酒田 雄二【鼓動】
酒田 雄二 【鼓動】.1
その日いつものように出勤すると、見知らぬ女性が【鴻上珈琲】のロゴの入ったエプロンをつけて、オーナーの横にいた。
「おはよう酒田、今日入った新人さんだよ。お前、教育係な。で、金崎さん、コイツ酒田雄二。こいつはウチの店長いから。何でも聞いてね」
「……あ、はい。金崎です、宜しくお願いします」
小さい人だな、と思った。黒くて長いウェーブのかかった髪を束ねた、身長も顔も全てのパーツがこじんまりと小さな女性。
頼むね、と俺の肩をポンポンと叩いてオーナーは事務所へ入っていく。
スピーカーの電源がブチッとノイズを上げて、次の瞬間には営業用のBGMが流れる。オーナーが営業前に自分で飲む用に淹れたコーヒーが、店内に良い香りを漂わせている。
高校を卒業してウニがこの店を辞めてから、俺はウニの先輩であるガワさんこと小川先輩の紹介で、清掃会社にも勤めるようになった。
清掃の仕事は案外性に合っていたみたいで嫌いじゃなかったけれど、夜勤の多い仕事で案外と昼間を持て余してしまう事と、散々青春を費やして勤めてきたこの喫茶店に対して離れがたさを感じていたから、オーナーに頼んでこの店も辞めずに「出られる日だけ」というゆるいシフトで掛け持ちさせてもらっていた。
鴻上オーナーは逞しく頼りになる存在で、高校生の時から俺らを見続けてきてくれた人だ。
よく気付いてくれる人で、ウニと大喧嘩した時も話を聞いてくれたのはオーナーだったし、進路も決めずボケっと生きてた俺に、色々な世界を見るといいと言いつつも美味しい珈琲の淹れ方を教えてくれたのはオーナーだ。
新しい職場が決まっても、辞めて疎遠になんて絶対になりたくないと思うほどに慕っていたから、我儘なシフトでこの場所に居場所を残してくれる事が有り難かった。
ウニが進学先の専門学校と遠い事を理由に店を辞めていった後も鴻上珈琲は相変わらずに穏やかな日々が続いていたが、一度だけちょっとした騒動が起きた事がある。
職場恋愛中だった先輩カップルが、しょうもない痴話喧嘩で営業中に店の皿を投げ合う流血沙汰の大喧嘩を起こしたのだ。それは常連さんや他のスタッフも巻き込む騒ぎに発展して、以後職場恋愛禁止のルールも出来た。
職場恋愛に興味は無いが、あれは完全にもらい事故だったと思う。
ウニがいたならば、二人で朝までネタになっていたであろうセンセーショナルな出来事だった。
ウニと先輩たちが店を去り、同期も先輩も順に店を去って行き、気付けばオーナーの次に古いのが自分、になっていた。
そのお陰で新人を雇う度に俺が教育係に任命されていたが、後から入った人が辞めて行くたびに、自分が教え下手だからかもしれないと一々落ち込む、少し切ない役回りでもあった。
「酒田です。宜しくお願いします」
「……あの、頑張ります」
「慌てずに。ゆっくりやっていきましょう」
体感よりも時間が経つのは早くて、四ヶ月ほど経つ頃には、金崎さんは教えた仕事をほぼ完璧にこなしてくれるようになっていた。
最初は見るからにおどおどしていて心配していたが、徐々に慣れてくると、穏やかに微笑んで常連客と世間話をするようにまでなっていた。
作業の一つ一つが丁寧で、物静かでも分け隔てなく笑顔を見せてくれる彼女は、誰が見ても好印象で、オーナーも満足気だったから教育係としてはホッとしていた。
それどころか、気付けば出勤の度に彼女が俺へ笑いかけてくれる事を、楽しみにしている自分がいた。
朝からのビル清掃の業務を終え、事務所で作業着を脱いでいると、これから夜勤の現場へ向かうガワさんが交代するように出勤してきて「よう」と隣のロッカーを開けた。
「おう雄二、ご苦労さん。何、この後コーヒー屋のバイト?」
ガワさんは、直帰ならば作業着のまま帰宅する俺がわざわざ着替える日は、大抵がダブルワークの日である事を知っている。
少し引くような同情するような感心するような、何とも言えない表情で話しかけてくるガワさんは、掛け持ちしている俺の事を「体力の化け物かよ、引くわ」等といつも笑うけれど、自分だって夜勤明けでパチンコの開店待ち列にしっかり並んでいるのを知っている。
