酒田 雄二 【鼓動】.2


 彼女が出来たとはいえ、特に目立った出来事もないまま一ヶ月が過ぎた。

 他愛もない連絡を取って浮かれたり、出勤前に鏡を覗く回数が増えたりしたものの、職場に気を使いながらの生活で、金崎さんは相も変わらず一生懸命仕事をしていたし、俺たちの関係が同僚やオーナーに知れるようなことは無かった。


 俺は鴻上珈琲よりも清掃の仕事を優先する日が増えていた。

 会社から特殊な資格取得の支援ができるという話をもらって、俄然興味を持っていたからだ。

 資格を得れば今よりも働ける現場が増える事。安易にも、彼女ができてしまうと安定を求めたくなった事。

 俺は今より生活を落ち着けて、金崎さんが安心できる彼氏になりたいと思っていた。


 本音を言えば、オーナーへ隠し事をしているという後ろめたさも少なからずあって、意識的に顔を合わせる回数を減らしていたのも事実だ。

 それでも、シフトが入っている日は今まで通りに仕事をこなして、金崎さんとも出番が被れば、笑顔で楽しそうに働く彼女にひっそりと癒されていた。

 俺達は「秘密」であることすらも何処か楽しんでいるのだと思う。

 同僚にバッタリ会うことを避けるために、河川敷や俺のアパートで落ち合う日が楽しくてしょうがないのだ。

 彼女はシャイでなかなか目を合わせてくれないけれど、少しづつゆっくりと距離を縮めていくことが心の底から幸せだった。




 その日は雨だったのに傘を盗まれてしまったとびしょ濡れでうちに来たから、Tシャツを貸して濡れた服をハンガーに掛けた。さっきまで二の腕に張り付いていた袖が、俺の洗濯物に紛れてカーテンレールで揺れる。

 面白いものの一つもない狭いアパートに文句も言わず来てくれる金崎さんがいつだって愛おしくて仕方がない。

「酒田さん。ごめんね、Tシャツありがとう」

 貸したTシャツは、彼女の華奢な身体ではワンピースにみえる程大きい。

 やっと敬語を使わなくなっても、まだ名字で呼ばれることに物足りなさを感じてきていた。もっと近付きたい、もっと近づいてほしい。

「あのさ、酒田さんって呼ぶの、そろそろやめない?俺も愛ちゃんって呼びたい」

「あ、うん、」

 愛ちゃんの湿った髪に隠れた顔が冷えて赤く染まっていた。

 散らかったベッドに座ってその林檎のような頬を両手で挟むと、彼女は照れた顔で俺を見る。名が体を表す、とはこの事だろうと思った。

「雄二。呼んでよ、愛ちゃん」

「……わかった、雄二くん」

「そう、雄二」

 濡れた髪の匂いと愛ちゃんを包む自分のTシャツの柔軟剤の匂いが混ざって、脳がこそばゆい。

 キスをする間も雨は延々と窓を叩いたけれど、もう、どうでも良かった。 





 

 季節が変わってゆくのを感じながら、気付けば将来の事を考える時間が膨れていて、そこには当然のように愛ちゃんが浮かぶようになり、嬉しい半面、漠然とした焦りが出てきていた。

 その焦りが仕事へ向いて、俺は休み無くがむしゃらに働いた。

 ウニに彼女が出来た自慢をした日は、骨折を心配するほど肩パンチを食らったけど、親友が喜んでくれるのが素直に嬉しいと思えた。

 ただ、仕事に夢中になればなるほど寝る時間は減っていたし、ウニに会える回数も、当然愛ちゃんと会う時間も少なく短いものになっていた。それでも愛ちゃんから「無理はしないで」と言われる度に、もっと無理が出来る体質になっていった気がしていた。


 やっとまともにデートの出来る時間を取れたと愛ちゃんに伝えると、少し離れた海沿いの街の骨董市へ行きたいとリクエストをされた。禁止された職場恋愛への配慮だろうけれど、普段と違うデートはまるで旅行にでも行けるようで新鮮だ。

 疲れているはずなのに、約束の日にはアラームより早く目が覚めてそわそわしてしまう。




 待ち合わせた海の見える街の駅に到着すると、愛ちゃんが小さく手を振って微笑んでいた。

 恋人が自分に笑いかけている。

 それだけで、ここ最近の多忙が全て無かったことになる程に体の中まで浄化されていくような、全身を多幸感が駆け巡って満たしていくような気分で、現実が夢以上に美しいことに感動すら覚えていた。


 ここならば、と堂々と手を繋いでゆるい風を浴びながら歩く。

 お祭りのような賑わいの中で、人目を気にせず恋人らしく振舞えるのが嬉しくて隣を覗くと、俺と同じようにいつもよりも目を輝かせてニコニコと笑う愛ちゃんがいる。

 幸せとは、と今問われたなら、全ての答えは左手の中にあると答えるだろう。

 


