ラプラスの悪魔は自由市民を呼ぶ
「桜の花びらの挙動を予測することができるようになる未来について、僕は正直想像できないんだよな……」
まず、僕は前提を切り崩していく。
「いくら科学技術が進歩しても、ですか?」
「そうだね」
笹野の譲歩を前にしても、僕は譲歩できぬ。
「そもそも、桜の花びらの挙動って、いろんな要素が絡んでると思うんだ。桜の花びらは空気抵抗を受けているわけだから花びらの微妙な形の違いによっても左右されうるし、微かに風が吹けばそれでも挙動が変わる。後は花びらが落ちる微妙な角度の違いだとか、その日の気温とそれに関連する空気の密度などなど……。それこそ分子レベル、素粒子レベルの違いにまで目を向ける必要が出てくるだろうよ」
以上、前提である。
「つまるところ、バタフライ効果というお話ですか……」
「そういうこと」
話が早いのは助かる。
「そして、笹野の話だと、それらを全て観測して、その結果を何らかの公式に当てはめたら答えが出るのではないかって話だろ?」
「そうなりますね」
「だとしたら、そもそも観測の段階で無理が出るんじゃないか? それこそすべての要素をその瞬間その瞬間に観測しなくちゃいけないわけだけど、そこに人間の手が加わってる以上はどうしても観測誤差が生まれるはずだ。そして、その観測誤差によって結果がいかようにも変わってしまう。だから、少なくとも現実的ではない」
以上、証明終了。
「それでは、ここからは思考実験をしてみませんか?」
ここで笹野から提案がやってくる。
「もしも私たちが頭の中にラプラスの悪魔を飼っていたらどうなるのかということを考えてみたいのです」
「成る程。面白い議題だ」
念のため説明しておくが、ラプラスの悪魔というのは、この世で巻き起こるすべての事象を認知することができる仮想の存在のことである。
「そうだな……。もちろん、桜の花びらがどのように舞い落ちるのかということも分かるわけだし、それに桜の花がいつ散るのかということもあらかじめわかっているってことだよな」
「そうですね。そう考えるとやはり味気ないように思えますよね」
とりあえず桜の花に即したお話をしてみる。
「あと、私たちのこの会話も歪なものになるのではないでしょうか?」
そして、笹野が作麼生と話を発展させる。
「例えば、島原さんが今から何を話すのかということを私は知ることができるので、私は島原さんの話を聞かずに話し始めることになるでしょう」
……そういうことか。
「だとしたら、僕も笹野の話を聞く必要がなくなるわけか。笹野が僕の言いたいことを知ることができるということを僕は知ることができるわけだし、それを踏まえた笹野が何を言いたいかもわかってしまう」
「さらに私もそこまでの流れを読み切れるので、一足飛ばしに会話をすることになるでしょう。そして、それを繰り返していくと、会話なんてものは不要ということになってしまいますね」
そして、不思議とラプラスの悪魔を飼っていない僕らも黙りこくってしまった。
「ところで島原さん。あなたはそのような世界に住んでみたいと思いますか?」
ここで、1つのアンケートが提示された。
「僕はお断りだね。僕の行動が全て予測される……、もっと言えば、僕の行動が全て自然法則なんぞに支配されているなんて不自由極まりないからな」
自由市民といえど、従うべき法規には従う。その法規に従うか否かは契約の履行に伴うわけだが、この世に生を受けた以上、自然法則には逆らえないのだ。僕の行動を完全に理解されるなどということを想像するだけでも反吐が出そうだ。
「私も遠慮したいですね。分からないことをあれこれ考えたりする楽しみは失いたくないですし、それに、何よりこうしてお話することの方が楽しいですから……」
笹野はそう呟きながら、僕を真正面から視界にとらえていた。
「だから、島原さんには非常に感謝しております。何せ、私の話をここまで親身に聞いてくださる方も珍しいですから……」
その笹野の表情には、微笑みの裏に寂しさがあるように映った。
「こちらこそ色々と考えさせられた。僕でよければまた話を聞きたい次第だ」
確かに、笹野はどこか浮世離れした随想家といった感じの人で、その話についてゆけないという人も少なくはなさそうだ。でも、僕は自らの自由意思に基づいて、笹野の話をまた聞きたいと思ってしまうのだ。
「是非、お願いしたいです。私も島原さんのお話をもっと聞いてみたいと思っていました」
そして、笹野はあどけない笑顔を湛えたのであった。
「ところで早速なのですが、1つだけどうしても気になることがあるのでお聞きしてもよろしいでしょうか?」
と笹野が口にしたので、僕はまた思考のスイッチを切り替える。
「今度は何だ? 満員電車には無限に人が乗れるって話か?」
「そのお話も大変気になっていたお話なのですが、今回は別のお話です」
やはり僕はラプラスの悪魔にはなれない。そのことが実に誇らしい。
「それで、気になっていることなのですが……」
彼女は僕の左側に視線をずらし、口を開いた。
「そちらの彼女とはどういった関係なのでしょうか?」
その視線の先を見ると、谷崎佳菜が僕らのことを恨めしそうな目をして立っていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます