一章② 苦いのはコーヒーだけにして
「あっ、きたきた。おーい!」
こちらに向かって、一人の少女が歩いてくる。目の下には、大きなクマがあった。
「どしたの
「ああ。今日やる予定だった仕事を突然片付けることになったからな。お前のせいで」
「わ〜! ありがとう! 潜香ちゃん感激!」
「……まあいいや。んなことより、氷名乃はどうした?」
「いつも通りゲームに熱中してるよ」
「平常運転だな。元気そうで安心するわ」
少女――
髪は、背中の中程まで伸びており、純白だ。身長は、私や氷名乃よりも一回り高い。
シャツと、長めのパンツを着用しており、これまた長めで緑のジャケットを羽織っている。
喋り方や性格は男勝りなのだが、性別は立派な女性。可愛らしい少女だ。
氷名乃と同様に、私の親友であり、仕事仲間だ。
「そんじゃ、早速行きますか!」
本日やってきたのは、都内最大の遊園地だ。
広大な敷地の中で、様々なアトラクションが乗客を待ち構えている。カラオケやボウリング場、ゲームセンターなどもあり、幅広い客層から親しまれている。とくに、学生やカップルの人気を集めているスポットだ。
目的があって来たのではない。単なる息抜きだ。なので、下調べは一切なし。
「お前、最近コーヒー飲みまくってるんだって?」
施設に入場し終えた直後、支信は私に問い掛けた。
「そだよ。
「ああ。『今回も経費が大変なことになりそう』って怯えてたぞ」
「あっ。制服の領収書はまだ渡してないや」
「人の心無いだろ、お前」
「まあその話は置いといて、あそこから回らない?」
ジェットコースターを指差しながら、支信に提案を投げた。距離はかなり離れているのだが、乗客の楽しむ声と悲鳴が聞こえてくる。
「……お、おう。行ってみるか」
ん?
なんか、支信らしくない。
いつもならもっと、堂々としているのに。
なんというか、緊張してる?
……まあいいや。今日はオフ。何も考えず、遊びまくるのみ。
「うわっ。結構並んでるね」
目の前に現れたのは、まさに長蛇の列。最後尾には、プラカードを持ったスタッフが立っている。そこに書かれている待ち時間は、なんと一時間。
「どうする? 待つ?」
「……任せるわ」
「んー。じゃあ、並ぼっか!」
「はいよ」
……やっぱり気になる。今日の支信、絶対変だもん。
考えないようにしようと思ってたけど、何か悩みがあるなら相談に乗ってあげたいしなあ……。よし。
「支信、何かあった?」
「……あっ? なんだよいきなり」
僅かにビクッと体を揺らした支信。
その反応を見るに、何かあるのは間違いないか。
「いや。いつもの支信らしくないからさ。何かあったのかなって」
「別に、なんもねえよ」
「本当に? 相談ならいくらでも乗るよ?」
「……なんもねえって。気にすんな」
あまり踏み込んでほしくないのだろうか。支信は私から目を逸らした。
〇
「そろそろ帰ろっか」
「……おう」
空はすっかり橙色に染まっている。
結局、楽しめたアトラクションはたったの四つ。不完全燃焼だ。
それにしても気になる。一日中スマホを眺めていた支信が。
悩みの原因がスマホにあるのは間違いなさそうだが、盗み見るのは気が引ける。
……仕方ない。ここは、自分の直感を信じてみますかね。
「――支信」
「なんだ?」
「ずっとコーヒー飲んでるとさ、甘いものが食べたくなるんだよね。オススメのお店とかある?」
「……あるぞ。ちょうどこの遊園地に」
「へー! 今から行かない?」
「お、おう。いいぜ」
支信の表情が、少し柔らかくなった気がする。どうやら大当たりのようだ。
「支信さ、もしかして調べてくれてた?」
「あっ? 何をだよ」
「この遊園地のことだよ。効率のいいアトラクションの回り方とか、美味しいスイーツのお店とか」
「……それだけでよくわかったな」
「ただの勘だけどね。スマホをずっと見てたのは、メモか何かを確認してるのかなーって」
「ま、まあな。お前がコーヒーばっかり飲んでるって聞いて、甘いもんでも食わせてやるかと思って――」
支信は顔を地面に向け、頬を赤く染めている。よっぽど恥ずかしかったらしい。可愛いやつめ。
「ふむふむ。なるほどなるほど」
「な、なんだよ」
「寝不足なのって本当は、この遊園地について調べてくれてたからじゃない?」
「勘違いすんな。本当に仕事が忙しかったんだよ」
「さっき紗英さんに確認したら、『支信は昨日まとめて片付けてたわよ』って教えてくれたよ?」
「な、何ちゃっかり確認してくれてたんだよ! 勘とか言ってたけどそこまで分かってるならだいぶ自信はあったんじゃねえか!」
「まあ、そうとも言えるかな。支信って結構分かりやすいところあるし」
「う、うるっせえな……次は氷名乃も誘えよ」
「誘うのはいいけど、今の氷名乃は梃子でも動かないと思うよ?」
「新作ゲーム買ってやる、って言ったら飛びつくだろ」
「その手は前に使ったよ」
……なんというか、平和だ。
ただの平和ではない。心地よく、清々しい。
駆け回る子どもの笑顔や、楽しそうに会話をしている人々の表情が、それを物語っている。
こういう仕事をしていると、ふと思うことがある。私が……エージェントが暇になる世界は、どんなに素晴らしいものなのだろうか、と。
そして、次の瞬間――。
「――っ!」
突然、何かが破裂したような音が耳を劈く。まるで、銃声のような――。
私と支信は、咄嗟に頭を伏せた。
顔を上げ、周囲を見渡す。不吉な音の正体は――。
「……なんだ、そういうことかあ」
二十メートルほど先に、泣きじゃくる男の子の姿があった。周囲に散らばっているのは、赤い風船の破片。
「いやー。現実に引き戻されたような気分だね」
「……ああ、そうだな」
男の子を慰める母親が視界に入った。カバンからビニール袋を取り出し、散らばった風船を拾っている。
「――引き戻されたついでに、言ってもいいか?」
支信は、不安そうな表情を見せる。
「ん? どしたの改まって」
「実は……」
支信は、短い沈黙を挟んだ。それほど言いづらいことなのだろうか。何を言われても驚かない自信はあるが――。
「来たらしいぞ。やばい依頼が」
……。
……ん?
「それ、紗英さんが言ったの?」
「ああ」
〝やばい〟という言葉は、とても抽象的な表現だと思う。いろいろな意味に捉えることができ、具体性に欠ける。
しかし、この瞬間においては、どういう意味で使われているのか、はっきりと分かった。
国や他のエージェントから、日本一のエージェントだと謳われる紗英さん。依頼を解決した数はダントツトップ。どんな任務でも卒なくこなし、『
そんな彼女が、〝やばい〟と言い表した。非常に手強く、危険な仕事であることが伝わってくる。
まさに、死と隣り合わせの――。
「まあ、今すぐ何かをやれっていうわけじゃない。とにかく、覚悟しとけって話だ」
「……りょーかい」
私の口から漏れたのは、気概がない返事だった。
○
「コーヒーって、こんなに種類あったんだね!」
「うん。びっくりした。
「うーん。そうだなあ……」
コーヒーのことは全然知りませんよ、と、アピールする私。
実際のところ、このメニューに載ってるコーヒーは、全部存じ上げている。なんならすべて試飲済み。
いやー。ホントに大変だったなあ。
結局、美味しいと思えたのはコウキュウナヤーツだけだったし。
「私、味の違いとか全然分からないよ〜」
これも嘘。
購入したコーヒー豆たちの味は、完璧に把握している。結局、二か月もの時間を要してしまったが。
私が今〝演じている〟のは、ただの女子高生――
身につけているのは、紺色のブレザーに、チェック柄のスカート。真っ白なシャツに、赤色のリボンタイ。近所の高校が指定している制服だ。そして、髪をポニーテールでまとめると、瀬世良木京香の完成である。
「
氷名乃は、
私たちがこのような会話を繰り広げることには、理由がある。それは、コーヒーに対して無知であると、店主にアピールするためだ。
カウンターに立ち、コーヒーメーカーを操作している男性。このコーヒー専門店の店主――
印象だけでは、食品偽装をしているとは思えない。もっとも、タレコミが嘘や勘違いである可能性もあるわけだが。
「……私、これが気になる」
氷名乃が指差したのは、コウキュウナヤーツ。一杯五百円。『超高級な味と香りを手頃な値段であなたに』という説明書きが添えられている。
「何それすっごい気になる! 私はそれにするよ」
「うん。私も」
「すいませーん」
店内には、酒騎さんが一人だけ。店員を呼べば、当然彼が来る。
「お待たせしました。ご注文をお伺いいたします」
穏やかな声だ。
「この、コウキュウナヤーツっていうコーヒーを二つお願いします」
「かしこまりました」
ここ数日、彼の監視をしていて分かったことがある。それは――。
「本日はご来店いただきありがとうございます。コーヒーはよくお飲みになるのですか?」
彼は、客と必要以上にコミュニケーションを取ろうとするのだ。
例えば、おすすめの豆を紹介したり、好きな豆を尋ねたりする。仮に〝シロ〟であるならば、接客とコーヒーが好きなただの中年男性なのだろうが――。
「いえ、まったく飲まないです! お店の雰囲気もいいし、興味本位で入っちゃいました!」
「そのようにおっしゃっていただけると、苦労して考えた甲斐がありました」
木材をベースとした、シンプルな内装だ。奇を衒わず、落ち着いた造りになっている。食品偽装の疑惑さえなければ、何時間でもいれてしまいそうだ。
「それでは、失礼いたします」
酒騎さんはお辞儀をしてから、カウンターへと戻っていった。
店内を見渡す。平日の夕方という微妙な時間帯ではあるが、九割ほどの座席は埋まっている。大盛況といっても差し支えないだろう。
「楽しみだねー。コウキュウナヤーツってどんな味だろ?」
「苦くないといいね」
演技を続けながら、酒騎さんを観察する。
手に取った瓶には、コウキュウナヤーツのラベルが貼られていた。瓶の形も、コウキュウナヤーツのそれだ。抽出する過程でも、おかしな動きはない。
今のところは、〝シロ〟だ。
「お待たせしました」
数分経ってから運ばれてきたのは、見覚えしかない真っ黒な液体だ。
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
酒騎さんが離れたことを確認してから、カップに鼻を近づけた。
香りは……コウキュウナヤーツのそれだ。
「あ、美味しい」
一足先に口を付けた氷名乃が、味の感想を述べる。とくに、違和感を覚えている様子はない。
さて。私も一口。
「――えっ」
驚いた。これはまさしく、コウキュウナヤーツ。
何度も何度も口にして、舌に覚えさせたあの味だ。上品な苦味があり、酸味はあまりない。何より、味のバランスが完璧だ。
「ホントだ! 美味しいね!」
演技を続けながら、私は思考を巡らせる。
コーヒーの香りと味は、酒騎さんが〝シロ〟であることを示している。となると、タレコミが嘘か勘違いか。
……いや。仮に嘘をついてるのであれば、依頼者から話を聞いた人物が気づくはず。一般市民の嘘を見抜けないようならば、この国はとっくに終わってる。
となると、依頼者の勘違い……?
