海井 奏多【憑依】

海井 奏多 【憑依】.1


「なあ、お前辛くねえのか」

「……誘ったのガワさんじゃねぇすか。ありがてーなって、毎日朝起きる度にガワさんちの方角拝んでますよ、ちゃんと」

「いや、そうじゃねぇよ」


 雄二の四十九日を終えた頃、俺は休みがちになっていた掛け持ちのバイトを一つクビになり、小川の勤める清掃業者で働き始めていた。

 終わりのない酷い喪失感と怒りに全神経を費やし、あまりにも自分自身を蔑ろにする俺を見かねた小川が「雄二亡き後の欠員の補充」という大義名分のもと、自分の勤め先に掛け合って一緒に働けるよう誘ってくれたのだ。

 投げやりになっていた生活を少しづつでも取り戻せるように、と気にかけてくれる男前な先輩の存在は実際ありがたかった。


 鴻上珈琲のオーナーからも数日に一度は連絡が来るようになった。

 内容はいつも飯を食っているか、眠れているか、たまに顔を見せろの三点セットで、まるで親のようだ。

 俺があの日海で金崎に遭遇したことは話していない。オーナーからは「金崎さんとはやっぱり連絡がつかない。正直に言うと家を尋ねてみたけれど、既にもぬけの空だった」と伝えられたが、そうだろうなと思ったまま「そうですか」と返信してその話は終わりだ。

 オーナーの事は尊敬しているし信頼しているけれど、今はまだ話せることが無さすぎる。後ろめたさが無い訳ではないが、いつか話せる時が来るまでは心配させないようにたまにコーヒーを飲みに顔を出そうと思う。



 小川はあの日雄二の死を止められなかったことに責任を感じていた。

 夜勤中に雄二が拾ったパスケースの写真が雄二の恋人である金崎愛だったと話すと、小川の中であの晩に見た雄二の顔色の悪さや挙動不審に合点がいったらしい。

 最後に雄二と喋ったのが自分だったのならば、あの時無理矢理にでも一緒に居れば救えたのではないかと、流石の小川でも落ち込んだようだった。


 自分がこの仕事に就いて改めて、雄二がタフだったと思い知る。

 日勤、中夜勤、夜勤と不規則に現場へ向かい肉体労働に従事するのは、想像以上に体力がいる。小川は雄二の仕事ぶりを「良く動けるし飲み込みが早い」と褒めていた。俺は仕事中の雄二を知らない。それは当然、逆も言えることだ。理解より早く溜め息がでる。

 こんな所でも「俺の知らない雄二」に出会うのだ。

 分かっているつもりだけで何も分かっていなかったのだと誰かに笑われている気がする。雄二が居なくなって少しずつ何かが蝕まれてゆく。

 こうして仕事の代役は立てられても、雄二の代わりには誰もなれやしない。俺は雄二にはなれないし、あれだけ一緒に居たって、こうなってしまえば何も知らない他人だ。

 当たり前を突き付けられる度に、胸が苦しい。



 湿気て暑苦しい現場での深夜作業を終えた帰りの作業車の車内で、小川は俺に気を使ってか音量小さめにラジオを掛けて、話の邪魔にならないような安全運転をしながら話を続ける。

「心配してんのは女の事だよ。奏多お前、一緒に暮らしてるんだろ、雄二の女と」


 聞こえは悪いが、そうだ。





 


 海で遭遇したあの日、雄二の死を知り泣き崩れて過呼吸を起こす金崎を何とか宥めて、何があったか一通り聞いた。

 予想通り、パスケースに入っていた写真は金崎と彼女の娘で間違いなく、その持ち主である夫は飛び降り自殺をした本人だという。


 金崎は夫からDVを受けていた。全身の傷はやはり虐待によるもので、金崎は夫の暴力から逃れるために鴻上珈琲で働き出したのだ。

 数年前に娘を原因不明の病で突然失い、それに病んだ夫の家庭内暴力は日に日にエスカレートしていき、一時でも解放されたいと始めたアルバイトだった。

 新興宗教にどっぷり浸かった実家には随分前に見放されていて行き場がなく、そんな家庭で育ったおかげで信頼できる友人も居ない。長い間ゴミのように扱われていた金崎は、雄二に優しく接して貰える事が嬉しくて仕方がなかった。

