もしかして、師走ですか?私です。初めまして、あなたは。
錦魚葉椿
第1話
「一週間以内かなあ」
内診をしながら産婦人科医はやる気のない声で呟いた。
独り言なのかもしれない。そういう人だ。
「12月中に産まれちゃう感じですか」
「だいぶ柔らかくなってきているから」
彼は説明しない。説明能力がない人だが、私はそれがいいと思っている。産婦人科医などに対し綿密なコミュニケーションを取りたがる人の気持ちがむしろわからない。
医者に依存してはいけない。産み落とすのは私だ。
最悪、自力で無理だった時に切って出せる能力があればいい。
下の方を見せないといけない全くの他人なにどうして近しい気になれるのだろう。生理的な不快感がない程度で、微妙な距離感を取りたい。
「充分に育っているから、心配することはないね」
彼はそう言いながら一度として私と目を合わそうとしないで診察を終えた。
坂道を大股で歩きながら帰宅する。
良く歩いたほうが安産になるらしいから。
当面の私の悩みはたくさん考えていた子供の名前が全部使えなくなったことだ。
一月に生まれると思っていたから、一月に由来する名前をたくさん考えていた。
自分の名前が無機質な感じで、季節感のある名前の友達を羨ましかったから、自分の子供には季節感のある柔らかな漢字の名前を付けたいと思っていた。
キリスト教徒でもないのに
師走、和風月名の中でも群を抜いて可愛くないやつじゃないか。
「師」も「走」も名前に使いづらい。
高師直ぐらいしか思いつかない。そもそも高師直と思いついたがいつの時代の何者だったろうか。武将かな。三蔵法師、その部分は名前じゃない。
歩は多いのに走という名前の子供は見ない。
走るほうが早く遠くまで行けるのに。
不思議なものだ。
「カンちゃん元気だった?」
長男は私の真ん丸のお腹にしがみつくように飛びついてきた。
光を反射してキラキラしている目玉ももぎたての桃のような産毛が生えた頬も、寒くてちょっとすり切れた鼻も全部全部愛おしい。
「もうすぐ会えるって」
まるで地球儀のように固く張り出した腹の裂けまくった下腹を撫でまわしながら、その中の兄弟に話しかける。
彼は兄弟ができることをとても喜んだ。
お腹の中の弟はカンという名前で、前に生まれたときも弟だった。と言った。
私はこの子を育てて、それまでぼんやりと信じていたあの世を信じた。
意味のある言葉を話し始めてしばらくすると、彼は昔の両親や故郷の話をするようになった。夜に戦っていた時に矢で射抜かれて馬から落ちて死んだのだと。
彼はある日、昔のお母さんの話をしてくれた。
「マリお母さんは、ママよりずっと優しい人だよ」
無邪気な一言は何より私に大きなショックを与えた。
母親と言うのは唯一無二の存在で、自分の立場を揺るがすものはないと驕っていた。
確かに冷静に考えてみれば、生まれ変わるたびに母親がいるわけだ。
可愛いこの子を、私と同じように愛した母親がいるというのは不思議なような、わずかな嫉妬に近い気持ちも覚える。
「でも僕、ママが大好きだからママの子供に生まれるの三回目」
「おお、リピートのお買い上げありがとうございますぅ」
それはちょっと嬉しい情報だ。
「じゃあカンちゃんもママの子供だったの」
ちょっと聞いてみると違うよ、と口を尖らせた。
「カンちゃんはね。前死んだときは病気の人の看病をしていて、病気がうつって死んだの。誰かのために死んだ人は早く生まれ変われるんだよ。だけど、ママを決められないっていってたから、僕のママを紹介したんだ。いい人だよって」
私を見守って、気に入ったらまた兄弟になろうと約束してきたのだという。
「来てくれたってことはママのことを気に入ってくれたのかな」
「うーん。どうかなあ。カンちゃんはとっても義理堅いからなあ」
4歳の息子の口からの「義理堅い」というキーワードに驚く。
「生まれる前の世界では世界中のお母さんからたくさんのお手紙が来るの。お手紙を受け取って、どのお母さんのところに生まれようかなあって見に行くんだよ」
白い鳥のような手紙がたくさん群れをなして青い空を飛んでいくのが見えるような気がした。
私のことを気に入ったのかどうだかわからない義理堅い性格の新しい我が子。
お腹の内側から私を蹴り上げる。
長男はボコボコ蹴ったものだが、この子は何か気に入らないことがあると、ぎゅーっと踵でぎりぎり内側から押し上げてくる。これは結構どうしてなかなか痛い。踵の形がお腹に浮かび上がってくるのを外からなでなでする。すこし納得したら足は引っ込められる。
なかなか強気な性格なのだろう。産まれる前から性格があるのが面白い。
出産の痛みは忘れるという。
出てくる最後の三十分は本当に人生を後悔するほど痛い。
陣痛の間に気を失うように寝てしまい、また陣痛が来て目が覚めるようなもうろうとした時間が過ぎて、まっしろなもやもやがいっぱいついた真っ赤な生き物が身の内から這い出して来る。
産まれた手の子供と一緒にほとんどの看護婦さんは処置のため行ってしまう。
両足を開いたままのノーパンで分娩台の上でそのまま爆睡する。
感動的な出産の舞台裏は滑稽なものだ。
二時間後、目が覚めたら、乳房がハンドボールのようになっている。
硬くて痛くて異物感半端ない。
サイズは倍になり、白い肌に緑色の太い血管が浮かび上がり、縦横無尽に絡みついているようだ。私の体は胎児が身の内から離れたことを知って、急激に作り変えられている。
体は原始の理を覚えている。
子供は初めから上手に乳を吸う訳ではなく、母親も上手に母乳を産出するようになるまで努力が必要だ。
つわりに苦しみ、流産の不安に震え、我が子の健康を願い、出産の激痛に耐える。凡人はステップをひとつひとつ乗り越えていくことが必要なのだと私は知っている。
いきなり立派な母親になることはできないし、努力なしに母親であり続けることはできない。
私の乳房はさっそく母乳を作る器官であったことをおもい出したようだ。
のみこむのが間に合わない量が噴き出しているらしく、口を離せば顔に母乳を浴びた我が子は不愉快そうに眉を寄せた。
まっかっかの肌に触れてみる。
数時間前まで私の内臓にくっついていた存在はまだ空気に慣れてなくて、カサカサしている。小さな声でその耳にささやく。
「初めまして、あなたは私の子供になりました。仲良くしてね」
名前のまだない私の「かわいいちゃん」は私の乳を口に含んだまま、鼻の穴からため息をついた。
もしかして、師走ですか?私です。初めまして、あなたは。 錦魚葉椿 @BEL13542
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