……。
……あっ。
「――ねえ、玲花」
「ん?」
氷名乃は既に、半分ほど飲み終えていた。
「私、猫舌だからさ。ゆっくり飲むね」
「ん。了解」
私はまた一つ嘘をついた。
私の舌は、熱々のコーヒーを何度も浴びてきたのだ。今ならマグマでも耐えられる気がする。
「さて、と」
スクールバッグから、筆箱とノート、教科書を取り出す。
まさか、これを使うことになるとは。
「今日の宿題ってどこだっけ?」
「二十四ページの問一から問五まで」
氷名乃は手に顎を乗せて、スマホを器用にいじっている。
「うわー……。だる」
文句を言いながら、シャーペンをノートの上で走らせる。今必要なのは、とにかく時間だ。コーヒー専門店で多少長居しても、怪しまれることはないだろう。
壁に掛けられている時計が、針を刻々と進めていく。意外にも、時間が過ぎるのは早い。勉強様々だ。
「――よしっ。そろそろかな」
四十分ほど経過した頃。私は再びカップに口を付けた。もちろん、コーヒーは冷め切っている。
「……おっ」
やっぱり。
「玲花」
「……何?」
氷名乃は、相変わらずスマホに夢中だ。
「そろそろ帰ろっか」
「おけ」
伝票を携えて、レジに向かう。私たちに気がついた〝酒騎〟は、カウンターを離れてこちらにやってくる。
「お会計は千円になります」
「はい」
財布から千円札を一枚摘み上げ、トレイの上に置いた。
「本日はありがとうございました。またぜひいらしてくださいね」
穿った捉え方をするならば、『また売り上げに貢献してくれ』という意味になる。酒騎から見て、私たちのような客はカモなのだろう。
扉を開けて、店を後にする。
道には、私たちと同じ制服を纏っている生徒が何人か歩いていた。ちょうど帰宅時間のようだ。
「それにしても、まさか本物の高級なやつだったとは」
……いや。
「氷名乃。違うよ」
「ん? 何が?」
「――あれ、コウキュウナヤーツじゃない」
そう伝えると、氷名乃は珍しく目を丸くした。どんなホラーゲームでも平然とクリアする氷名乃が、だ。
「えっ? でもあれ美味しかったけど」
「最初だけね。冷めたら味が落ちてた。本物は、一時間経っても美味しいままなんだよ」
「……じゃあ、あの豆は一体?」
「外国の『ニセモノ』っていう豆だね。淹れたてはコウキュウナヤーツにそっくりなんだけど、放置しておくと苦味が強くなって酸っぱくなるんだ」
「それって安物?」
「珍しい豆ではあるけど、入手ルートが複雑っていうだけだから、そこの問題さえ解決すればかなり手頃だよ」
タレコミから考えられる可能性は、三つあった。
一つ目。高級な豆を、採算度外視で本当に使っている可能性。
まず、これはありえない。使用されているのは、間違いなくニセモノだ。
二つ目。依頼者が実は味音痴で、偽物の豆を本物だと勘違いした可能性。
ありえない話ではないが、コーヒー歴二か月の私でも味の変化に気づけたのだから、可能性としては低い。
残るは、三つ目の可能性。それは――。
「――人によって、コウキュウナヤーツとニセモノを使い分けているんだろうね」
瀬世良木京香や朴木玲花のようなコーヒー初心者には、ニセモノを提供する。喫茶店の店主のようなコーヒーに精通している人には、コウキュウナヤーツを提供する。このようにして、食品偽装がバレないように立ち回っているのだろう。
客とコミュニケーションを図るのは、どれだけコーヒーに詳しいかを見定めるためだ。
瓶のラベルについては、貼り替えるだけでいい。姑息な手段だ。
「……ここからが本番だね、潜香」
氷名乃の言う通りだ。私にはまだ、メインの仕事が残っている。
「そうだね。もう少し頑張ろっか」
ついに、私の武器を振るうときが来た――。
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