海井 奏多 【水槽】.3


 それは人生で一番最悪な日だった。


 線香の香りも、新品の礼服も、趣味の悪い菊の花も、誰も喜びそうにない供物も、その意味を俺に理解させないまま生活に入り込んで、ぐちゃぐちゃに掻き回して、嘲笑うかのように勝手に過ぎていった。

 既読にならないメッセージは、何度確認しても【また明日】と送った夜からずっと未読のままだ。


 「奏多くん、ごめんね」

 この数日間、ひたすら忙しそうに走り回っていた雄二の母が、やっと落ち着いたのか私服に戻って隣に座った。

 雄二の実家には何度も来ていたけれど、隣に座るのが雄二じゃないのは初めてだろう。

 「冷えてないけど」と温い麦茶のペットボトルが俺の横に置かれ、何の実感もわかないまま顔をあげると、雄二より色白な、それでも雄二に良く似た美人が疲れた作り笑いをした。

「奏多くん、前の日に雄二と一緒に居たんだってね」

「うん」

「雄二、どんな様子だった?」

 どんな様子だったか、それはこの数日間しつこく反芻してきた事だった。

 彼女にフラれて辛くなって、立ち直ろうと俺を呼び出して、でもやっぱり彼女が愛おしくて悲しくて仕方無かった雄二の事を、何度も何度も思い出していた。

 最後の一日を繰り返しなぞって、逆光に吸い込まれるように消えていった親友の最後の後ろ姿が脳裏に焼き付いて離れなくなっていた。


「……いつも通りですよ。駅前の蕎麦屋で海老天丼食って、水族館行きました。トドのショー見て、魚見て、アイス食って、電車乗って海見て、また明日なって。次の日また会う約束して、あいつ仕事行きました。それだけ」

 そっか、と小さく呟いた雄二の母は、自分の麦茶を一口飲んで長い溜め息をついて、手の甲で目尻を拭った。

「警察がね、やっぱり事故だろうって。遺書がないから。雄二が起きて説明してくれなくちゃ分からないけど……でも死んじゃったらもう喋られないじゃない。ねぇ、まだ24だよ。あいつ。なんで死んじゃったのかな……自殺じゃ、ないよね、違うよね?」


 聞き慣れたはずの雄二の母親の嗚咽が耳に届いた瞬間、心臓がドクンと跳ねた。

 身体中を悪寒が走り頭痛がする。

 自分の鼓動が爆音で脳を殴打するかの如く鳴り響く。

「……自殺、って」

 背骨に沿って、この世で一番冷たい汗が流れるのを感じる。酷い耳鳴りの中で俺は恐る恐る立ち上がり、震える足で隣の部屋の前に立った。


「あぁ」

 良く知っている笑顔の雄二が額縁にピッタリ収まって、大きな仏花に囲まれている。あんなに大きかった雄二の体は、両手に収まる小さな箱の中だ。

 数秒前まで意味を持たなかった線香の香りが全部の毛孔から入るようにうねり、昨日も一昨日も見てきた祭壇が急に現実となって理解を強要した。


「雄二」


 呼び掛けても一切動かない雄二の笑顔は、ろくに受け入れもせずに喪服を着ていた俺を馬鹿にしているようだった。

 歯がガタガタと震えて言うことを聞かない、息を吸えるのに吐けない。吐けない。

 限界まで吸い込んだ酸素を全部吐き出しながら、呼んだ。


「雄、二」


 人生を閉じた親友を前にして、俺は人生で一番大きな声をあげて泣いていた。






 俺がやっと現実と向き合えて大泣き出来たのは、既に雄二の死後五日経過して、葬儀も火葬も一通り終わった後だった。


 雄二は、自宅の浴槽に体を沈めるように死んでいたという。

 あの日夜勤から帰宅した雄二は、一人で酒を飲み、俺にメッセージを送ったすぐ後に風呂に入ったまま亡くなったのだ、と。

 スマホは風呂から離れたリビングの床に落ちていたらしく、あの晩の俺の返信は、結局既読されなかった。


 結局、直接の死因は溺死で事故死扱いになったそうだ。

  ただ俺には、普段酒を飲まない雄二が、珍しく所謂ストロング系の酒を何缶も飲んでいたという事が疑問だった。

 酒を飲んで風呂に入ってうっかり溺れて死ぬことはよくある事故だと警察は言うから「うっかり酒を飲む奴じゃない、おかしい」と訴えはしたが、成人の男が夜勤明けに酒を飲んで酔うことくらいあるだろう、と一蹴された。運がなかったのだと。