「や、今日は非番。ウニと飲み行こうかなと思って」
「また奏多ぁ!? 休みなのにデートじゃねえのかよ!」
妙に嬉しそうに茶化しながら長い髪を束ねるガワさんからは、いつも全く顔に似合っていない甘いシャンプーの良い匂いがする。
この人は自分の話をあまりしないけれど、異性に困ったことは無さそうなところがなかなか腹立たしいのだ。
「……デートねぇ、したいっすよね」
「あ? んだよ、雄二。相手居んのかよ」
一瞬、金崎さんの顔が浮かんで、顔面が熱くなった。
「おい、なんだその顔! お前次ん時その話詳しく聞かせろよ」
「……うす」
「じゃな。奏多によろしく、今度は俺も混ぜろや」
「うす、お疲れっす」
ガワさんはニヤつきながら支度を終え、俺の脇腹をドゥクシ、と小学生のように小突いて事務所を出ていった。
ああ、これは恋なのかもしれない。
デートの相手、と言われて即座に出てきた笑顔がどう考えても愛おしくて、自分の中の珍しい感情に笑いがこみ上げてくる。
今日が非番でよかった。金崎さんは出勤だっただろうか、もしシフトが被っていても今は直視できそうにない。
思いがけず自覚する感情に戸惑いつつも、確実に浮かれている自分が可笑しくて堪らなかった。
夕方とはいってもまだ明るい、随分日も長くなった。
今からウニの職場最寄りの駅まで着いてぶらぶらしても、ヤツの仕事が終わる十九時頃まではやや時間がある。
持て余した時間は駅前のファーストフード店で雑誌でも読もうと入った時だった。
「あの、お疲れ様です」
声がする斜め後ろに視線を向けると、金崎さんが会釈している。
予想外過ぎる出会いに、ひやあ、と情けない声を上げてしまった。
金崎さんは笑いながら「すみません」ともう一度ペコリと頭を下げた。
絶妙なタイミングでの遭遇に心臓が五月蝿く騒いだ。
当然、普段は制服の姿ばかり見ているから、私服であろうオフホワイトのワンピース姿の彼女に必要以上に驚いてしまう。ましてや、このタイミングだ。
誤算だったのは、直視出来ないどころか目を離せなくなってしまった事だ。
可愛い。危うく飛び出て行きそうな言葉を、口を塞いで捕まえる。
金崎さんは動揺する俺を視界に入れずに、キョロキョロと左右を見渡した。
「……あの、酒田さん、お一人ですか?」
「お、俺?え、ああ。うん、一人です。友人との待ち合わせまで時間がちょっと余って、あの、暇潰し、っていうか……」
「そうですか……」
金崎さんは何か言いたげな顔をしながら壁のメニューを眺めた。
職場とは違う賑やかな店内が、俺の次の言葉を急かすように音を立てる。
「あの、金崎さんも、一人?」
「はい、一人です。買い物帰りで……でもまだ明るいしなんか帰りたくないかなぁって、コーヒー飲もうかな、みたいな、はは」
見慣れている筈の金崎さんがこうしてプライベートの姿で照れながら笑う表情は、漫画かドラマと見紛うような完璧な可愛らしさで、一気に血が巡り体温が上がる気がした。
仕事中なら声のかけ方に悩む事は無い。
しかし街で意中の相手にバッタリ会った時のマニュアルなんて読んだ事がなかった。
青春の全てをウニと過ごしてきたせいで、女性との関わり方には自信がないのだ。こんなことならば、さっきガワさんに指南を受けておくんだった。いやらしいほど女の匂いのする長髪を名残惜しく思い出して、意を決して唾を飲み込んだ。
「折角なんで、一緒にどうすか。俺奢ります」
「えっ、いいの? あっ、いや、違くて、奢らなくていいです、けど、あの一緒に、良ければ……」
「ふふ、奢ります。何が良いすか」
「ええと、あ。じゃあ、カフェラテ……ホットの……」
小さな金崎さんがみるみる小さくなっていくのが面白くて、笑ってしまった。
店内は丁度学生達の集う時間帯で、混雑していた。
俺が会計を済ませる間にも金崎さんは空席を探すのに手こずってウロウロしていたから、天気が良いし近くの河川敷へ行くのはどうだろうと提案すると、金崎さんはこくりと頷いて快諾してくれた。
外は夕方に向かって日がじんわり落ちていく所だったけれど、外は風もなく暖かい。こんな日があるのならば、と今日に限ってはウニの仕事が終わっていないことにに感謝した。
