海井 奏多【邂逅】.2

 数秒の沈黙の間に、波が何度か激しくテトラポッドに打ち付けた音が聞こえる。


 ……今、なんて?

 彼女は、俺を見て雄二、と呼んだのか?

 騒がしい波音が遠のいて、ごちゃごちゃしていた頭の中がデリートキーを長押しするかの如く一気に真っ白になってゆく。

「………あ、あの、すみません、人違い、ですね」

 女は戸惑う様子を見せて声を震わせた。

 俯いて出た声は文字の通り蚊の鳴くような小さな音で、眼帯と髪でほとんど遮断されていても泣いているように聞こえる。

 震えて立ち竦む明らさまに暴力の痕跡を身に纏ったその姿に、全身の毛が逆立つような、一気に体を駆け巡る嫌悪感を感じてしまった。

 ボロボロの姿とはいえ、俺には彼女が何者か分かってしまったからだ。




 ふと雄二の香りがアウターから風に乗って鼻腔をかすめる。

 毎日少しづつ慣れた香りが消えていくのを憂いているのに、交代するように海の風が染みていくのが一層悲しい。雄二、なんで今お前はここに居ないんだよ。

「金崎、愛」

 目の前にいるその人は、以前雄二が自慢気に見せてきた写真とはまるで別人だ。

 あちこち赤黒く変色した腫れた顔面、安っぽい眼帯、久しくブラシも通っていないであろう乾燥した長い髪。

 実際に対面するのが初めての俺には、雄二が愛おしそうに話していた恋人と同一人物だと納得するのはギリギリだったが、そこに居るのは間違いなく、金崎愛、その人だった。


 ここで会えるとは思っていなかった。

 しかし、よくよく考えれば彼女にはこの場所に思い出があるのだ。

 俺は雄二とこの女の思い出話をなぞって此処へ来ていながら、直視した現実に焦燥すら感じている。

 この数日間、ずっと話したかった相手が目の前にいるのに、何を話したら良いか分からない。今になって、こんなにも悲惨な姿で雄二との思い出を追いかけてきたであろう彼女に、どう声をかけて良いのかまるで分からないのだ。

 金崎愛は、眼帯で隠れていない方の片目を丸くして俺を見つめている。驚きというより恐怖を透かせたような、逃げ場を探すかのような表情で。

 それがまた何もかもを情けなく感じさせて、全身から力が抜けていく。

「あんた……それ、なんだその顔、ボロボロじゃん」

「え……」

「何があったらそんなことになるんだよ」

 聞きたいことは山ほどあるけれど、聞かずには居られないほどに痛ましい姿だ。

 打撲痕も裂傷も、生々しく、悪意ある他人の関与を疑う以外ない。

 咄嗟に思い出したのは雄二の顔よりも、あのパスケースに閉じられていた子供を抱く幸せそうな写真の笑顔だった。今ボロ雑巾のような姿で捨て犬のように震えているこの人が、あの写真に収められた頃と同じ環境にいるとは到底思えない。

 金崎は、自分の身体を確認するように見回して唇を嚙み、俺の質問に質問で返答をした。

「あの、なんで、私のこと、」

「雄二から聞いてる」

 狼狽する金崎の言葉を遮った。

 雄二から、等と自分で言っておきながら、真っ白だった脳内にチラチラと火粉のように苛立ちが跳ね回り、腹の中の気色の悪いどこかを焦げ付かせていくようだ。

 なのに、金崎はハッとした表情で、淀んだ瞳に日光を反射させて俺を見た。

「あの、もしかして、ウニ、さん……?」

 一度脱力したはずの全身に電気が走るように痺れた。金崎は俺を認知している。ウニ、と呼ぶのは雄二だけだ。

 自分のいない場所で雄二が俺の話を金崎にしていた事をすぐに理解して、何故か一瞬僅かに苛立ちが遠のいた。雄二が俺に彼女の話をするように、俺の話も彼女へしていたのかと思うと眼球の奥が痛くなってくる。

 金崎は目にじわりと涙を潤ませて、一歩、また一歩と俺に近付いた。

 その姿は異様で、端から見ればまるでゾンビ映画のそれだったが、俺の真正面に立った金崎は、俺が着ている元々は雄二の愛用していたコートの袖ぐりに触れてぐずぐずと泣き出して、やっと我に返り一歩引く。

「やっぱりその服、雄二くんのなんだね。……ウニさん、ねぇ、雄二くん、怒ってる?」


 ――は?雄二が怒っているか?

 怒りもせず責めもせずに、辛そうに笑いながら何度も何度もバカの一つ覚えのように何の音沙汰もないスマホの画面を確認する雄二の顔が浮かんだ。

 ふざけるな。

 湧き出る酷い怒りに任せて袖口を掴む金崎を振り解くと、彼女は僅かな荷物を撒き散らしながら、紙で出来たおもちゃのようにいとも簡単に砂浜に転がった。

 それを見てしくじったとも思わない。ただただ砂に打ち付けられた哀れ過ぎる小さな女が憎くて憎くてたまらず、呼吸の仕方が思い出せないほどに激昂した。


 この女が居なければ、この女さえ雄二の人生に関わらなければ、雄二は今でもこのアウターを自分のものとして俺の隣でコーラを飲みながらバカ話をしていたかもしれないのに。


 怒りながらふうふうと肩で何とか息を吸っても俺は生きていて、そして金崎は砂浜にだらんと倒れて、それでも生きている。

 生きている人間である事が悔しいのは、雄二が既に此処に存在しない証明のようだからだ。

 雄二の不在を何度でも新鮮に突きつけられる。

 頭に血が昇り過ぎたのか、強烈な吐き気を抑えられずに、コーヒーしか入っていない胃の中身をぶちまけた。溢れた吐瀉物で汚れたスニーカーが、雄二と過ごしたあの最後の一日をまた幻影のように見せてくる。