 朝から遊んでそのまま仕事へ行って疲れてもいたのだろう、と言われてしまえば一緒にいた自分が責められているようにも感じて、次の言葉が出なかった。

 何より、雄二が失恋をして落ち込んでいたことは、警察にも雄二の両親にも伝えることができなかった。

 伝えてしまえば、雄二が女に殺された事になりそうで、許せなかった。

 きっと雄二もそれを認めないだろう。





「ただいま」

 誰もいない部屋に入り、電気をつける。

 五日もかけて雄二の不在を自覚しボロボロに泣いた後、それまで殆ど飲まず食わずでろくに寝もしなかったのを心配した雄二の父が、強制的に俺を車に乗せ帰宅させてくれたところだった。

 帰りの車中で「嫌じゃなければ奏多が着な」と渡されたアウターはつい先日まで雄二が着ていたもので、よく知った香りがする。

 目の前にどうしたって雄二の気配があるのに、今はコンパクトに自分の手元に収まる事が、苦しい。


 雄二が死んでからの俺は、警察の聴取も葬儀の対応も無難にこなしていたというが、実際には現実から目を背け続けた五日間の記憶がほとんど無い。

 アルバイト先にはしばらく休ませてくれと自ら連絡をしていたし、葬儀に駆け付けた高校の同級生達とも多少なりと会話をしていたらしいが、全て曖昧な記憶だ。

 それでも、自分の部屋に入った瞬間に、少しだけ思い出したことがあった。

「……雄二の制服だ」

 雄二のアルバイト先の喫茶店の制服が綺麗に畳まれて紙袋に入っていた。そういえば、雄二の母に自分が返却しておくと伝えて持ち帰った記憶がうっすらとあった。


 見事に散らかり放題の部屋は、この五日間の心象を完璧に表現出来ている。

 全く食べきれないで化石になったパンや、お湯を入れただけのカップ麺の残骸を片付けながら、ふと鏡に映った自分が過去最高に酷いクマで明らかにやつれていて、最後に見た雄二のクマを思い出して苦笑した。

 

 枕元に水族館のパンフレットと一緒に、雄二の筆跡が残る『彼女としたかったリスト』が畳んであるのを見付けて、ゴミを集める手を止めベッドに腰を掛ける。

 シワだらけのルーズリーフを開くと、もう居ない雄二の、もう居ない彼女への想いが詰まっていて、分かっているのに涙を堪えることが出来なかった。

 ボタボタと涙を落としながらベッドに倒れこむと、頭にぼすんとクッションが落ちてきた。

 その重みは、あの日水族館の大きな水槽の前で彼女との話をしながら雄二が頭に乗せた手を思い出させて、呼吸がしづらくなる。



 なぁ、雄二。

 俺はお前の友達で、絶対に、いや、多分、お前と恋人になる事はなかっただろうけどな、それでも俺は、お前と毎日一緒に飯食って出掛けて家族みたいに生きていくことは出来たよ。

 エロい事はしなくても、俺は毎日一緒の布団で寝たって良かったし、映画の感想の事で喧嘩して、で、コンビニスイーツで仲直りみたいなテンプレをしたって良かったよ。

 ジジイになったお前の事、看取る事くらい出来たんだよ、俺にだって。

 彼女じゃないけど、俺でもいいじゃんか。介護だってするよ、そん時ゃ俺もジジイだろうけど。

 海の見えるところで暮らそうよ。なんで中途半端に付き合わせて、最後までやらせてくれなかったんだよ。やりたいことリストもまだ残ってるだろうが。パンケーキ行くって行ったろ、自殺じゃねぇよな?