河川敷の階段に座ってテイクアウトした飲み物を取り出すと、金崎さんはカフェラテを受け取って両手で包んだ。
柔らかそうな髪から突き出た小さな鼻と唇。
金崎さんの横顔は夕日に透き通るようで見とれてしまう。心臓に血が集まっていくのを感じて、そんなつもりではないぞ、と自戒を込めて冷たい炭酸を一気に流した。
川の向こうの階段で自分達と同じように座るカップルが、楽しそうにじゃれ合っていて、少し焦りを覚える。
「どうですか、仕事」
当たり障りの無い話で雑念を消そうと思ったが、話し掛ければこちらを振り向いてくれる金崎さんを意識すればするほどに、自分の挙動が気になって仕方がなくなる。
金崎さんはまるでおとぎ話でもするかのように、優しいトーンで穏やかに答え始めた。
「楽しいですよ。皆優しくて、お店は暖かくて良い香りがして。すごく楽しい。でも、それは酒田さんのおかげです」
「いやいや、俺は何も」
「酒田さんが教えるの上手いから。それに失敗した時も大丈夫って、フォローしてくれたの、酒田さんだったでしょう。困った時に助けてくれるのも。私、何しても全然ダメだから救われてました。でも今仕事に出るのが楽しみなんです。だからいつも少し早く着いちゃう」
そういえばオープンからのシフトでも、金崎さんは毎回オーナーか俺が鍵を持ってくるのを店の前で待っている。
俺より後に出勤してくることは一度しかなかった。
あの日は「駅の階段で転んでしまった」と頬にアザを作って遅刻して出勤してきた日だった。
「そういえば、アザ、消えましたね」
「……あ、いえ、あの日は本当にご心配おかけしました。遅刻もしちゃって、ごめんなさい」
「ううん。そんなことより顔だったから、痕にならなくて本当に良かったです。痛かったでしょ。てか、どんな転び方したの。よっぽどな転び方でもしないとああはならないですよ」
カップに口をつけて、金崎さんは首を横に振る。
西日が反射して目が少し潤んだように見えた。
「……ごめんなさい、私が悪いんです」
「悪いって、え、コケた事が?」
「……や、あの、私が慌てて、転んで」
「慌てて、転んで、ケガした?」
「……はい」
「なんで、そんなの謝る必要ないですよ。オーナーと心配してたんです、あれだけのアザができるなんて絶対痛いし。だから本当、無事で良かったです。そんで今、怪我も治って仕事も楽しいなら、俺も嬉しいです」
金崎さんが叱られた子供のように辛そうな顔で話すから、そんなに落ち込まなくていいのに、と急にウニの顔を思い出す。
褒められたことでは無いが、高校の頃はよく二人で遅刻してオーナーに怒られた。もちろん一度や二度の事ではなかった。俺達に比べれば……なんて考えてしまう事こそ失礼ではあったが、懐かしい。
鴻上珈琲は、良い思い出が沢山ある店だ。
金崎さんにも楽しいと思ってもらえているなら良かったと純粋に思える。
「酒田さん、優しいですよね、側にいてくれるとホッとします。酒田さんみたいな人が隣にいるんだもん、彼女さんは幸せですね」
「え、彼女?」
「はい。……え?」
俺の反応にキョトンとする金崎さんよりも、俺のほうがキョトン顔をしているだろう。
彼女、が居る筈もなく、疑われるような相手すら居ないどころか、俺は今目の前の貴女の事が気になって仕方ないのに。
まさか誤解で恋が終わってしまうのか、と嫌な汗が滲んだ。
よほどおかしな顔をしたのか、金崎さんの表情に疑問符が浮かびだした。
「彼女……じゃないんですか、あの、いつもオーナーとお話してる」
「ちょっと待って、まさか、ウニの事言ってる?」
「あっ、そうです。ウニさん、あれっ、嘘、違いましたか……?」
アホ面のウニが夕日と重なって見えて、声を上げて笑ってしまう。
いつぞや自分がウニの恋人だと勘違いされていた事件を思い出す。
ああ、面白くて恥ずかしい。あの時は、ウニも当時の彼女に勘違いされて振られたんだっけ。仲が良すぎるのも考え物だな、と安堵ついでに力が抜けて脇腹がくすぐったい感覚だ。
金崎さんは勘違いに気付いたのか、すみません、と慌てている。