「これ、買おうかな」

 愛ちゃんは通りかかったアンティークの骨董屋で足を止め、透き通ったガラスの皿と北欧柄の中皿を2枚づつ選んで店員に声をかけた。店員とにこやかに喋りながら商品を受け取る愛ちゃんのふとした動作の隙間で、腕に大きめの傷があるのを見付けてしまった。

 それはまだ生々しく、そう古い傷では無さそうで痛ましいものだった。

「えっ、愛ちゃん。その傷どうしたの、痛そう」

 俺の言葉にハッとして咄嗟にカーディガンの袖を指まで伸ばして隠す愛ちゃんは、少し口ごもった。

「……この間、家で転んで、お皿、割っちゃって。あの、だから今日新しいの買いたかったんだ。ごめんね、ちょっとグロいよね」

「そういうことじゃないよ、なんか傷深そうだったけど」

「あ……全然平気だよ。 さ、行こう」

 大丈夫だと笑いながら長い露店をはしゃぐ姿に薄っすらと不安を感じる。

 

 あの傷ならそれなりの血も出ただろうに、今まで一言も教えてくれなかった。

 会えない日もメッセージのやり取りはしていたのに、そんな素振りがなかった。

 むしろ、俺が傷を発見しなければ、ずっと言うつもりが無かったのかもしれない。

 心配と同時に、もの寂しい気持ちになる。話してほしかった。

 自分のことをベラベラと話すタイプではないのは理解しているつもりだけれど、少しくらい頼って欲しかった、と切なくなってしまう。





 買い物を終えて海の方へ少し降りて歩くと、テトラポッドの終わりからは砂浜が広がっていた。普段は海を間近で見えるところまで来ることが無いから、やけに美しく見える。

 海と、たまに古い建物があって、近くを線路が通る。それだけの場所。

 愛ちゃんは靡く髪を抑えながら「砂が入るから」とサンダルを脱いで歩いた。

 その姿は神話に出てくる女神のようにあまりにも現実離れした光景で、よくよく見れば綺麗とは言い難い砂浜であるはずなのに、電車で来るよりもっと遥か遠くの楽園まで来たような気がした。

「ねぇ、雄二くん、休憩。そこで休憩しない?」

 愛ちゃんの指の刺す方には、砂浜から続く短い階段と、それを上り終えた所に古い売家があった。

 ドアを開ければ海が広がるような、窓から海以外は何も見えないような家だった。

 壁も、緑色の屋根も、潮風に吹かれてボロボロで錆付き、屋根にはどこか懐かしさを感じるような風見鶏がくるくると回っている。


 二人でその階段にちょこんと座ると、じっと海を見つめて愛ちゃんが口を開いた。

「……あの水族館にいた魚が、この海にも居ると思うとなんか不思議だよね」

 前に休みが取れた時に行った水族館を思い出しているのだろう。

 あの日、愛ちゃんがクラゲの水槽を綺麗だと見つめているその顔が、俺は綺麗だと思った。雨でトドのショーを見られなくて残念そうにしていた姿すらも、可愛くて愛おしかった。

 仕事に夢中になってなかなか会う時間を作れていなかった事を申し訳なく感じながら、大きな水槽の前で何かに怯える仕草をした愛ちゃんの姿を思い出した。

 ああ、もう少しちゃんと傍にいられるようにしよう。チクリと痛んだ心のどこかで固く決心をする。

「また行こうね、水族館。次は絶対トドのショー見よう」

「晴れてる日にね。雄二くんと一緒にしたいこと沢山あるなぁ」

「じゃあやりたいことリスト作ろう。愛ちゃんのしたいこと順番に全部やろう」

 我ながら幼稚な発想だと一瞬恥ずかしく思ったが、愛ちゃんは嬉しそうに目を輝かせた。

「うん、水族館と、あ、そうだ。一緒に行きたいパンケーキのお店があるんだよ、前に常連さんがこっそり教えてくれてね、」

 あれもこれもと計画を提案してくる愛ちゃんの、きっと仕事中だけじゃ見られなかったであろう、花が咲くような笑顔を近くで見ていられる。

 この人の恋人であれる事がとてつもなく幸福で、誇らしい。

 

 愛ちゃんの背中に回って抱き締めると、小さい身体を全部覆える。

 いい香りのする首筋に小さな引っ掻き傷を幾つも見付けて、指でなぞる。何の傷だろう。不穏なものを感じて、ついさっき体中に満ちた多幸感が風船の空気が抜けるように消えていった。

 ――ああ、やっぱり愛ちゃんとはまだ話し足りていない。

 水族館で怯えていたのも、さっきの腕の傷も、これも、理由があるのかもしれない。もっと、知りたい。話して欲しい。

 頼られたい、というエゴに近い感情だったかもしれない。それでも彼女の力になりたいのだ。

 