「さっさと返信しろよ、バカ」

 あの日から天気が良い日が続いている。

 窓から入る月明りが邪魔にならないほど疲れていた俺は、失神するように眠った。






 開いたままのカーテンから入る朝の光に叩き起こされる。

 疲れ切ってヘドロのように眠りながらも強く握ったままだった雄二のアウターは、ここに雄二の身体が存在しないことの証明のようで嫌味だ。


 シャワーを浴びに浴室へ向かって、ドアを開ければその狭さを痛感する。

 雄二は風呂場で死んだ。

 確か、雄二の部屋の浴室はもっと狭かった筈だ。

 俺より大きいその身体を小さな浴槽に身体を沈ませてゆくのはどんな感覚だったろう。お湯を張ったから寒くなかったのか、苦しくなかったか、寂しくなかったか。


 ──浴槽に手を掛けてハッとする。ぼんやりすれば後を追いそうな自分を殴りたい。出来るだけ何も考えないように淡々と髪を濡らした。




 外は今日も、皮肉なほど天気が良い。

 雄二の母に託された制服の入った紙袋を持って家を出た。

 握りすぎて一か所だけが皺だらけになった雄二のアウターは、自分が着ると明らかにオーバーサイズで、喪失感を増幅させてくる。

 営業中の明かりがついて鏡にはならない美容室のガラスの前を通り過ぎる。

 シャワーを浴びたから寝ぐせは直っていたが、乾ききらない髪を通り抜ける風が冷たい。


 雄二の死を自覚してもまだ、納得がいかなかった。

 確かに雄二は泣いていた。失恋をして傷心していた。

 少なくとも、あの日まだ彼女の事が好きだったし、彼女との日々を引き摺っていた。

 でも海老天丼をおかわりしていたし、トドに手を振っていたし、自発的にソフトクリームを食べた。バカみたいに二人で笑った。

 「区切りをつけたい」と俺に言ったのは、雄二なりに前向きな決別だったと思う。何より俺の知っている雄二は「また明日」と別れて、そのまま勝手に死んでやるような奴では無い。

 自殺じゃない、絶対に自殺ではないと信じたい。






 赤いドアを開けるとカランと鐘が鳴る。

 カジュアルな店内には落ち着いた洋楽が流れて、香ばしい珈琲と誰かの煙草の匂いが優しく漂っている。

「いらっしゃい……海井、久しぶり」

 揃いのエプロンをした数名のスタッフの中で、1人だけスラックスにシャツ姿の髭面の男がニッコリ笑った。軽く会釈をして、手招きされるがまま他に客のいないカウンターの席に座った。優しい声で「コーヒーでいいかい」と聞かれて、頷く。


「酒田のこと、本当残念だったね」

 男は静かに話しながら珈琲の豆を挽く。雄二が働いていた【鴻上珈琲】のオーナーの鴻上だ。

 高校時代、初バイトだった俺達は三年間とてもお世話になった。

 高校を卒業して専門学校に通い始めるタイミングで俺はこの店でのバイトを辞め、雄二はそのまま居残る事になったが、雄二はオーナーの淹れるコーヒーが好きだからと真剣に習っていたから、最後にはしっかりオーナーの味を受け継いでいた。

 カウンターに置かれたコーヒーはふわっと良い香りを広げる。今はそれだけで涙が出そうで、平常を装うのに必死だ。

「オーナー、これ。雄二の制服、預かってきました」

「……悪いな、サンキュ」

 紙袋を手渡すとオーナーは疲れの浮かぶ顔で受け取って中を覗き、大きく息を吐きながら目を開けて天井を仰いだ。

 皆、同じように雄二の死を悲しんでいる。

 雄二や俺がオーナーの事を兄か父のように慕っていたのと同じように、彼もこのカウンターからずっと見守ってくれていたのを知っている。雄二は特に長くここにいたから、オーナーにとってもあまりにショックだったのだろう。

 カップから昇る柔らかい湯気が昨日遺影の前で揺れていた線香のけむりと被って、喉の奥に何かが詰まるような違和感が襲ってくる。


「海井、お前は大丈夫か?」

「何がっすか」

「随分酷い顔してるから、お前。無理もないよ、どうせろくに寝れてないんだろ。酒田の隣はいつも海井だったもんな。俺、お前ら見てるの結構楽しかったんだよな。お前が辞めてからも酒田はお前の話ばっかりしてたんだよ。たまにお前が顔出すと全然仕事しなくなるしなぁ」

「はは」

 どんな返事をするのが正しいのか分からず、引き攣りながらカップに口をつけた。

 昔は飲めなかったブラックコーヒーがいつから飲めたか思い出そうとしたけれど、思い出せない。

 思い出せないことが怖いと思った。

 いつかこの気持ちも忘れてしまうのが恐ろしかった。

 雄二のことを忘れる日がくるとは到底思えないのに、俺はきっと今までも忘れたくない日を忘れながら生きている。

 熱いコーヒーを一口流し込み体の内側で深呼吸をして、この店にきたもう一つの理由を切り出した。

「あの、オーナー」

「ん、どうした?」

「ここで働いてる子で、愛って子、いますか」

 オーナーは一瞬キョトンとした顔をしてから、小さな皿にガトーショコラの切れ端と生クリームを乗せて「食いな」と渡してくれた。

「金崎さんの事かな、金崎愛。なんだ、海井の知り合い?」

「……あ、知り合いというか。どんな子でした?」

「普通のパートさんだよ。まぁ一週間と少し前位に辞めちゃったんだけどね。お前みたいにすごく動くタイプって訳ではなかったけど、静かで可愛らしい感じの人だったかなぁ……なんで?」


