一章③ 苦いのはコーヒーだけにして
「申し訳ございません。今日はもうおしまいでして」
ある日の深夜、店を訪ねてきた私に、酒騎は申し訳なさそうに声を掛けた。
「ああ。だから来た。客に聞かれたら困るだろ?」
私の意味深な発言を受けた酒騎。
何かを察したのか、表情に警戒心が現れている。
「えっと……何を言っているのかよく分からないんですが」
ふむ。
とりあえず、私が組織の人間であると思い込ませるところからスタートかな。
「――
「……鴨粂さんの?」
酒騎は、明らかな動揺を見せる。
「ああ。やつは野暮用があってな。こっちまで手が回らないそうだ」
鴨粂――裏社会で暗躍するとある組織の人間で、酒騎にニセモノを売っている者の名である。この組織は、ニセモノを栽培している国とコネクションがあり、安く仕入れることが可能だ。
酒騎は、ニセモノをコウキュウナヤーツと偽って利益を得ている。そして、利益の一部を組織が受け取っているようだ。
大した額ではないだろうが、塵も積もれば山となる。似たような取り引きを日本中で行っている可能性を考えると、相当な利益になる。
私が演じているのは、同じ組織に所属しているという設定の人物。茶色のウィッグを頭に乗せ、スーツに袖を通す。最後に赤いハイヒールを履いたらあら不思議、大人の女性の完成だ。
「……なんのようですか?」
声色が変わった。どうやら、私が組織の人間だと理解してくれたご様子。
もっとも、鴨粂は酒騎の連絡先を知っているが、酒騎は鴨粂のそれを知らない。確かめることができない以上、私に耳を貸すしかない。
さらに言えば、仮に連絡先を知っていても、鴨粂と連絡を取ることはできない。なぜなら今、氷名乃と警察が密輸の容疑で組織のアジトに踏み込んでいるからだ。
「まあ焦るな。まずは世間話でもしようじゃないか」
「いや、そんなに暇じゃないんですけど……」
酒騎はシンクの前に立っている。どうやら、洗い物の途中だったようだ。
「最近、面倒な仕事ばかり押し付けられてしまってな。少し気を休めたいんだ。付き合ってくれ」
私のゴールは二つある。
まずは、食品偽装をしていることを酒騎に自供させ、ボイスレコーダーに記録することだ。といっても、これはさほど難しいことではない。
なぜなら、酒騎が食品偽装をしていることを、組織の人間が把握しているからだ。つまり酒騎は、私にそのことを隠し立てする必要がない。
しかし、私が今演じているのは、あくまで架空の人物だ。もちろん、酒騎とは初対面になる。
初対面であるということは、警戒心を生む要因の一つだ。私はまだ、彼から全幅の信頼を得られていないだろう。いきなり踏み込んだ質問を投げるのはやめた方がよさそうだ。
「最近の売れ行きはどうだ?」
「いつも通りですかね。上々ですよ」
「それはよかった」
カウンターに視線を向ける。そこに置かれているのは、木製の写真立てだ。
「――それは、君の家族か?」
「……えっ? あっ、はい。そうです」
写真には、三人の人物が収まっている。酒騎の家族構成や交友関係はすべて調査済み。写っているのは、酒騎と彼の奥さん、それに娘さんだ。
「まあ、妻は病気で亡くなったんですが――」
そう。奥さんは、一年前に大病を患ってしまい、息を引き取っているのだ。
「辛いことを思い出させてしまったようだな。失礼した」
「……いえ」
……。
……やっぱり、違和感。
「一つ、訊いてもいいか?」
「……なんですか改まって」
そもそも酒騎は、裏社会に縁もゆかりもない人物だ。少なくとも、偽装を始める前までは。
そういう人間が裏社会の人間を信じ切るというのは、想像以上に難易度が高い。恐らく、鴨粂にも信頼は置いていないだろう。多少なりとも不信感はあるはずだ。
そう仮定すると疑問が一つ。なぜ酒騎は組織に従っているのか――。
「鴨粂に聞かされてないんだ。君がなぜ組織に加担しているのか、を。私が見る限り、お前は裏社会に関わるべき人間ではないように思うのだが」
そのとき。
酒騎の手が、止まった――。
「これは純粋な私の興味だ。答えても答えてくれなくてもいい」
酒騎は、石のように固まってしまった。どうやら、私に話してもよいか決めあぐねているらしい。
「ふむ。ではまず私から話そう。君にだけ話させるのも不公平だしな」
この状況で急かすのは愚策だ。まずは、口火を切るハードルを下げなくては。
「私の場合は、目の前で父親を殺された。そして、『お前もこうなりたくなければ従え』と脅された。気づいたら、この歳までズルズルと来てしまったよ」
淡々と、作り話を披露する。酒騎は虚ろな目をしているが、耳はこちらに傾けてくれているようだ。
