海井 奏多【憑依】.4

 カレンダーをめくる手が止まる。


 何も書き込んでいなくても、雄二の命日が異常に目立って視界に入る。

 もうすぐ一年も経つのか。忘れていた訳じゃなくても、数字として目に入ってくると改めて実感しざるを得ない。ハンガーに掛かったアウターも、俺のものになって一年が経つ。

 恐る恐る、顔を近づけて思い切り息を吸う。

 ……もうなんの香りもしない。いや、そうじゃない。家の芳香剤の匂いがする。

 一度も洗濯なんてする気が起きなかったからそのままにしていたのに、雄二の匂いがどこにもない。もし残っていたとして、俺はもうその香りを思い出せないだけなのかもしれない。雄二はきっとバカにして笑うだろう。いい加減洗濯くらいしろ、と言うだろう。


 人が本当に死ぬ時は誰かに忘れられた時だ、なんて偉そうに誰かが言っていたのを思い出してゴミを食うような気持ちになる。

 だったら金崎はどうなんだ。忘れることが死だというのなら、今雄二は生きている? 死んでいる? 彼女は雄二を生かしている? 殺した?


 あれからも金崎は何度もフラッシュバックに悩まされた。その度にパニックを起こして、泣き、それでも彼女の記憶が戻る事はなかった。

 些細なきっかけが引き金になり、発作中はただひたすら何かの影に怯えて、最後までその正体には気付けずに疲れ果てて眠るだけ。

 

 鴻上珈琲に顔を出してオーナーと話をしても彼女の記憶は曖昧で変化はなく、オーナーも笑いながら「焦らなくていいんだよ」と急かすことはしなかった。

 オーナーは宣言通りに全て俺に話を合わせてくれて、俺を「雄二」として扱ったから、職場恋愛禁止のルールを破ったことについて冗談交じりに説教を受ける羽目になったし、個人的にはやるせなかったが「でも二人が幸せそうで嬉しいよ」と優しい言葉をかけられる羽目にもなった。

 金崎も最初こそ不安げだったけれど、普段俺以外と話をしない生活をしていたからか、帰り際にはえらく嬉しそうに声を弾ませていて、見ているこちらまで嬉しくなる。

 それからは定期的に、まるでリハビリに通うように二人で顔を出して、ケーキを食べて息抜きをするようになった。


 俺は俺で、敢えて生活については触れずにいてくれる小川と休憩ごとにくだらない話をして笑い、仕事帰りにオーナーを訪ねて近況を報告しながらコーヒーの淹れ方を教わって、自分用のミルを買った。

 久しく自分の為になんぞ使っていなかった金を使うのに少し緊張しながら、中古ながらもオーナーにおすすめされた質の良いブランドものを手に入れて、ささやかながらも生活に香ばしく穏やかな香りを添えた。

 何を想おうが、どうしたって生活は続いていく。

 事情を分かってくれる人達が傍に居てくれることで、結局、俺は救われていた。






 いつものように仕事を終えスマホを確認すると、身に覚えのない番号からの着信が残っていた。不審に思いながらも取り急ぎかけ直すと、聞き覚えのある声で女性が「はい」と応答する。

「あの、お電話いただいていたようですが、すみません、登録がなくて。どちら様でしょうか」

「ごめんね、びっくりしたよね。酒田です。雄二の母です」

「えっ、ああ! ごめんなさい、俺、登録してなかったか」

「ううん、いいのいいの。奏多くん、元気にしてた?」

「……うん、何とかね」

「あのね、実は、雄二の一周忌、家でやるから来ないかなって思って。 葬式の時みたいにみんな来る訳じゃないしホントに身内だけだから、奏多くんが嫌じゃなければ、なんだけど。お父さんも奏多に声掛けろって言ってるから」

「……え……」

「全然無理はしなくていいのよ、生活も仕事もあるだろうし。でもなんかさぁ、雄二の写真とか見てると、高校のからはもうぜーんぶに奏多くん居るんだよね! それがもうおかしくて。あ、ビデオもあるよ。学校祭の後のやつかな、あんた達二人揃ってバカなこと言ってて面白いよ。奏多くんにも見せたいね、って話してたんだ。

 だから、都合が良ければ来てよ。もしその日がダメなら、別に私達はいつだって歓迎するからさ。お父さんもやっぱ寂しいんだ、雄二がいなくなって。話し相手になってやるつもりで……ボランティア精神でもいいからさ。雄二も、奏多くんにたまに思い出してもらえれば嬉しいと思う」