 ──これ以上聞いてはいけないような気がした。

 俺は、金崎愛を知らない。

 雄二の記憶に踏み込む権利がない、雄二の思い出は雄二の中だけで終わらせてやるべきだ。 

 でも、雄二があの日俺の前で泣かなくちゃいけなかった本当の理由を知りたいと思ってしまった。雄二が死ぬまで知り得なかった事を知りたい、と願った。眉尻を下げた雄二が放った「俺だって知りてぇよ」が耳元でもう一度聞こえた気がした。


「その金崎愛って、雄二と、その、……」

 怖くなって声が震えた。言葉になる前に音が喉で消えていく感覚だ。

 唾を飲んで続きの一言を発したかったが、オーナーが察する方が一足早かった。

「あぁ、ないない。付き合ってたか、だろ? あのな、金崎さんは、既婚者。お前らより年上でな、30歳。あ、酒田から聞いてなかったか。今ウチは職場恋愛禁止なんだよ。海井が辞めた後にさ、営業中に大喧嘩したカップルがいて大変だったんだよ。はは」

「……は…………」

「流石にそういう素振りあれば俺は気付くよ。酒田、なんか言ってた?」

「いや……」

「まぁ、酒田は金崎さんの教育係ではあったからね。気使ってくれてたけど、それだけ。酒田の事は高校の時からずっと見てるから分かるよ。海井の事もだよ、僕は海井が酒田の事を大好きなのも気付いてたしね」

 カランと鐘が鳴り、大きめの台車を押した業者が入ってきた。オーナーは疲れた顔で穏やかに俺へ笑いかけてカウンターを出た。


 頭の中で大きな波が起こる。

 別れの理由を解き明かしたくて質問した筈が、また別の謎を生んでしまった。

 既婚者? 雄二は、それを知っていた?

 こめかみを走る血管に暴力的に血が流れるのを感じる。最後に見た雄二の横顔が冷めたコーヒーに映って揺らぐ。

 雄二が守りたかった、最期の時まで一緒に居たいと願って流した涙は、一体誰のものだったのだろう。何故、死んだのか。急に不安が塊になって喉に詰まる。

 雄二が普段飲まない酒を飲んだのは?

 深夜に送ってきたメッセージの本当の意味は?

 もし、もしもだ。万が一、雄二の死が事故じゃなかったとしたら。本当に死ななければいけなかったのだろうか。


 何かがあったのだとしたら、何が。



 店の中は、ランチタイムを前に少しづつ客が増えてきていた。

 相変わらずに食欲は無いが、オーナーがガトーショコラの切れ端を出してくれる時は大概が気遣いだと知っていたから、冷たいホットコーヒーで流し込み、呼吸を整えてスマホを取り出しメッセージを開く。


【ガワさん、昼、空いてますか】


 すぐに既読がついて意味不明なキャラクターがピースをしているスタンプが送られてきた。次いで、GPS情報が送られてくる。一駅先のビルが示されていた。今日の現場なのだろう。

 彼には雄二の葬儀で会った気がするが、やはり何を話したか全く記憶に無い。


 会計をしようとレジへ向かうと、忙しく動き始めたオーナーがニヤリと笑いながらシッシと手を振る仕草をした。レジの横に居た若い店員に「また来ます」と小さな会釈をして、店を出た。






 隣駅に着いたのは丁度昼になった頃だった。

 昼飯を求めてスーツや作業服が駅前をウロウロし始めている中を突っ切ると、目的のビルの前で電子タバコを咥える長髪の小川を見付けた。

「よお、ウニー!」

「ウニって呼ばないでくださいよ」

 仕事の休憩中らしく、汚れた作業着からは柑橘系の洗剤の匂いがする。

 口元の電子タバコから偽物のミントのような水蒸気を溢して歩く小川の後ろについて、日陰になった沿道のベンチに腰を落とした。

 小川の持つ袋には、プラ容器からはみ出すほど大きなカツサンドが入っている。小川は一人分のカツサンドを取り出して、残りを袋ごと「食え」と言わんばかりに俺の胸元に押し付けた。