 金崎は慌てて起き上がり、よたよたと俺に近付いて「ウニさん、大丈夫?」と背中に触れた。その手のひらの感触が気が遠くなるほど腹立たしく気色悪くて、力いっぱい払い除け振り返ると、金崎もやはり、ほろほろと泣いていた。


「怒りようがねえよ」

 金崎は俺へ優しさで伸ばしたはずの手を払われたままの体制で、自分の服の裾をぎゅっと握り怒られている子供の如く視線を伏せてごもごもと続けた。

「……あの、雄二くんと、話せないかな?」

「話せねぇよ」

「……そう、だよね」

「なあ、あんた雄二に何が言いたかったんだよ。つーかその顔も、傷も、一体何があったんだよ」

「……これは、あの、転んで…」

 しどろもどろになりながら眼帯や痣を髪で隠す仕草をする金崎の全てが痛々しい。あまりにも苦しい言い訳が必要以上に苛立ちを増幅させる。

「よくそんなんで納得したよな、雄二も雄二だ。バカじゃねぇの。なんで信じるんだろうな。ただ転んでつく傷じゃねぇだろ、何でそうなるんだよ」

「……ごめんなさい」

「ごめんってなんだよ……ああ、クソ! もう訳わかんねえよ、なんでお前雄二に嘘ついてたんだよ。なんで何も言わないであいつの前から居なくなったんだよ。お前分かってんだろ、雄二がどんな思いで過ごしてきたか、どんだけしんどかったか。雄二がお前のことめちゃくちゃ好きだった事も。分からない訳ないよな、分かってるから今だってこんな所にいるんだろ。わざわざ来たんだろ。なのによ。一つも分からねえままダセェ振られ方してあんなにやつれて、どこまで雄二の事バカにすれば気が済むんだよ! なあ、もう全部めちゃくちゃなんだよ!」

 感情の制御が出来ずに声を荒げ、金崎の長い髪を巻き込みながら胸ぐらを掴んで揺る。こんなことを女性相手に、それどころか他人に対してしたことがない。

 一つの抵抗もせずにハラハラと泣く傷だらけの金崎が、俺の腕の先で震えているのが悲しい。暴力を奮っているのは自分なのに、どうしようもなくやるせなくて苦しくて、手から力が抜けていった。

「あの、私、帰……」

 俺の手からすり抜けた金崎は酷い顔面を更にぐちゃぐちゃに濡らしながら、落とした荷物を砂ごとかき集めて逃げるように立ち上がろうとしている。

 もう大きな声を出す体力も余裕も無い。

 疲れた。


 もう何がなんだか分からない頭で、本当に聞きたかった事を一つだけ投げかけた。

「なあ、雄二って何で振られたの」

「え」

「だから、なんで、振られの。あいつは」

「……雄二くんに、ごめんなさいって、伝えて」

「無理なこと言うなよ」

「ウニさんから、伝えて下さい」

「だから。もう、無理なんだよ」

 体は風邪をひいた時のように熱いのに、到着したときよりも風が冷たく感じる。睫毛がだけがひんやりと、冷えてゆく。

 金崎は黙ったまま俯向いているけれど、それはただの罪悪感に見える。

 この様子じゃあ何も知らずにここへ来たのだろう。なんなら、雄二にもう一度会いたいと思って来たのだろう。ノコノコとこんな場所まで来るくらいだ。

 雄二はこの状況をどう思うだろうか。愛しかった人が自分との思い出を手繰っていると知ったらやっぱり喜んだかな。

 そして、別れてからこれまでの事を全部話したら、金崎はどう聞くのだろう。

 伝えてくれ、だなんて一番ズルくて最悪な頼み事だ。俺だって伝えたいことが腐るほどあるってのに。雄二にだって、沢山あったはずだ。

 もう、今更どこに真実があったって、すれ違いを正す術が無い。


「雄二、死んだよ」

「え?」

「え、じゃねえよ。死んだんだ、雄二。あんたに訳わかんねえまま振られて、それから毎日ずっとあんたの事ばっか考えながら、死んだんだよあいつ」

「なんで」

「んな事こっちが聞きてえよ!!」

 金崎は立ち上がろうとしていた足を震わせて、砂浜にもう一度へたり込んだ。

「あんたが何考えてるのか、そうやっていつも何にビビってんのか、何でそんなに辛そうなのかって。あいつはフラれたくせに、最後までそればっかり考えながら死んでったよ」

「……ゆ、じくん、が」

「でもな、せめて愛ちゃんが幸せでいて欲しいって、アイツそう言ってた。なのに、なんだよこれ……意味わかんねぇよ」

 なんで、なんでと繰り返し呟きながらパニックを起こして過呼吸気味に泣き喚く金崎は、ただでさえ酷い姿に輪をかけて悲惨で目も当てられない。

 動揺するのも無理はないが、時既に遅しとは正にこういう場合を言うのだろう。俺も散々落ち込んで泣いて過ごしているが、泣こうが喚こうが一つの希望も生まないのだ。どうすることも出来ない。

 大体が、金崎においては自分で撒いた種だ。

 雄二の気持ちと並べるのもどうかしているが、金崎愛がこうして被害者ヅラして泣き続けるのも、だからといって感情が動かないのも、結局どちらに転んだにせよ、俺は勝手に許せはしないのかもしれない。


 なあ、雄二。

 雄二はどう思う。どう感じる。俺はどう感じたら良い。





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