「……たまにって。一時も忘れたことないですよ、俺は」

 ありがと、と笑う雄二の母の声は想像以上に明るく気丈で、それが無理矢理奮い立たせたものだとしたって、安心した。「顔を出すよ」と伝えると彼女は、良かった、と日程と時間を告げて電話を切った。



 家に帰りドアを開けると笑顔で迎えてくれる金崎に「ただいま」と笑顔を返し、いつものように食事の支度をして、風呂を沸かす。

 麻痺と筋力の低下で、相変わらずに上手く身体を使いこなせず苦戦している金崎に関する家事や介助は、基本的に俺の手が必要だった。

 それこそ専門家の意見を仰げば良いのだ、と考え及ばなかった訳ではなかったが、がむしゃらにやり込めてきた最初の数ヶ月でこうして二人で生活をする事が出来てしまったから、そのリズムを崩すに崩せなくなっていた。


 着替えやトイレ、家の中での生活の大体は何とかなったものの、動きの多い家事は俺が全て引き受けて、入浴は必ず近くで介助することにしている。

 何故か金崎は、浴室を異常に怖がった。それ故、パニックを恐れたことが一つ。そして俺自身、浴室に入る度にどうしても雄二の死のイメージがちらついて未だに不安が拭えず、彼女を一人にすることが出来なかった。

 洋服を脱いだ彼女の身体には引き攣れやケロイドが残り、その経緯を想像するのも恐ろしい。

 怪我は全て事故によるものだと思いこんでいるとはいえ「あまり見られたくない」という彼女の気持ちを汲んで、ドアの向こうで待機をする。暖まりながら会話をして、俺の手が必要な時はドア越しに声をかけてもらうような仕組みが、いつの間にか日常に馴染んでいる。


 シャワーの音が止み、無事に湯船に浸かる水の揺蕩う音がして、はー、と金崎の声が反響して聞こえると、毎回ホッと胸を撫で下ろす思いだ。

「ねえ、愛ちゃん」

「んー。なぁに」

 ちゃぽん、と水滴の落ちる音と被るように随分とリラックスした金崎の声が響く。

「来週の日曜、出掛けてきてもいいかな」

「わ、珍しいね。雄二くんがお出掛けするの。勿論良いけど、どこへ行くの?」 

「うん。ゆ……」

「ん? ゆ?」

「あ、いや。……あの、ウニと。さっき久しぶりに電話が来て。久しぶりに会おうか、って」

 自ら墓穴を掘りそうになって冷や汗をかく。

 雄二の一周忌だなんて当然言えるわけがない。俺は自分が「雄二」であることを一瞬失念していた。どう考えても不自然な間が空いた挙げ句、出てくる言い訳が自分だなんてあまりにも図々しくガッカリする。

 俺が青ざめているのをぶった切るかの如く、浴室からガタッ、と大きな音がした。

 慌ててドアを開けると、大きな音の主であろう洗面器が床に落ちてまだカタカタと回っていて、それを落とした犯人であろう浴槽から身を乗り出した全裸の金崎が、目をキラキラ輝かせて俺を見ていた。

「……いい、良いね! すごく良い」

「……へ?」

「雄二くん、最近ウニさんの事を全然話さなくなったから心配してたの。行ってきてよ、私は平気だから、ゆっくりしてきて。ああ、嬉しいな……何時に行くの? あ、勿論何時でもいいんだよ。ふふ、わぁ、いいなぁ。なんだか私の方が嬉しいみたい、ねぇ楽しんできてね。ウニさんは元気そうだった?」

「あ……うん、元気だった。あいつも、忙しいみたいだけど。でも昼間かな、うん、夜までには、戻る」

「そっかぁ、いいねぇ。お洒落して行ってね。私もいつか会ってみたいなぁ、ウニさんに」

 上機嫌で鼻歌を交えながら自分のことのように喜ぶ金崎の姿に、罪悪感が重くのしかかる。


 ――ごめん、金崎さん。

 俺達はとっくの昔に会っているんだよ。本当は「俺」が雄二に会いにいくんだ。

 今更現実のことなんて絶対に言えない。何としても嘘を突き通すしかない。

 雄二が彼女と「死ぬまで一緒にいる」と決めたのならば、俺は必ず彼女よりも長く生きて、全ての嘘を本当にしてから死ぬ。雄二の為にこんなに目を輝かせて喜ぶ人を、何度も地獄に落とせるはずがない。

 もう、記憶が戻らないまま平和に過ごせるならその方が良い。それがどんなに横暴でも「雄二」を生かし続けて彼女が苦しむことが無いのなら、それで良いと思うようになっていた。