 何も知らない雄二に「傍にいる」と言われた時、金崎は人生で初めて味方が出来た気がして舞い上がってしまい、救いを乞うように不倫をするに至ったのだという。

 雄二への罪悪感はあるものの、自分の事を一つでも話せば巻き込んでしまうのが怖くて言い出せなかった。迷惑はかけたくない。だけど、離れがたかった。


 雄二と海へ行った帰り、いつもならば避けるのに浮かれていたのか「地元の駅まで送る」という雄二の言葉を受け入れた。

 改札に着いた瞬間に夫の車が見えたという。金崎は、雄二と一緒にいるところを夫に見られたのだとすぐに気が付いた。

 酷く後悔しながらもこれが最後なのだと悟り、殴られながらも夫の目を盗んで、雄二に別れを告げた。暴れる夫の隙をついた形だったから「さよなら」以外の言葉を伝える時間が無かったのだ、と。

 ――これが雄二のフラれた顛末だった。

 そこからはスマホも壊され外との接触もなく、数日間殴られながら過ごし、激痛の中で金崎は自分の罪と向き合った。雄二の幸せを願いながら。




 そして、あの日だ。

 金崎が無断欠勤をしているのを心配した鴻上オーナーから、夫へ連絡がいったのだ。オーナーが俺へ「夫に電話をかけたが、金崎さんに代わってもらえない」と話していた正にその電話の事だろう。

 電話を切った夫は、普段の何倍も機嫌が悪かったという。

 金崎はいつものように殴られながらも、今度こそいよいよ夫に殺されてしまうのではと覚悟するほどの激しい暴力を受けた。

 最終的に殴られた勢いで顔面をテーブルに打ち付け、左目を潰した。

 血だらけになって片目の潰れた金崎を見て、夫は悲鳴を上げて家を飛び出した。 

 残された金崎は、当然救急車も呼んでもらえず、外への連絡手段も無く、もうこのまま死ぬのだろうなと床に倒れこんだまま激痛で意識を失った。

 何時間も経過して気が付くと家の中に警察や救急隊員がいて、金崎は病院へ搬送されたのだ。


 搬送先の病院で警察から夫が自殺をしたことを聞かされた。

 金崎は、殺すギリギリまで痛めつけたくせに最後には自分が死んでしまうのか、とDVからは解放された筈なのに、何故か絶望的な気持ちになったという。

 その後直ぐに病室宛てに届いた代理人からの封書を開封して、本当に一人になってしまったのだと気が付いた。人身事故の補償云々だけでなく、夫の葬式も火葬も全て金崎の知らないうちに終わらされていて、夫亡き今、親族にも本当の意味で縁を切られた形だという。

 退院した金崎が家に戻ると、部屋も既にもぬけの殻で、ごく僅かな金崎の私物以外全て破棄されていて、床に直置きされた金崎の荷物と共に添えられたメモに一言「今月中に退去してください。その他の連絡は弁護士を通して下さい」と見覚えのある実母の時の文字が薄い筆跡で残してあった。


 金崎は雄二の事を考えていたという。

 勿論会いに行けるともやり直せるとも思っていない。傷付けてしまってこれ以上はないと解っていた、と。ただ、何もなくなって、唯一感じていた痛みさえも奪われ、海が見たいと感じた時に雄二の事を想っていたと。

 住む場所を失った時に真っ先に思い出したのが、例の家だった。

 ボロボロの状態で砂浜を歩いていると、雄二が居て、いや違う、それが俺だった。


 金崎は散々泣いて俺に一通り話した終えた後、一度家へ帰ると別れた。

 俺は何故かそれが不安になって、電話番号を書いたメモを金崎に手渡して帰路についた。




 それから四時間足らずのことだった。

 俺は病院から連絡を受けて、急いで向かった。

 金崎は家には戻らず、風見鶏の家の前で自殺未遂をしたという。

 倒れていた金崎は身分証になるようなものを一切持っていなかったが、上着のポケットについさっき渡した俺の電話番号が入っていたから、と連絡が来たのだ。


 幸いすぐに発見されて大事には至らなかったけれど、金崎は意識がはっきりした頃、俺に微笑んでとんでもないことを口走った。


「雄二くん、来てくれたの」


 俺は呆然とし、慌てて何度も否定をしたけれど、金崎には伝わらなかった。

 俺の言葉の殆どが金崎には届かない。今の彼女の現実では雄二が生きていて、目の前にいる俺こそが「雄二」だった。


 何日経っても俺は「雄二」のままだった。

 金崎は雄二との記憶以外、都合の悪いものを全て心の奥にしまい込んでしまって、雄二の本当の姿さえも閉じ込めてしまった。

 医者の言葉を鵜呑みにすれば、いつか傷が癒えて正しい記憶を取り戻すことができるだろうが時間がかかる。誰かがフォローをしなければならなかったが、彼女にはもう誰もいない。

