」と言うのだろうな、と肺の中だけで溜め息をつく。
家までそう遠くはないのに、雨は一瞬で本格的に振り始め、玄関の戸を開ける頃には風呂上がりのようにびしょ濡れになった。
車椅子のタイヤを拭いて、慌ててタオルを金崎に渡しながら、着替えを出そうと置きっぱなしの衣類のケースに手をかける。
――しまった。
元々ごく僅かな荷物しか持っていなかった金崎の衣類は多くない。部屋着が、ない。視界の端に、休みの日にまとめて片付けよう、と思っていた洗濯物の山が目に入った。ここの所立て続けに予定外の現場に駆り出されていて追いついていなかった事を思い出す。
「ごめん、愛ちゃん。洗濯終わってないや、とりあえず今これ着てて。風呂のお湯入れてくるから」
自分の衣類の山の中から比較的新しめのTシャツを選んで手渡すと、金崎は目を丸くしたかと思えば、へにゃりと目尻を下げて笑った。
「前にもこんな事、あったよね。私が雨で濡れた時、シャツ、貸してくれたこと、あったよね」
……知らない。
思い出しちゃった、と楽し気な笑い声をあげる金崎に顔が引きつる。
そんな日があったのか、いや、あったって良い。でも、俺はそれを知らない。
思えばこの数か月、金崎から過去の話をされる事がほとんど無かった。
それが記憶が無いからなのか、偶然タイミングが無かったからなのかは分からないが、これまで昔話にならなかった事で俺は完全に油断していた。血の気が引く。
俺は、雄二と金崎の事を何一つ知らないじゃないか。
雄二ならきっと傍に居るだろう、なんて軽い気持ちで一緒に居て、勘違いされるがままに「雄二」を演じていることが恐ろしくなる。
短期間に色々とありすぎたからか、すっかり「してやっている」気になって、でも実際にしているのは最早ただの介護で、これは雄二の姿じゃない。自分が一番本質を理解できていなかった。
俺は、雄二の事を何も知らないのだ。
金崎は曖昧ながらも、雄二を覚えている。一体どこまで記憶していて、雄二をどういう視線で見ているのだろう。雄二と金崎の本当の関係は? 恋人って、つまりどういう関係の事なんだ?
まずい。俺は何をしているんだ、これが本当に正しいといえるのか。
あれだけ「こんな表情見たことない」と感じていた、その「知らない雄二」として生きていく事の異常さに何故気付けなかった。どうかしている。
俺は雄二じゃない。違うんだよ、あんたの恋人じゃない。
「……お、俺、違くて…」
声が震えて上手く話せない。後悔は先に立たないし、気が動転しているときの決断なんてクソだ。古びたフローリングに座り込むと、ギシと歓迎されていない音がして余計に涙が止まらなくなる。
「……雄二くん?」
目線の先で心配そうに俺をみる金崎がゆっくりと自力で近づいてきて、俺をふんわり包むように抱き締めた。こんな事されて良いのは俺じゃないのに。
「……ごめん、金崎さん、俺もうどうしたらいいか」
「急にどうしたの、愛って呼んでよ。雄二くん」
「でも、俺、」
「雄二くん。私、いろんな事覚えてなくってごめんね。なんだか怖いことも悲しいことも幸せなこともあった気がするんだけど、夢を見てたみたいに、全然思い出せないの。それでも雄二くんは優しい。それに雄二くんはずっと優しかった気がする。だから、好きだって事は忘れなかったんだと思う。事故にあって、体中痛くて片目も見えなくなっちゃって、家族も誰も居ないのに、雄二くんだけは今も傍にいてくれてる。私毎日嬉しいんだよ、何かをしてくれることじゃなくって、一緒にいてくれること。でも、雄二くんとのことも、忘れちゃってることが沢山あるよね。きっと凄く悲しませちゃってる。でも私、雄二くんと一緒にこうして生きてることが、どうしたって嬉しいの。だからごめんね、泣かないで」
金崎の細い腕に力がこもって体温を感じる。人に強く抱き締められたのはいつぶりだろう。
俺が何者かも知らないで、記憶のない金崎が俺を肯定する。きっとこの人は本来優しい人なのだろう。雄二が惚れた理由はそこなのかもしれない。