 それでも、嘘を吐き続ける事がこんなにも苦しくて体力を使うことだと、知らなかった。


 なあ、金崎さん。

 雄二に嘘をついている時、あんたはどんな気分だったんだ。気持ちと言葉が一致しないで話すこと、やっぱり辛かったかい。目の前にいる人間に、話したいことを話せないのは、聞きたいことを聞けないのは、もどかしいよな。

 吐き続けなくちゃならない嘘を抱えて、やっと彼女の気持ちが少しだけ理解できるような気がする。






「ウニさんに宜しくね、時間なんか気にしなくていいからね」

「……うん、行ってきます」

 満面の笑みで送り出してくれる金崎に、どうしようもない罪悪感を感じながら外へ出る。海は凪いで、俺の気分とは裏腹に天気も良い。


 喪服で出掛ける訳には行かなかったから、雄二の実家の近くに住居を構える小川に頼んで着替えに寄らせて貰うことになっていた。

 インターホンを鳴らすと、キャンキャンと犬の走り回る音と同時にガチャリとドアが開き、小川の待受になっていた真っ白なチワワと一緒に絵に描いたような美人が俺を迎え入れた。

「来たね、いらっしゃい奏多君。タクから聞いてるよ。あいつ今コンビニ行っちゃててさ。上がって」

「あ……お邪魔します」

 ロン毛の男に会うつもりで来たのに見ず知らずの美人に対応されて、嫌な汗をかく。早く帰ってこないかとソワソワする俺をバカにするように足元を犬が駆け回る。

 美人は「アタシ、ミク。はじめましてだね」と愛想良く微笑み、天気良いねとか犬アレルギーない?とか言いながら、コップにオレンジジュースを注いで渡してくれた。

「タイミング悪くてごめんね。てかタクいつも迷惑かけてない? 大丈夫そう?」

「……いや全然。迷惑つか、むしろガワさんには世話になりっぱなしっていうか」

「それなら良いんだけどさ。なんか雄二君の事あってから、タクずーっと奏多君の事心配してるからさぁ。いい加減ダル絡みしてんじゃないかなーってアタシが心配してたの」

「あ、いえ、ガワさんには助けられてばっかりで感謝しかしてないです」

「そっかぁ。タク、パチ狂だしあんな感じだけど意外と真面目じゃん。雄二くん居なくなった後かなりキツかったみたいで、俺のせいだってマジで永遠に泣いててね。その後は奏多が心配だってなんか永久にウロウロしてさ、家ん中で五郎丸とタク二人で一生動き続けるから家ん中サファリパークだよ」

 全く想像できないな、と俺が小さく笑うとミクさんは「ちなみに五郎丸はコイツね」とチワワを抱きかかえてケラケラと笑った。

「タク、昔から雄二くんと奏多くんの事、好きなんだよね。アタシはタクから聞く君らの話がいつも楽しくてさぁ、だからはじめましてだけど奏多くんのこともなんか昔から知ってるみたいに思えるよ。って、初対面でちょっとキモいか、アハハ。

 奏多くん、今度ゆっくり遊びにおいでよ。アタシも五郎丸も居るけど。ピザ、ウーバーしたげるよ。タクあんまり自分の事喋らないでしょ、でも本当はきっと奏多くんと、雄二くんの思い出話ししながら酒飲んだりしたいの。で、奏多くんにはずっと傍に居てほしいんだと思う。もう誰も失いたくないーって、寂しがりだからねぇ、ああ見えて」

「おーい、誰が寂しがり屋でカワイイイケメンだって」

 いつの間にか帰ってきていたガワさんが珍しく困ったように笑いながら、レジ袋からタバコと大きなパックのいちごミルクを取り出してストローを差し「すまんな。ミク、ペラだから」と五郎丸を撫ぜる。


 ガワさんに彼女が居るであろうことは随分前から察していたが、こうして目の当たりにすると、やはりよく知っているつもりでも自分以外の人生のことなんて分からないものだなと思う。大体、ミクさんの話す小川の姿だって、俺の知っているガワさんとはまるで別人のようだ。

 ミクさんが俺や雄二を「知っているみたい」と話すのも、何も全部理解している、と言っている訳じゃなく、ガワさんを通して彼女なりに寄り添ってくれようとする一言だと素直に受け入れられる。