「さっさとやめてどこか遠くの国にでも行きたいところだが、そんな大金はないしな。こうして細々と暮らしている」
さて。次はお前の番だ。
「少し短いが、私はこういう感じだ。ぜひ、君の話も聞かせてくれると嬉しいが」
穏やかな口調で、私は言葉を続ける。
「打ち明けると多少は楽になるかもしれんぞ。ちなみに、組織に対しての不満でも構わん。他のやつには黙っておこう」
酒騎は僅かな沈黙を続けた後、スポンジを置いて水を止めた。それから彼は、近くの椅子を引き寄せ、ぐったりと腰掛ける。
「――僕は生まれながらにして、運が無いんです」
沈黙を破った酒騎。その表情に、活気のようなものは感じられない。
「父親は多額の借金を残していきました。母親は既に他界しています。そして、妻も――」
俯きながら紡がれる言葉は、哀愁を帯びていた。
意外にも、滞りなく口を動かしている。一番ハードルが高かったのは、おそらく奥さんの死去。しかし、それを事前に話してしまっている以上、他のことは打ち明けやすいだろう。正確に言えば、話してしまったのではなく、話をするように私が仕向けたのだが――。
「終いには組織に目をつけられてしまいました。息子だからという理由だけで。本当についてないですよ」
「つまり君の父親は、うちの組織から金を借りていたわけか」
「はい。すぐにでも警察に通報するべきだったと思いますが、『通報したら娘の命はない』と脅されてしまいまして」
かなり話が見えてきた。というか、これが話の全容なのだろう。
予想通り、酒騎と組織の間に信頼関係はなかった。彼は組織に利用されているだけだ。
「大変だな、お互い」
「ですね」
確かに、彼は運が悪い。『どちらの方が悪いか』と問われれば、間違いなく組織の方であろう。
が――。
「――それじゃあ、真面目な話をしようか」
酒騎の表情が険しくなった。コップを水切り用のラックに置き、こちらに顔を向ける。
「単刀直入に訊こう。バレていないか?」
余計な言葉は不要だ。
「大丈夫です。ただでさえ若者が多いですから、誰も気づかないですよ。まさか偽物の豆を使っているなんて」
……あっさり録音完了。順調すぎて怖いぐらいだ。
二つ目のミッションに移ろう。
「実は、鴨粂から依頼されたことがあってな」
「鴨粂さんから? なんでしょうか?」
さて、どんな反応をすることやら。
「――偽物の豆を一旦、回収させてもらうぞ」
彼の自供は、あくまで保険だ。
メインの任務は、ニセモノを持ち帰ること。客に提供していたのは偽物の豆であるということを証明するためには、これが一番手っ取り早い。
「……えっ。この豆を、ですか?」
かなり驚いているように見える。
無理もない。貴重な収入源を、組織自ら回収しようとしているのだから。
「……なぜ、ですか?」
当然の疑問を返す酒騎。待ってましたと言わんばかりに、私はパッと口を開いた。
「――この店が、近所の人間に疑われているからだ」
氷のように冷たく言い放った。酒騎は呆気にとられている。
「いや。そんな、ありえませんよ」
「さすがに値段が安すぎたな。『あの豆が五百円で飲めるのはおかしい』と疑念を持たれている。それに、SNSでも少し話題になっているぞ。注目を浴びすぎだ」
頭を抱えた酒騎。彼にも、彼なりの苦労があったのだろう。
日々、バレる恐怖と戦いながら、客がコーヒーに精通しているかを見極め続けるのは、相当なストレスだったと思う。
ちなみにSNSの方は、これまた作り話だ。こういう小話があると、話の信憑性は上がる。
「でも、まだ疑われているだけなら――」
「疑われているだけ、だと?」
私は彼に迫った。
言葉を交わして理解した。酒騎は思ったよりも気弱な人間だ。圧には弱い。
「――ふざけているのか? 私たちのような人間は疑念を持たれるだけでも致命的であることを理解しろ。疑念の先には確信が待っているのだからな。この世界で生きていくなら、コソコソと過ごすしかないんだよ」
疑われることが致命的であるということは、エージェントにも通ずるものがある。顔が知れ渡ったエージェントなど、使い物にならない。
「とにかく君は移転の準備をしておくこと。突然するのは不自然だから、しばらくは営業しておくこと。疑いの色が濃くならないよう、明日からは本物の豆を提供すること。とりあえず今は偽物の豆だけこちらで預かる。いいな?」
「わ、分かりました……」
酒騎は、カウンターの下にある戸棚を開け、一つの瓶を取り出した。中にはもちろん、コーヒー豆が詰まっている。おそらく、本物のコウキュウナヤーツだろう。客からは見えない位置に、上手く隠していたようだ。
