14:天樹茨と春小路文芽
「おぉっほほほほほほほ!」
「よっ!お嬢様!今日も麗しい!美しい!よっ!人間国宝!」
高笑いが流水音に混ざり、若干シュールな光景を生み出している場所
「・・・変なのに遭遇してしまった」
環自身、二人をみて心からそう感じた
厄介な人間にかまってはいられない
環は先の指示通り、荷物をおろして水路を進む準備を整えるが・・・
「環」
「はい。お嬢様」
「おもしれーおんな。なのですよ!あくやくれいじょー?的な高笑いもセットなのです!」
「あがぁ・・・」
茨は文芽たちに興味を示し、せっかくの先行スタートで稼いだ時間を浪費していく
環は頭を抱えて、そんな茨をどう止めるか思案する
それと同時に浮かぶのは、茨の知識に対する疑問
おもしれーおんなとか、あくやくれいじょーとかどこで覚えてきたのだろうか
そういう漫画も小説も、触れた形跡はなかったのに
「い、茨。流石に関わっている場合じゃないだろう。追いつかれたんだぞ。ほら」
「嫌なのですー!もう少し観察するのですー!」
「試験に合格してからにしてください。ほら、おんぶするから・・・」
「環はいじわるなのです!いつからそんな子になったんですか!」
抗議してくる茨を無理やり捕まえて、暴れる彼女を背負った
「いじわるでも、俺には茨を支える義務がある。それをきちんと果たすために、ここに来たんだ」
「「義務」・・・なのですか?」
「・・・ああ、そうだよ」
「そうですか」
力なく抱きつき、どこか寂しそうにつぶやいた茨の声
環は耳元で聞こえたはずだった。けれど水の音が全部流してしまった
環は小さく息を飲んで、気持ちを整える
春先の水中はまだ冷たい。着衣水泳はやったことがあるが・・・不慣れなのも事実
集中して取り組まないと、待つのは水底だけ
薄暗く冷たい水面へ足を踏み入れようとしたが・・・
「いや、お前。文芽様の話を聞く前に進もうとかどういう神経してるの?」
「なっ・・・」
氷堂真幌が、二人の動きを止めた
「そうよそうよ。だからね、貴方。全部置いていくの?と聞いているでしょう?人の質問ぐらい答えてから行きなさいよ」
「全部置いていかないと、俺はお嬢様を運べない。仕方のない犠牲だ」
「それが彼女にとって大事なものでも?」
「・・・私がいいと言ったのです。そこに残していくのは買い換えられるものです」
「確かに、消耗品ばかりね」
「おい、あんた。人の荷物を」
「捨てていくのでしょう?勝手に見てもいいじゃない」
「・・・」
確かに置いていくと、捨てていくと決めたのだ
何も文句は言えない。だから二人が荷物を漁る光景を黙って見ることしか環には出来なかった
「あら。このスケッチブックも置いていってしまうのかしら」
「それは・・・」
鞄の中から取り出したスケッチブックは、船に乗り込み、昼寝を行うまで茨が肌身離さず持っていた
もちろん、中身を見られないように鍵のついた特注のスケッチブックホルダーに収納されている
しかし防水加工は存在していない。だからこそ・・・ここで置いていく決断をした一品だった
茨にとってそれは「大好き」を描いたもの
けれど・・・それはまだ「取り返せる」もの。いつだってまた新しいものを描ける
「また、描けるものなのです。だから、置いていくのです」
「真幌」
「あいあいさー!」
氷堂は素手で鍵を壊し、ケースからスケッチブックを取り出す
「何度でも描けると言うけれど、その時の感情も表現できるのかしら」
「・・・それは」
「描きたいと思いながら描いた絵と、義務的に描く絵じゃ変わると思うけれどね、天樹茨さん?貴方の作品、いつもそうじゃない」
「なぜ私を・・・」
「有名だもの。うちでも貴方の絵を飾らせて・・・ほわぁ!?」
突如、春小路文芽は叫びだす
顔を真っ赤にして、見てはいけないものを見てしまったかのような反応
しかしそれは、茨達の行く先を変える反応でもあった
「あああああああああ貴方!」
「なんですか?」
「貴方、咲乃さんとお知り合いなの?」
「はい。咲乃とはここに来てから初めて出来たお友達なのです」
ちなみにいうが、文芽が持つ開かれたスケッチブックのページに咲乃は描かれていない
その一つ前のページには描かれているのだが、開かれているページに描かれているのは砂雪なのだ
茨自身、軽く人物を描く時は一ページに一人ずつと決めている
茨はかつて父から「ページの無駄遣い」だと言われたことがある・・・
それでもやめなかった彼女の癖は、今回幸を成したらしい
「・・・取引をしましょう。貴方たちの荷物、真幌が濡らさずに対岸まで運びます。それにこのルートということは貴方達と私達のゴールは同じだと推測するわ。私が持つ全ての情報を共有させます。その代わり、このスケッチブックを譲ってください」
「なぜですか」
「私が欲しいからです!」
茨と環自身、こんな好条件で試験に協力してくれる人が出るのは美味しい
それにスケッチブックが対価だ。その気になれば彼女が欲しい絵を描くことで取引を続けることも可能と、二人は推測した
しかし、なぜ彼女がそこまでしてスケッチブックを欲しがるかまではわからなかった
・・・絵が、好きなのだろうか。それぐらいしか理由が考えつかなかったが
隣の彼が、二人に疑問を解消する答えを教えてくれた
「お嬢様は、なんか胡散臭そうな男が描かれているページが滅茶苦茶欲しいらしいです!」
「なっ、真幌!何を言っているのかしら!彼のどこが胡散臭いというのかしら。とても素敵な方よ!」
「・・・砂雪のページ。なるほどです」
「なぜだ・・・」
茨は向ける相手こそ違えど同じ感情を持ち、同じことをしようとしている彼女に親近感を抱くが
そういう話題に疎い環は、なぜ砂雪のページを欲しがっているのか全く理解できていなかった
「いいですよ。そのスケッチブック、無事にゴールできた暁にはプレゼントするのです」
「本当に!」
「ええ。だから提示した条件を全てこなしてくれることを、私は願います」
「もちろん。春小路家の名に懸けて。一言一句違わぬよう、取引を遂行しますわ」
「交渉成立ですね」
こうして、こちらの交渉は成立し、取引は遂行される
そして同じ目的地に向かうことになる春小路文芽と天樹茨の両名は
無事に合格の切符を得ることになる
「どうした、茨」
「ううん。なんでもないのですよ。環」
出発前、茨は大事に持っていこうと思っていた絵を捨てようとした
けれどそれは環本人に声をかけられたことで、機会を失ってしまった
何も思われていない。ここに来たのも自分が純粋に心配ではなく、家の義務だと言われてしまったのだから
諦めて捨てようとした「環が描いてくれた天樹茨の似顔絵」
どこにでもいる子供が描くような似顔絵
他人が無価値だというこの絵は、茨にとって最大の価値を持つ絵だった
「ほらー、お二人共。行きますわよー!」
「ふんぬっ!」
着衣水泳をしている文芽と、荷物を全部抱えて、水面を走る真幌
とんでもない二人と咲乃を通じて巡り会えた二人もまた、水面へ足を踏み入れた
春小路文芽は欲しい物を得て、大事なものを何一つ捨てることなく
天樹茨は欲しかった物を失い、それでいて大事なものを捨てられず
・・・二組はゴールへと向かっていく
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