 雄二のことを何も知らないと焦っていたことも、こう冷静になれば「普通のことだ」と思える。誰の事も分からないし、俺の事だって誰も知らない。

 ガワさんがほら、と喪服を渡してくれて着替え、三人で他愛もない話で少し盛り上がった後「そろそろ行きます」と立ち上がった。

 ミクさんは「次はピザパしようねぇ」等と笑いながら見送ってくれて、ガワさんは俺と一緒に外へ出た。


「彼女、ミクさん。いい人っすね、美人だし」

「あーそうだろ。ちょっと喋りすぎなんだけどな、いい女だろ。そっちはどうだ、金崎の愛ちゃんは。相変わらずか」

「うん、穏やかに過ごしてはいます。変わんねぇすね」

「思い出してはいないんだな」

 小川の声のトーンが少し下がるのを感じて、むず痒くなる。

 自分に気を遣う事をおろそかにしてすっかり伸びてしまった癖毛が視界に入り、鬱陶しくてぐしゃぐしゃと搔き上げる。

「……俺もう思い出せなくてもいいかなと思って。愛ちゃんが幸せに過ごせてるなら、これ以上傷付かなくていいんじゃないかなって思うんすよ、最近。笑ってんの見てると、そのままでいて欲しいなって。思い出せたとして、あの子の現実って、辛いから」

「はは、雄二みてぇだ」

 小川はガハハと笑って、眩しそうに片手で太陽を覆った。

「俺の分も線香あげてきてくれな。休みの前にでも飲みに行こうぜ。思い出話しでもしようや」

 俺は何度か頷き、小川に手を振って雄二の実家へ向かった。







 雄二の実家へ着くと「ありがとね」と、葬式の時よりもかなり痩せたがそれでも人間らしい顔色を取り戻した雄二の母が、にっこりと笑って迎え入れてくれた。

 家の中には、十数人の親戚であろう喪服の人達に囲まれて、葬式の時よりこじんまりとした祭壇に今にも喋りだしそうな雄二の笑顔が飾ってあった。

 よくもまあこんなにいい写真があったものだ、と自分の遺影になり得そうな写真の存在を考えてはみたが、思い出せるのはどれもこれも雄二との写真ばかりで、切り抜かれてアップにされるのは嫌だな……と苦笑する。


 法要を終えて次々に帰っていく雄二の親戚に挨拶をして「寿司をとるから食っていけ」と言う雄二の父の言葉に甘えるように居座った。

 「奏多、これ見ろ。この間母さんと写真整理してたんだけど、お前ばっかりだぞ」

 父はニヤリと笑って、小さな段ボールを俺に押し付ける。

 そこには数冊のアルバムと、そのアルバムに入りきらなかったであろう写真が束になって重なっていた。


 表面に見えている写真には既に俺が雄二と一緒に写っていて、心と呼べそうな臓器を体の中から誰かに殴られているかのような痛みを感じる。

 写真の束を取り、一枚づつめくっていく。

 アホ面、体育祭、バイト、公園、アホ面、アホ面、BBQ、学校祭、アホ面……

 圧倒的にバカな写真ばかりで、笑いが止まらないはずなのに、気付けば父と二人でティッシュを交互に引き抜いて涙をぬぐい続けている。

 想像の遥かに上を行く自分の登場頻度にも笑うが、それよりも、雄二がこんな顔で隣にいたんだと客観的に気付かされる事にショックを受けた。


 ――俺だって、こうやって忘れていってたんだ。

 雄二との日々をいつだって忘れる事は無いと自負していたのに、写真を見るまで忘れていた日があり、写真を見たっていつの事だかぼんやりとしか思い出せない日があり、まるで初めて見たかのように「なんて顔してるんだ」と笑ってしまったりする。

 確かにあの時間、あの瞬間、隣にいたのは俺だったのに。


 笑い泣きをする父の横で苦しさを紛らわせるように出されたお茶を飲み込むと、片付けを終えた雄二の母に肩を叩かれる。

「ねぇ奏多くん、これも見て。懐かしいよ」

 母は段ボールの中からDVDを一枚取り出して、デッキに吸い込ませた。


 テレビの画面に映し出されたのは制服に身を包んだ俺と雄二がじゃれあっている姿を、同級生が撮影した映像だった。

 俺と雄二が散々ふざけあっていると、仲間の一人に将来の夢を聞かれた。

「えーと、将来の夢はそうですねぇ……ウニくんのように面白すぎてフラれるような男になりたいですねぇ」

「バカ、雄二お前、俺は傷付いてるんだぞ、二ミリくらい。お前の所為で振られたんだからな。えー、じゃあ俺の将来の夢は、雄二くんのように背ぇの高いイケメンになりたいでーす。でも頭は似たくありません、バカなので!」