「愛ちゃん」

「ん、なぁに」

「俺、もっと愛ちゃんの事知りたいな。俺にもっと話して。すぐにじゃなくていいよ、無理しなくていいけど、でも、愛ちゃんが困ったり、泣きたくなったりした時に愛ちゃんを守れない俺で居たくないから。ちゃんと側にいるから、全部大丈夫だからね」

 抱き締める俺の腕に置いた愛ちゃんの手のひらが熱くなる。

 緩い波音、カモメの鳴き声、風見鶏が回る音。

 しばらくの沈黙のあとに愛ちゃんは自分の顔を俺の腕に寄せて、もたれ掛かった。

「私ね、海好きだよ。悲しいことがあると、海の見える所へ行きたくなるの。だから雄二くん、また連れてきてね。こうやって、一緒に来て欲しい」

 目の前の大きな海が愛ちゃんの黒い目に映って揺れる。

 ぎゅっと腕に力を込めると本当に折れてしまいそうで、慌てて腕を緩めると、愛ちゃんが腕から溢れてしまって二人で笑う。


「わかった、いい事思いついた」

 それは我ながら突飛だけれど、名案だと思った。

 別に今すぐに全てを解き明かさなくても、愛ちゃんの小さな歩幅に合わせて側にいようと思った。毎日少しづつ知っていく、それがいい。

 愛ちゃんの悲しい時に海が見えて、そこに俺が居れば良い。

「海の見えるところに住もうよ、一緒に。住んじゃえば、いつでも海が見れて、俺が側に居るからさ。愛ちゃんは悲しくないでしょ」

 愛ちゃんは目を丸くしてから、困ったような顔をして、すぐに溶けるように笑った。

 後ろを振り返って指をさすから、俺はその細い指先を目で追いかける。

 階段の上には、人が住むには限りなくギリギリの古い家がある。でも一瞬で想像が出来た。波の音が聞こえる家で寄り添う、自分と愛しい人の姿が。

「……この家がいい。ボロボロだけど。直して、いつかここで一緒に住みたい、かな」

 愛ちゃんは少し様子を伺うように俺を覗き込んだ。

「そっか、うん、いい。それがいいね」

「ふふ、雄二くん、したいことリストに書いておいてね」

 愛ちゃんの目が柔らかく細まってゆくのをみた。

 ざざん、と小さな波が音を立てて砂浜に広がって戻っていく。

 潮風が優しく頬を撫でて、風見鶏がカタカタと周り、俺は勝手に祝福されているような気さえした。





 すっかり暗くなった頃に、愛ちゃんの最寄駅についた。

 一日遊んで浮かれていたからか、普段なら同僚をに見られることを警戒してあまり来ない改札まで送りに来てしまった。

 平日の夜で人通りも車通りもそれなりにありそうだが、きっとこの短時間で同僚に見付かることもないだろう。油断大敵とはいうが、もしも見付かれば、素直に白状してオーナーへ謝ろう、と苦笑いをして自分を正当化する。

「……ありがとう、雄二くん」

「本当にここでいいの? 家まで送るよ」

「ううん、いいの。大丈夫。雄二くんはこれから夜勤でしょう、疲れさせちゃってゴメンね」

「全然。寧ろ俺は元気でた、ありがとう」

 愛ちゃんの表情に少し淋しさを感じたけれど、洋服に残るほろいそびれた砂を払って、じゃあね、と髪を撫でた。

 会社方面行きの電車のアナウンスが聞こえてホームへ戻るために振り返ると、愛ちゃんが背中にしがみつくように抱き付いた。

 今までに無いくらい強い力で、驚く。

「……愛ちゃん?」

 振り返ると抱き付いた手をパッと離して、愛ちゃんは悪戯っぽく笑う。

 笑っているのに、目に涙が浮かんでいるように見えた。ああ、そうか。久しぶりに一日一緒に過ごしたから、名残惜しさは同じだ。

 またすぐに時間を作ろうと決めて、両手を大きく開き、まだ潮の匂いがする細い身体をまるごとぎゅうと抱き締めた。

「大丈夫、またすぐ会えるよ」

「うん」

「愛してるよ、愛ちゃん」

「うん」

 Tシャツが愛ちゃんの涙を預かっている。

 なかなか会えずに寂しい想いをさせてしまっていたのだろう。そんな姿も可愛くて仕方がない、抱き締めて伝わる愛しい体温をずっと感じていたかった。

 愛ちゃんは小さく息を吐くと、にっこりと顔をあげた。

「ごめんね、もう行って」

「愛ちゃん、本当に大丈夫?」

「楽しかった、本当にありがとう雄二くん」

 目と鼻を赤くして笑う愛ちゃんにトン、と背中を押されてホームへ向かう。

 彼女が家へ着いた頃、連絡が来るだろう。

 始業前にシフトを確認して次の約束を取り付けよう。もう泣かれたくない、もっと傍にいたい。 


 外は、冷たい風が吹いている。

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