「違うの、金崎さん。ウニはね、彼女じゃなくて親友なんです、男友達。海井奏多っていって高校の同級生で、あ、高校時代はウニも鴻上珈琲でバイトしてたんですよ。だからオーナーも面識があって。ちなみにウニってアダ名は俺がつけたんだけど、えーとね、目がクリックリでね、店にいた頃はよく常連のおばあちゃんに逆ナンされてて面白かったよ」
「あー……そうだったんだ、てっきり私……」
「え、てか俺、そんなにウニの話してますか」
「うん、ずっと。今も」
「あ。ははっ、マジか。俺ウニの事めっちゃ好きじゃん!」
俺は自分が思うよりずっとウニの事が大好きらしいが、金崎さんに気付かされてしまうのはハプニングだ。この後ウニに会ったら、この話はマストでせねばならない。彼女だと思われていた話をつまみに一晩中笑えるだろう。
今晩の最高の話のネタを見付けて堪え切れずに笑っていると、金崎さんはそよいだ風を吸い込んで、俺に聞こえるギリギリの音量で言った。
「彼女じゃなくても、ウニさんが羨ましい」
「え?」
「……酒田さんが側にいるなら、やっぱり羨ましい、です」
2度目は、はっきりと聞こえた。
夕日が一番強い時間だった。
一瞬、太陽が煌めいて光は力を弱めていく。
唖然として言葉に詰まってしまった。
周りでは色んな音がしているのに、全部右から左へ通り過ぎてゆく。金崎さんの言葉だけが鼓膜よりずっと奥に残って染みてゆく。
フリーズする俺をよそに、金崎さんは小さく伸びをして、さて、とゴミを纏めて立ち上がった。
「じゃあ……そろそろ日が暮れるので帰りますね。ごちそうさまでした、またお店で」
にこりと笑って頭を下げ、駅の方へ歩きだそうと金崎さんのワンピースが翻るのを視界が捉えて、其処からは本能だった。
――ああ、俺が側にいたい。
金崎さんの心配になるほど細い手首を掴んだのは、頭で考えた行動ではなかった。
「一緒にいませんか、俺ら」
金崎さんが、ハッと小さく息を吸う。
「側にいる事くらい、俺、出来ます……けど」
「……は、えっと、その」
掴んだ手首から困惑が伝わってきて、すぐに離した。
金崎さんが唇を少し噛んで顔を伏せた一瞬で、世界が真っ暗になってゆく。
駄目だ、やらかした、失敗した。何も考えずに動いたが故に悪い結果を招いたと悟る。多くない恋愛経験の中でもとりわけ最悪の反応だった。
終わった。こんなに気まずい空気で、この後は、いや仕事はどうなる。あぁ、育った新人がまた辞めていく、俺が恋なんてしたばっかりに!
自滅した恋心と共に、これまでの全ての努力がぷつぷつと水の泡になって消えてゆくイメージが見えた。
恥ずかしさで顔を抑えたまま離せなくなっている。
やっと周りの騒音が耳に入るようになった頃、うっすら肌寒い風が吹き始めた。
「……すみません、忘れてください」
「あの、酒田さん、」
線路を快速が通り過ぎる音を待って、金崎さんは困り顔のまま笑った。
「……違うの、あの、私、嬉しくて」
「……へ?」
「でも、それって、職場の恋愛、みたいな……事ですよね、きっと怒られますよね? 私まだ一緒に働きたいから……オーナーとか、お店には秘密にしてもらえますか」
「え、それは」
不安そうな顔で首をかしげる小さな体躯の背景に夕日が重なって後光が刺しているようだった。
ついさっきまで暗かった視界が眩しい。女神が実在している。
頭の整理がつかないまま呼吸を忘れかけた所で、金崎さんは何か決心したようにもう一度「ダメですか」と、俺の顔を覗き込むように言った。
「……はは、うん、全然ダメじゃないです。秘密ね、秘密にしましょう」
職場恋愛は禁止だ。
俺はオーナーに隠し事をしたことがない。隠すような秘密が無かったからだ。
でも今初めて、金崎さんの願いと自分の居場所を守るために小さな隠し事をする事に決めた。もし、いつかバレてもきっとオーナーは許してくれるだろう、と甘い考えに頭が占拠される。悪事を働くわけじゃない。大丈夫。
要は、事件を起こさなければ良いのだ。皿は投げない。公私混合しなければ良い。
今まで感じたことのない心のざわつきが、全身を泡立たせるようだった。
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