「あーあ、疲れた。雄二が居ねえから仕事がメチャクチャ忙しくなっちまってさ」

「……そっすよね」

「なあウニ、お前は少し落ち着いたか?」

「だから。ウニって呼ばないでください」

「おう、なんだ。文句言えるくらい元気ならちょっとは安心したわ」

 どこへ行っても暗い顔ばかりが目に入る今、ガハハと笑う無神経さがありがたい。

 中学からの先輩である小川は普段俺を名前で呼んでいるが、雄二が「ウニ」と俺を呼ぶ事を知って以来、たまにふざけてウニと呼び、それを遮るのが恒例のやり取りになっている。

 それでも、紙パックのフルーツ牛乳を飲みながらカツサンドにかぶりつく小川は、思った通り普段よりかなり口数が少ない。


「ねえガワさん。葬式の時、俺ってガワさんとなんか喋りましたか」

「ああ。謝ったじゃん」

「は、何をですか」

「こんな事になってごめん、って」

 小川は食べるのを止めて、眉をひそめ唇を噛んだ。

「奏多さてはお前、ちゃんと聞いてねぇだろ」

「……ねぇっす。すんません、なんか頭ん中いっぱいで。まともに状況整理できたのも、火葬終わって雄二の実家であいつの母さん泣いてんの見て、やっと、って感じ。それまで雄二が死んだとかちゃんと理解も出来てなかった。したくなかったんだろうな」

「だろうな。普通に振る舞ってたけど何となく変だったぜ、ウニって呼んでも返事するしよ」

「……はぁ。察し方がしょうもねえんすよ、ガワさんは」


 力なく笑ってから、ベンチの周りにカツサンドを狙った鳩が集まってきているのを無視して小川は話し始めた。

「あの日、緊急の夜勤案件が入ってさ、人手足りねぇから雄二を呼んだんだよ。

 昼過ぎに地下鉄で人身事故があって、男が死んだんだと。自殺だったらしくて、体はバラバラ。当然警察も入ったけど、地下鉄とかって長く運休も出来ないから大体の片付け終わったらダイヤ戻すんだわ。

 んで、終電行っちゃってから、改めて俺らみたいなのが本格的に掃除する。年に何回かあるけど、たまたまあの日がソレだった。

 普通、遺体とか遺品は俺らが作業始める頃には無くなってるもんなんだけど、たまーに死角に隠れてた肉片が出てきたり、エッグい私物出てきたりする事もある。

 あの日、偶然それを見付けたのが雄二だったんだわ。

 ICカードのケースみたいな、何つうの? 開いたら写真や何か入れられるようなヤツ。ソレ開けたら写真が入っててさ、多分嫁と子供なんだろうけど。アイツ、それ見て固まっちゃってよ。

 きっとショックだったんだろうな。まぁ駅以外にも孤独死とかさ、特殊の現場には何度も連れていったことあったけど、血がベッタリついたリアルな家族写真って、引くだろ。ホラー映画よりホラーだよ、インパクトがすげぇ」


 小川が「そうそう」と作業着のポケットから、屈強なバンパーカバーを着けたスマホを取り出した。顔に似合わず真っ白なチワワの待ち受けをスワイプして画像のフォルダを選択する。

「拾得物は写真撮って会社に即報告しなくちゃいけねぇルールだから撮ってあったんだけど……あぁ、これだ。見ろ、やべぇだろ」

 片手サイズの液晶に映るのは、昼間の血肉が酸化してドス黒く染まったヌメ革のケースの写真だった。

 だが、その写真の情報が脳に伝わった瞬間に、強い眩暈がした。

 そこに差し込まれた写真に映る人物に見覚えがあったから。


「おい、俺がこれ見せたとか誰にも言うなよ。これ秘匿なんとかだから」

 しゃべり続ける小川の声が、脳を殴るようにこだまする。

 俺は猛烈な吐き気に襲われて目を背ける。

 でも見なければならないと思った。

 今にも内臓ごと戻しそうになる口を両手で抑えながら、もう一度画面に視線を戻す。


「…………金崎、愛」

「……は。おいおい奏多、お前この女知ってるんか」

 気づけば太陽がさっきよりも高いところへ昇っていて、日陰だった筈のベンチが日向になりかけている。

 小川が午前中をフルに使って磨いてきたであろうビルの上層階の窓はキラキラと反射しているのに、手元にある液晶画面は最悪の情報を提示していた。


「……ガワさん。雄二の彼女の話って、あいつから聞いたことありますか」

「ああ、あるけど……はぁ!? え、コイツ!?」

 小川の大声で、鳩達は一斉に飛んでいった。

 いつまでも暗くならないスクリーンの中で、いつかの雄二が少し照れながら見せてきた、彼女フォルダを埋めていたその顔が、肉片の混じった血に縁取られて笑っていた。

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