第15話

泥だらけの体でどうにか立ち上がると、水道へと向かった。



もう長い間誰にも使われていない水道は出が悪く、最初は赤錆が流れ出てきた。



そこで顔に土を洗い流していると恵美に殴られた頬がどんどん腫れてきた。



少し触れるのも痛くて、熱を持っている。



顔をしかめつつ、ハンカチを濡らして制服についた泥を落としていく。



水色のハンカチはすぐに泥だらけになってしまった。



帰るまでにもう少しマシな格好になりたかったけれど、これ以上は無理みたいだ。



仕方なく公園を出ようとしたとき、突然後方から声をかけられていた。



「舞?」



それは少し嬉しそうな、跳ねるような声だった。



その声を聞いた瞬間舞はその場に硬直してしまい、振り向くことができなかった。



「舞? こんなところでなにしてるの?」



声は無邪気で、こちらへ近づいてくる。



歩くたびにガサガサとナイロン袋が揺れる音がするから、買い物から戻る途中なんだろう。



「ねぇ、舞?」



肩に手を置かれてビクリと跳ねさせてしまった。



同時に肩に乗せられた温もりに涙がジワリと滲んでくる。



今すぐこの人にすがりつきたい。



その胸で泣きたい。



そんな気持ちをグッと抑え込む。


ついさっき恵美たちに、青っちに頼らないように脅されたばかりだ。



青っちに頼ればきっと更にひどい目に逢う。



「舞」



肩に乗せられていた手が強引に舞を振り向かせた。



その瞬間舞の両目からボロボロと涙がこぼれ落ちる。



それを見た青っちは息を飲み、そして反射的に両手を伸ばして舞の体を抱きしめていた。



「どうした舞。なんでこんなことに?」



質問されればまた涙が出てきてしまう。



そしてその質問に答えようとすると、口からは嗚咽がこぼれ出してしまった。



溢れ出した感情はそう簡単には止まらない。



次から次へと流れれだす涙を止めることができなくて、舞は青っちの大きな体に抱きついたのだった。


☆☆☆


それから30分ほど経過したとき、舞は青っちのアパートの部屋にいた。



「母親はまだ帰ってこないから」



という青っちに連れられてここまで来たのだ。



普段なら彼氏でもない男の部屋に上がるなんてと躊躇したはずだけれど、泣きじゃくっていたときの舞はここまで来た記憶がほとんどなかった。



「ごめんね。近所の人とかに噂されない?」



どうにか泣き止んだ舞が青っちにそう聞くと「噂なんて言わせたいやつに言わせておけばいいんだ」と、青っちは白い歯をのぞかせて笑った。



そんな青っちにつられて笑顔になる。



切れた口の中が少し痛かったけれど、それほど気にならなかった。



「それで、あんなところで何してた?」



青っちにシャワーを貸してもらい、汚れた制服は洗濯機に入れて、代わりに青っちの体操着を着させてもらっていた。



おまけにテーブルの上にはあたたかいココアまで用意されている。



気の利く青っちに思わず笑ってしまいそうになる。



「……呼び出されたの」



「誰に?」



「クラスメート。ごめんね青っち、私今クラスでイジメられているの」



ずっと言えなかったこと。



青っちにだけは秘密にしておきたかったことだ。



だけどあんな泥だらけの姿を見られたらもう、かくしてはおけない。



青っちは一瞬大きく目を見開いて、それから「そっか」とだけ言った。



どうして? とか、いつから? なんて質問はしない。



青っちはイジメは唐突に始まり、そして唐突に終わることを知っている。



理由や期間を聞いたって意味がないんだ。



「青っちはどうだったの、前の学校で」



舞は愛の言っていた噂について思い出しながらそう質問をした。



もしかしたら、なにか聞かせてくれるかもしれない。



「俺は別に、なにもないよ」



青っちは救急箱を開けながらそう答えた。



消毒液を取り出して、舞の膝に垂らしていく。



「本当に、なにもない?」



消毒液のしみる感覚に少しだけ顔をしかめながら舞は聞いた。



青っちは一瞬舞へ視線を向けて、膝に絆創膏を貼り付ける。



「もしかして、なにか聞いた?」



青っちの質問に舞は小さく頷くだけにとどめた。



どんな噂が流れているのか、見に覚えがあればすぐにわかるはずだから。



青っちは大きなため息を吐き出して「本当に、今の学校の生徒は噂好きみたいだな」と、苦笑いを漏らしたのだった。


☆☆☆


前の学校で青っちはごく普通の学校生活を送っていた。



ただ、毎日のトレーニングはかかさない。



学校から帰るとすぐに近所の柔道教室へ向かい、誰よりも先に練習を始める。



高校の部活動でも柔道はあったが、弱い選手に合わせたトレーニングをしているようなので、入部はしなかった。



とにかく自分自身を鍛えること。



小学校時代にイジメられていた苦い思い出がある青っちには、それが一番の目標だった。



その日も青っちは柔道へ向かう予定にしていた。



高校に入ってからは大会でも体格のいい選手が増えてきて、青っちを追い抜かす選手も多く出てきた。



それを見ていると俄然やる気が出てくるのだ。



当時通っていた学校は裏門からでも生徒が出入りできるようになっていて、少しでも近道をしって帰りたい青っちはいつも裏門へ回っていた。



ただ、裏から出ると細くて街灯もない道を歩くことになるので、好んで裏門から出ていく生徒は少なかった。

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