「おい、ひでぇな! 俺はこんなにウニのこと好きなのになー、あ、分かった。俺は将来、ウニになりたい!」

「は? じゃあ俺が雄二になるか……一家に一台は必要だしな」

 カメラを回しているであろう同級生に「お前らそんなんばっか言ってっからゲイの浮気カップルとか言われんだよ」と大笑いされる。


 その後も映像は続いて、学校祭の後夜祭のシーンだったりみんなで花火ではしゃいだりするシーンだったりが二十分ほど収録されていたが、頭に入ってこなかった。


 なるか、じゃねぇよ。

 雄二に、なったんだよ、バカ。

 でも、こういうことじゃねぇだろ。

 

 動揺を隠しきれない顔面を誤魔化す為にわざとわんわん泣いて、両サイドから雄二によく似た優しい人達に慰められる。

 こんなはずじゃなかった、なんて言えた立場じゃない事は百も承知だが、いつかの自分を「そんなこと言うな」と殴り倒したい気持ちでいっぱいになり、やり場のない拳でテーブルに隠れた太ももをひっそりと殴った。


 汚すと大変だから、と喪服から着替えさせてもらい、平常心を装いながら三人で寿司を食べて学生時代の話や雄二の幼少期の面白話なんかで盛り上がり、笑って過ごす時間はあっという間だなと感じる。

 こうしていると学生時代に戻ったかのように錯覚するのに、決定的に欠けているのは雄二の存在で、父が「雄二も居ればなぁ」とぼやいた瞬間に視界の端で遺影がその存在感を増した。

 今、ここで、俺は「海井奏多」だ。

 雄二はここに居なくて、ここでは俺じゃ「雄二」の代役は勤まらない。当たり前の事なのに。

 本当はこの世のどこを探したって見つかるはずのない雄二の気配が充満している家へ帰るのが、億劫になった。


 帰り際、写真を持っていったらと提案されて、家にいる金崎が過り一瞬迷うものの「じゃあ一枚だけ」と二人が一番良い笑顔で写る写真を、鍵もスマホも入っていない方のポケットにそっとしまった。

 玄関で雄二の母に「またね、たまに顔出しなよ」と、まるで我が子にするように頭を撫でられて、いい大人なのにまた涙腺が緩んでしまう。




 帰路につきながら、写真を眺めて、子を失う親の気持ちを考える。

 金崎はどんな気持ちで生きてきたのだろう、とまるで想像の及ばない苦痛に思い馳せ、幼い雄二の話を嬉しそうにする雄二の両親の、遠い日を眺めるような表情に胸が苦しくなる。

 金崎だってそうだったのだろう。

 ただ暴力に怯えているだけじゃない、ただ恋人を失っただけじゃない。きっともっとずっと前から、彼女は「失う」悲しみと一緒に生きてきていた。いや、彼女だけじゃない。金崎の夫とて、その悲しみは一緒だったのでは。

 どんな理由であれ、金崎があそこまでボロボロになるほど追い詰めたことは解せない。彼がどんな人間であったかも分からないし、宗教や家の問題なんか映画のフィクション程度の知識しかないからもっと分からない。

 それでもカードケースに入っていた家族の写真には、微々たるものだったとしても愛があったように思えてならなかった。そんな事は知る由も無いが。


 考えても仕方のない事ばかり考えるようになって、脳が疲弊している気がする。

 テレビのスピーカー越しに久しぶりに聞いた雄二の声が「ウニになりたい」と絶叫していたのが耳に残って離れない。

 そうだよな、ここに居て良いのは、俺じゃなくてお前だよ雄二。

 代わってほしいよな、代わってやりてぇよ。

 家の前についても、しばらくドアを開けられずにいた。






 金崎に「どうだった、楽しかった」とあれこれ聞かれるのを適当に返しながら、夕食の準備に取り掛かった。

 食事をとりながらも何一つ話せることがないから、適当にいつぞやの昔話をさも今日起きた話のようにしながら、酷い虚無感に襲われる。

 「奏多」として出向いた先で、雪崩のように流れ込んできた雄二との在りし日の思い出が、本当に自分の記憶だったのか疑わしくなり鳥肌が立つ。

 ……ダメだ、今日は早く眠ろう。


 「海井奏多」でいることにも、「酒田雄二」でいることにも、自信が無くなってきた。

 俺は一体、誰なんだ。

 金崎が風呂に入っている隙をついて、脱衣所に座り込み音を潜めて財布に折りたたんであった雄二の『彼女としたかったことリスト』を広げると、雄二の願いがしわくちゃになって、俺に取り憑く。

 紙のシワと重なって見辛くなったボールペンの文字を指でなぞると、頭の中で「俺はウニになりたい」と叫ぶ雄二の声が爆音で響いた。

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