そして、ニセモノが詰まった瓶を棚から選び、私の前に置いた。
「確かに受け取った」
目的は達成した。さっさと退散するべき。
が――。
「君の名前は確か……酒騎だったな」
「……はい」
どんな理由があろうとも、犯罪を正当化することはできない。酒騎はこれから、刑務所に送られることになる。
しかし、誠実に刑期を全うし、日の当たる場所で暮らしていけるようになってほしいと、私は願っている。ここではせめて、情感にあふれた言葉をかけてあげたい。
だが、余計なことを口にしてしまうと、私が組織の人間ではないと勘づかれる可能性がある。彼に怪しまれず、応援できる言葉は――。
「――頑張ろうな。お互い」
私はそう言い残し、店を後にした。途中で振り返ろうとしたが、やめた。
「まだまだだな。私」
店が見えなくなったところで、周囲に人がいないことを確認し、ウィッグを取った。
〝頑張る〟という言葉で頑張れるほど、人間は単純ではないし、人生は簡単じゃない。
もっと適した言葉が他にあったのではないか。紗英さんなら、すぐに思いついていたのではないか。
そう考えると、少し悔しい。ほろ苦い体験だった。
「……はー」
大きく息を吐いた。ポケットから、スマホを摘み上げる。
『もしもし』
「あー。もしもし氷名乃?」
『潜香。どうしたの?』
「こっちは終わった。そっちは?」
『終わったよ。私がいなくても大丈夫だったんじゃないかな』
「そっか。りょーかい。んじゃ、また後で」
電話を切り、空を見上げた。
漆黒の夜空に、月が浮かんでいる。綺麗な景色ではあるのだが、それを楽しむほどの余裕はない。
酒騎も不安ではあるが、何よりも心配なのは、娘さんの未来だ。
まだ高校一年生の少女だ。両親に頼ることができない彼女は、今後の生活で苦労することになるだろう。
私は再び、スマホで電話をかける。その相手は――。
『お疲れ様。潜香』
「お疲れ様です。紗英さん」
○
「もしもし氷名乃? もしかして今起きた?」
『ふわあ……』
なんとも可愛らしい欠伸だ。もう昼だけど。
「ほらほら。早く起きて顔洗って。ご飯は冷蔵庫に入ってるから」
『……うん、ありがと。今回はどこに行ってるの?』
「仙台だよ」
『仙台? ……ああ。もしかして、牛タン?』
「ご名答」
私が今いるのは、とある牛タンの専門店だ。
平日にもかかわらず、一時間待ってようやく入店できるほどの人気。木造でレトロな雰囲気が、居心地のよい空間を生み出している。
『いつ帰ってくるの?』
「牛タン食べに来ただけだからね。夜には戻るよ」
『分かった。お土産よろしく』
「ほいほい。そんじゃ」
電話を済ませて、スマホをテーブルの上に置く。
私には一つ、ルーティーンがある。それは、一仕事終えたら美味しいものを食べるということ。
理由は単純明快。また頑張ろうと思えるからだ。
エージェントは国に雇われている身ではあるが、公務員ではない。給料はいわゆる歩合制だ。
安定した職とはいえないが、多少の贅沢ができるほどの収入は得られる。毎度こうしてグルメを堪能しても、なんら問題ない。
命の危機は多々あるが、私にとっては天職だ。
「お待たせいたしました」
店員が運んできたトレイには、牛タンやテールスープ、麦飯やとろろが乗っていた。香ばしい牛タンの香りが鼻を抜け、食欲を刺激してくる。
「――いただきます」
まずは、牛タンだけを箸で掴む。
「……うっま」
舌に乗せた瞬間から、凄まじい旨味。噛みごたえもちょうどいい。柔らかすぎず、硬すぎない。
「さてさて。お次は――」
麦飯にとろろをかけて、牛タンで巻く。できるだけとろろが落ちないように、素早く口に運んだ。
「さいっ……こー……」
麦飯のモチモチとした食感が、牛タンと好相性。とろろももちろん大活躍で、牛タンの美味しさを引き上げている。できることなら、このままずっと口の中にいてほしい。
テールスープは脂が浮いているが、意外にもあっさりとしている。飲みやすい。
「おっと……もう全部食べちゃった」
気づけば、皿には何も残っていなかった。なぜ楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてしまうのだろう。
「――次は、牛タンの食べ比べでもしてみようかな」
ごちそうさまでした。
〇
私は
私はよくしゃべる。なぜなら、それが武器だから。言葉だけで他者を意のままに操り、情報を引き出す。それが私の役目だ。
私はこの武器――話術で、今日も悪人と戦っている。
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