「雄二くんいつも一人で頑張ってる。でも、そんなに頑張らなくても一人じゃないよ。何も出来ないしお荷物かもしれないけど、私がいるよ。それに、ウニさんもいるでしょ」
「……え?」
「ウニさんは雄二くんを、ちゃんと見ててくれるでしょ」
思いもよらない言葉に顔をあげると、金崎がニッコリと笑った。
「ふふ、本当に分かりやすいなぁ。雄二くんはウニさんの名前が出る度に嬉しそう。やっぱり私、ウニさんがちょっと羨ましい、妬いちゃうな。雄二くん、私がこんなんだから、あまり会えてないんでしょう。私のことはいいから、連絡してみたら。きっと雄二くんの力になってくれるよ、雄二くんの心の中を理解してくれるのは他の誰でもなくウニさん、でしょ」
妬いちゃうな、なんて言いながら愛おしそうに俺を見つめる金崎の表情が、俺ではなく雄二に向いているのは分かっている。分かるからこそ、二人の関係に「俺」が存在していた事に驚き、胸が苦しくて、雄二が死んだ時と同じくらい大声で泣いた。
金崎は幼子のように泣き散らす俺を、幼子をあやすように宥めて、何度も「大丈夫、大丈夫」と優しい声色で繰り返した。
気付けば窓を叩く雨音は止んでいた。
俺は雄二のことを知らない。金崎と雄二の間にどんな会話があったかも、どんな日常があったかも知り得ない。雄二がこの状況を喜んでいるかだって分からないし、一生答えは出ないだろう。でも。
雄二の文字が踊るルーズリーフは「死ぬまで一緒にいる」で締め括られている。
どこまでやれるか分からないけれど、俺は雄二になれやしないけれど、俺以上に雄二を理解してる相手はいない。雄二がそう言ったんだ。
ソファで寝入ってしまった金崎に毛布をかけて、貰い物のインスタントコーヒーにお湯を注ぐ。雄二が淹れたコーヒーはもっといい香りがしたな。
……オーナーに全て話して、コーヒーの淹れ方を教わろう。
俺は雄二が生きていた日常を、忘れたくない。これからも雄二と一緒に生きていきたい。
もし、本当に、俺が雄二を理解できていたのだとすれば、雄二はきっと死ぬ気で死んでなんかいなかったのだと思う。
あれはきっと、本当にただの事故だった。
金崎と離れたことが悲しかったのも本当、幸せになって欲しいと願ったのも本当、傍に居て守りたかったのも、俺がいることを「良かった」と思ってくれていたのも、全部本当だろう。雄二は、そういうヤツだ。素直で、優しくて、どんくさいヤツだ。
約束していた「明日」を差し置いて自ら死んだりしなかったと思う。
スマホを取り出してメッセージを開く。
【ウニ、お前がいてくれて本当良かった】
未だに返信のないメッセージをスクロールして、バカ話をしていた日やしょうもない写真を遡って眺める。
雄二、俺もお前がいてくれて良かったよ。
本当は今も居てほしい、いつだって雄二が恋しいよ。
愛ちゃんは今もお前のことが好きで、大切に想っているよ。
お前の彼女は、優しくて愛情深い人だった。俺のことを羨ましいだなんて言うけれど、俺の方がずっと羨ましいよ。雄二にどれだけ愛されていたか、知っているから。
雄二が居なくなった世界で、俺達は狂った日々を送りながら、毎日毎秒、雄二のことを想ってる。
雄二がいない世界なんてありえない筈なのに、どう足掻いたって朝が来ている。雨が降ったり、晴天だったりしている。
俺は、お前のアウターからお前の匂いがしなくなってきた事も、愛ちゃんがお前の顔を忘れてしまった事も、悔しい。
でも、明日も朝がくるから、また一日、雄二を想って過ごすんだよ。
寂しいよ。
雄二に会いたい。
話したいことが沢山ある、ありすぎる。笑ってくれよ。
安っぽいインスタントコーヒーが体に染みて、溜め息をつくと不幸になるよ、と子供の頃よく母に言われたな等と余計なことを思い出して、誰も見ていないのに、これ見よがしに大きく息を吸った。
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