チェス好きとは限らない
昼行灯
1話でさっくり完結
目の前に男がいる。全身黒ずくめでマントを羽織った男だ。フードを深く被った男の顔は見えない。誰なのかも知らない。しかしテーブルを挟んだ向い側に男は座っている。音楽もかかっていなければ照明も薄暗い、この無機質な箱と言うのが相応しい部屋で男と向かい合っていた。
いつ部屋を訪れたのか覚えていない。場所もどこだか知れない。突然連れて来られたような部屋は見覚えがまるでなかった。しかし居心地は悪くはない。むしろ心の落ち着きすら感じる。男と自分以外は誰もおらず、家具もないのに、一抹の不安も感じなかった。
「……始めようか」
男が語りかけてきた。低く響く声は直接脳に話し掛けられているような音域だ。唯一の家具らしい家具のテーブルに目を向ける。盤が置いてあった。白黒のチェック柄だ。盤には6種類の駒が並んでいる。
ポーン、ルーク、ナイト、ビショップ、クイーン、そしてキング。
隊列を組んだ白と黒の駒が戦いの火蓋を切るのを待っていた。
「君からだ」
男に応じてポーンに手を伸ばす。白い兵が一歩前に出た。駒から手を離すと男が黒い兵隊に手を伸ばす。男は白い手袋をしていた。手袋のまま男が手を指す。駒と盤がぶつかる硬質な音が耳に残った。順番が来る。白い兵を動かす。男に順番が回る。黒い兵が動く。
チェスのルールに則って白と黒のポーンが進撃を開始し、ビショップやナイトも討ち取る準備に入る。
ふと、対局時計がない事に気がついた。通常はお互いに持ち時間が決まっている。平等に対局時計で時間を計りながらゲームを進めるものだ。しかしテーブルに対局時計はなかった。いや普通の時計すらこの部屋にはない。時計と呼べるようなものは体内時計だけだった。
わざと一手を遅らせてみる。長考するような盤面ではない。しかし考え込むように口元に手を当てて悩む振りをする。男は微動だにしなかった。微塵の性急さも纏わずに黙って盤を見ている。こちらを急かすような事もしない、言わない。刻々と経過する時の中でこちらの手が終わるのを待っていた。
長考の振りを止めて手を指す。男が動いた。返す手で順番が戻ってくる。自分の番が終わるとまた男は動かなくなった。対局時計がない理由を確信する。
このゲームは時間を必要としていない。チェスのルールを元にゲームは進んでいるが、制限時間のない、お互いの意思と腕だけが勝負を決する無限のゲームだった。
だがいくら無限のゲームといっても本当に無限ではいられない。人の時間は有限だ。体力も精神力も消耗していく。仮初めの無限だ。
それなのに不思議と男を見ていると時間は無限にあるような気になってしまう。
男の余裕がそう思わせるのか、無口な所作がそう感じさせるのか。
それとも、時間の尺度が違うのか。
男の正体が何にせよ、いつかはゲームは終わる。どちらかが勝ってどちらかが負ける。
おそらく引き分けはないだろう。
ゲームが続く。
中盤になるとお互いの裏をかき始める。駒が取られ始めた。こちらも取り返す。一進一退の攻防が繰り広げられる。
男の腕は良かった。圧倒的な強さはないものの乱れがない。隙がなくこちらが指し間違えると直ぐに主導権を握られてしまいそうだった。
終盤になると、いよいよ盤の駒は減った。お互いの手元にポーンを始めとした相手の駒が並ぶ。一手も間違えるわけにはいかない駆け引きが繰り広げられた。裏の裏をかいて真っ正面から攻撃を仕掛けてもいなされて反撃される。それをまた返す。一手一手に高まる緊張感に興奮する。
初めてだった。
これほどまでに緊張するのは。ここまで苦しくも楽しい勝負は。
脳内でノルアドレナリンやドーパミンが分泌され、ランナーズハイのような快楽に頭がくらくらする。いつまでも無限に交わしていたい衝動に陥る。
だからこそ、勝負が決した時は激しい寂寥感に襲われた。
勝負は引き分けだった。
有り得ないと除外していた結果が現実となった。まさに有り得ないことだった。
お互いにキングは残っているのに次の手が指せなくなってしまっている。無限に感じた快楽は実は有限だったと思い知らせる現実は無常だ。心に穴が空く。自失していると男が席を立った。
「……君の勝ちだ」
「え?」
立ち去ろうとする男を慌てて引き留める。
「ま、まってくれ! 勝負は引き分けだ! も、もう一勝負を……」
「……駄目だ」
男は言った。
「我らにとって引き分けは負けに等しい。お前に勝てなかった私がお前を連れて行く資格はない。これで終わりだ」
一体何を言っているのだろう。
対象とは? こちらとは?
男の説明は全く理解できなかった。ただ再戦できないのが悲しかった。
「……案ずるな。いずれまた時はくる。その時までに私も腕を上げよう」
「ほ、ほんとだな? また勝負をしてくれるんだな!?」
「望もうが望まなかろうが再戦の時は来る。次の時が来るまでの暫しの間は己の腕に感謝して肉体に帰るがいい」
「肉、体……?」
男の右手が伸びてくる。眼前に迫る白い手袋に目を逸らせない。瞬きを忘れた。額を鷲掴みされる。意識が朦朧とした。
「また会おう」
別れの言葉と共に意識が途切れる。混沌とする中、ほんの一瞬だが男の顔が見えた。
黒いフードに隠されていたのは骨の顔。痩せている、頬が痩けているなど生優しいものではない。骸骨そのものだった。そこで気がついた。
男は「死神」だったのだと……。
次に意識が戻った時、男の姿はなかった。密閉された部屋でもなく、自室のベッドの上で横になっていた。夢とするには生々しい。現実とするにはリアルが欠けている。
ぼんやりする頭は起きているのか、まだ寝ているのかも定かじゃない。
ただ、死神とまた会える日を楽しみにしている自分がいる。
それは確かだった。
チェス好きとは限らない 昼行灯 @hiruandon_01
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