4-9 残弾3




     ※




 誰かが泣いている。

 どこかで泣いている。

 オレはよく知っている。

 その女の子が、一体誰で。

 一体なぜ、泣いているのか。



 擦り剥けた膝。

 滲む赤い液体。

 痛みに歪む顔。

 頬を伝う、涙。



 その女の子は、幼馴染。

 後ろの家に住む一人っ子。

 毎日、庭で一緒に遊んだり、

 家の中でおままごとをしたり。



 ある日、いつものように庭を駆けていた。

 彼女は、石畳と芝生の境に躓いて転んだ。

 皮膚が数カ所、裂けてしまう。

 肉がわずかに、覗いてしまう。

 少女の痛々しいほどの泣き声。



 一緒に遊んでいた、同い年の、男の子。

 つまるところのオレは、それに気づく。

 慌てて駆け寄るも、何も持っていない。

 オレは『待ってて』と言い、走り出す。



 ホース。

 体温計。

 絆創膏。

 ビー玉。



 人形。



 役に立ちそうなものをありったけ持って、彼女のところに戻る。ビー玉と人形を彼女に渡して、傷口をホースから出る水で洗う。オレは自分が怪我をした時に、親にどう処置してもらったかを思い出す。親は今いない。自分がやらなければ。



『できるの、しゅうちゃん――』



 彼女は、か細くそう尋ねた。

 オレは、彼女の頭を撫でる。





!』





 オレは傷口の水分をTシャツで吸う。絆創膏の剥がす部分としばらく格闘して、ようやく上手く取れたものを、彼女の膝へと、ゆっくりゆっくり、指が傷に触れないように貼りつける――非常に残念なことに、傷と、サイズが合っていなかった。



 オレは、急いで家の中に戻り、包帯と林檎を取ってくる。

 林檎を彼女に渡して、絆創膏の上に包帯をぐるぐる巻く。

 これで一段落かと思ったら――腕も少し擦り剥いていた。

 オレは追加の絆創膏と包帯、それとチョコを取ってくる。



 他に傷がないことを確認したところで、膝を怪我しているため歩けないことに気がつく。オレは自分の部屋から、子供用の玩具の車を引っ張ってくる。足で蹴って進むタイプなので、勿論オレが後ろから押す。彼女を座面に座らせて、発進する前、一息ついていると――ようやく、オレの親が帰ってきた。オレは押していくのを手伝ってもらおうと口を開くが、それよりも早く、母は優稀ユウキ に駆け寄る。そして大丈夫かとか痛くないかとか、矢継ぎ早に尋ねた――当の本人は、ビー玉と、人形と、林檎と、チョコと――彼女の好きなものばかりを抱えて、涙もなく、けろりとしていた。




     ○




』。

 たったそれだけの言葉を、オレは長らく忘れていた。

 しばらく、気に入って使っていたはずだが――両親のブログに載せられたのも、恐らくその一環――後になって恥ずかしくなったからかも知れないし、誤用の方が――『』が、流行ったからかも知れない。ただ少なくとも、ユウはずっとこの言葉を、心に留めていて。



『あたしはあの時、本当に、滅茶苦茶、嬉しかったんだよ』

 現在の優稀は、電話越しにそう言う。

『親がいないし、脚が動かせなかったから、もう駄目だと思った――そこで、しゅうちゃんがあたしのために必死になって動き回ってくれて。――一生かかっても、返せない恩だよ』

「言い過ぎだろ」オレは返す。「とっくにその分は返してもらった。貰い過ぎてる」

『いやいや、こういうのはね、量じゃなくて質なの。しゅうちゃん、今まであたしに親切にされて、一番嬉しかったことってなに?』

「嬉しかったこと」オレは反復する。「全部嬉しいよ。いつも助かってる」

『そういうコト言えとは言ってない。というか千華ちゃんにも同じようなコト言ってたじゃん。軽佻浮薄。浮気性。チャラ男』

 彼女は厳しく返答した。

「えぇ……小一の遠足で皆とはぐれた時、探しにきてくれたこと」

『よくそんな昔のこと――でも別に泣いてなかったじゃん』

「動物園楽しかったから」

『だから、あたしの方が受けた恩が大きいって訳。それをまさか、忘れてるなんて』

「悪かった」今はもう、すっかり思い出している。「でもやっぱり、貰い過ぎてるよ。価値は積み重ね、積み立てられるから――合算すれば、もうとっくに超えてる」

『それはもう優しくしなくていいってこと?』

「恩とか何とか、いろいろ考えなくていいってことだよ。フラットにいこうぜ」

『フラット』彼女は反復する。『パンクしたタイヤのことだね』

「ん……そうなの?」

『英弱』

 ……やれやれ、やはりこの先も、彼女にはかなり世話になりそうである。そしてオレからも、助けられた分は助けたい。それが対等フラットな関係であって――決してパンクさせることなく、続けていきたいと、切に願う。という訳で。

「優稀」

『はい』

「困ってること、ない?」

『友人の恋路が心配です』

 ……何のことかは、分からないが。

「謹んでサポートします」

『もし泣かせたら殴るよ』

「え? オレを?」

 失敗したら殴られるのか……大変なことを、請け負ってしまったかも知れない。

 いや、そんなことはない。オレは今までも、無鉄砲に無責任に言ってきたのだ。







『――そうだね、ありがとう』

 電話越しに、彼女は笑う。これが唯一正しい答えかどうかなんて分からないが、彼女との関係をこれからも続けていくために、オレはオレの回答かんたんを信じ続ける。

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