 そのまま全てを放棄して施設へ入れることも出来たが、彼女は俺に言った。

「ねぇ雄二くん、海、また見に行きたいな」

 動悸がした。

 こんな時雄二だったらなんて言うだろう。どうするのだろう。

 今まであった最悪を全て無かったように屈託なく笑う傷だらけの金崎に見つめられながら、いよいよ使えない頭をフル回転させても、雄二の考えることなんてどうせ、


「うん、いいよ」


 数日後、俺は激安ながらもローンを組んであのボロボロの緑の家を買い、退院してくる金崎を病院まで迎えに行った。

 くたくたになった雄二のリストにまた一つ「完了」の線を引き、もう嬉しいのか悲しいのかも分からない涙を落として雄二の書いた文字を滲ませてしまった。

 

 





「ガワさん、俺がしてるのって最悪なことですかね」

 小川は電子タバコのスイッチを押して、しばらく黙り込んでから、口元へ運んだ。

「最悪っていうかよ。いや、俺には分かんねえよ。だってあの女、お前のこと雄二だと思ってんだろ。それがガセにせよガチにせよ、そんなの付き合ってられねぇってのが普通じゃないかと思うわけ。ましてや雄二が死んじまった原因の女だぞ。直接では無いにしろ全部通して考えたら結局あいつの所為、って結論付ける方がまともだし、そう考えたら奏多にとっちゃ一番許せねえ奴じゃんよ」

「それは俺もそう思ってますよ。許せねえし、あいつの所為だって」

「だったら、逆に何でよ? DVとか……旦那のことも実家のことも怪我のことも、流石に俺でも同情はするけど。でもだからって、なんでお前がそこまでやってやるのよ」

「なんででしょうね。俺が、あの人にとって「雄二」だからですかね」



 小川の言うことは一つも違わず正論だ。

 自分でもどうかしていると思う。気が触れていると、思う。

 それでも、金崎が俺に「雄二」を見ているのなら、きっとここで見捨てるわけにはいかなかった。なぜなら、それは「雄二」だからだ。

 最後まで彼女の傍に居たかった雄二を、ずっと心配し続けた雄二を、彼女の幸せを願っていた雄二を、俺は知っているから。

 そして、金崎もまた雄二を愛していた事自体に嘘はなく、願わくば傍に居たいと願っていて、雄二を本気で傷つけまいと思っていた。結果がどうであれ、だ。

 これだけボロボロになっても金崎は雄二を探して、やっと見つけた雄二に、やっと自分から伸ばした手が、今だ。

 もしここに雄二が居たら、迷わずその手を掴むと思った。今までの傷ついたことも悩んだことも許して、過去も傷も全て受け入れるだろうと。

 俺の知らない雄二の事だけど、分からないなりに、そう思ったのだ。

 今の俺に出来る行動はこれまで通りに、雄二のやりたいことリストを埋めて行くことだと判断した。


 雄二の不在を許すことなんて出来ず、だからといって自分が成り変われない事だって分かっている。今後、金崎が憎いと思い続ける事も一生止められやしないだろう。

 俺は「雄二」を生かし続けたいだけなのかもしれない。

 雄二ならこうする、だとか、金崎は俺に雄二を見ている、だとか「雄二の為に」とそれっぽい大義名分を掲げて、雄二を存在させたいだけなのかもしれない。

 

 


 小川はいつもの大胆な笑い声を上げて、俺の頭をわしゃわしゃと揉んだ。

「マジうけるな奏多は。でもなあ、俺にとってお前は雄二じゃねぇ、可愛い後輩の奏多だよ。それは絶対捨てるなよ、俺が寂しくなるからよ。肝に銘じておけよ。雄二失ってんのはお前や女だけじゃねぇんだ。みんなお前まで失いたくないんだよ。お前と雄二のことも、お前と女のことも俺には分からんのかも知れねぇけど、奏多は奏多をやめるな。俺、お前のこと好きだからよ。」

「……はい」

「何か迷ったり困ったら相談しろよ、な」

 対向車のヘッドライトが小川の目尻を照らして光った。

 車の芳香剤の優しい香りが妙に切なくて胸が痛くなる。俺を心配してくれる人達がいる。雄二にだって、いた。

 他人の優しさにはいつだって逃げたくなる。金崎にはそれが圧倒的に足りていなかったのだろう。雄二だけが金崎を肯定する全てだったのだから。

 金崎だって身近な優しさに逃げ込んだだけなのに、どうしてこう結果が違うのだろう。今更考えたってどうしようもない事なのに、悲しくなってくる。

「ガワさん、なんか。いつもあざっす」

「おう、今日も頼りになるイケメンだろ俺は」

「……否定はしないけどウゼェな」

「一言余計だバカ」

 

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