一章① 苦いのはコーヒーだけにして
現代には大きさを問わず、表面化していない悪事がある。密売や横領、偽装などだ。
私――
似たような職業に探偵があるが、彼ら彼女らは万能ではない。警察の捜査に介入することはできないし、密輸のような大規模な犯罪にも手は出せない。
対して我々エージェントは、すべての悪事に介入する権利を持っており、警察でも手を焼くような任務を日々こなしている。その分、危険な仕事も多いわけだが――。
今回の任務は、とあるコーヒー専門店にかけられた疑惑の真偽を確かめること。その最初のステップとして、私が実行したことは――。
「――ここからここまで、全部ください!」
ウェーブがかかった桃色の長髪を揺らしながら、そう高々と宣言することだった。
店主のお爺さんは、文字通り目が点になっている。
「……お嬢ちゃん、本気かの?」
「もちろんです」
まあ、そういう反応になるよね。
コーヒー豆の専門店に、私みたいな若者が来るだけでも珍しいはずだ。
何より、『並んでいる商品を全部買う』と言われる経験なんて、これまでもこの先もないだろう。
ざっと、百種類以上はあるだろうか。名前を聞いたことがある豆もいくつかあるが、ほとんどは知らない豆だ。
「……ちなみに、うちは現金しか使えないんじゃが」
「大丈夫です! どうぞ!」
教科書ほどの厚みがある札束を、お爺さんに躊躇なく差し出した。
「な、なんと……!」
目を大きく見開いたお爺さん。手を小刻みに震えさせながら、私から大金を受け取った。
「――重い病気を抱えていた父が、常日頃から言っていたんです。『病気じゃなかったらコーヒーの専門店を開きたかった』と。私は、父の夢を代わりに実現させたいだけなんです」
「……なるほど。それで今から勉強したい、ということじゃな?」
「おっしゃる通りです。これは、必死にアルバイトして貯めたお金です」
罪もないお爺さんを騙すのは心苦しいが、任務の概要をペラペラ話すわけにもいかないので、致し方ない。
「……疑って悪かった。うちの子たちをよろしく頼むぞ」
「はい! お任せください!」
胸を叩いた。控えめに。
「ここで一つ、じじいからのアドバイスを聞いてくれんかの?」
「ほう。なんですか?」
「仮に、一つの豆に対して一杯しか飲まなかったとしても、この量なら最低でも一ヶ月はかかるはずじゃ。その程度の期間でも、品種によっては味が変わってしまうこともあるんじゃよ」
この人は、よっぽどコーヒーのことが大好きなのだろう。まるで、純粋な子どものような目をしている。
「そこで提案なのじゃが、今日持ち帰るのは少しにして、残りは入荷した直後のものを郵送するのはどうじゃ? そもそも、この量を一度に持ち帰るのは危険じゃろう」
「あー……」
持ち帰ることについてはとくに問題ないが、ここはご厚意に甘えておこう。
「じゃあ、それでお願いします」
「承知した。それじゃあ、この紙に記入をして待っててくれるかの? 比較的日持ちがいい豆を選ぶのでな」
カウンターの上に、一枚の紙とボールペンが置かれた。
「お手伝いしましょうか?」
「いや、お客にそこまでさせるのはワシのプライドに反する。お気持ちだけ受け取っておこう」
お爺さんは、棚に並んだ商品とにらめっこを始めた。
それと同時に、背中に〝何か〟があたる感触を覚える。
背後に視線を送った。そこに立っているのは、緑色でセミロングの髪を持つ少女。
名前は
グレーのパーカーと黒いスカート。彼女にとって、お馴染みの服装だ。身長は低めで、十五歳の少女らしい体つきである。
……この姿を見た人は、彼女が凶悪犯を何百人も屈服させてきた人物だとは、露ほども思わないだろう。
「どしたの?」
怪訝な顔をしている氷名乃。何か不満なことがあるらしい。
「……私にこの量を運ばせるつもりだったの?」
この量とは、店に陳列されている商品のすべてを指しているのだろう。
「左様で」
「……対価は?」
「えっ。特にはないけど」
そう伝えると、彼女は不満の色を濃くした。頬を、風船のように膨らませている。
「ごめんごめん冗談だよ。ちゃんと考えてあるからさ。量は少なくなったけどお願いね」
「……まあ、期待しとく」
お爺さんが差し出した紙に視線を移す。そこには、名前と電話番号、郵便番号や住所を書く欄があった。私は躊躇なく、偽名とサブの電話番号、最も使っていないセーフハウスの郵便番号と住所を記す。
次に、並んでいる瓶に視線を移した。棚の右上に置かれた、一際高級そうな瓶。それが今回のターゲット、『コウキュウナヤーツ』だ。お値段なんと、九十九万八千円。
コーヒー豆と聞くと海外産のものを想像するが、この品種は日本で生産されているらしい。名付け親は日本人なのだろうが、とにかく名前が安直すぎる。ど直球。圧倒的な分かりやすさ。
安定した生産方法が確立されておらず、流通量が少ないとのこと。そのため、高額で取引されるようだ。
流通量が増えてきたら改名するのだろうか。
「……うむ。これぐらいでよいじゃろう」
お爺さんが最後に選んだのは、コウキュウナヤーツが詰まった瓶だ。
「日持ちがいい豆だけを選ぶつもりだったんじゃが、今すぐにでも飲んでほしいオススメの豆も用意させていただいた。結局、四袋にもなってしまって申し訳ない……」
一袋あたり、四つの瓶が入っている。合計で四キロほどの重さだろうか。
「お気になさらず。力持ちの友達に来てもらってるので」
ここで、氷名乃とアイコンタクトをとる。彼女は怪訝な表情のまま、四つの袋を持ち上げた。一瞬で。いとも容易く。
「それじゃあお爺さん、お世話になりました!」
「う、うむ。たくさん入荷しておくから、また来ておくれ」
お爺さんに手を振りながら、店を後にした。残念ながらその願いに対して、首を縦に振ることはできない。あくまでも任務のためだ。
平日の三時という、帰宅するには早い時間だ。駅前ではあるが、走行している車は少なく、人影もあまり見られない。
「大丈夫? 重くない?」
「まあ、このぐらいなら全然余裕だよ」
さすが氷名乃。
正直、彼女の指や腕の疲労よりも、袋が切れないかの方が心配である。
「――あっ、ごめん。ちょっとここで待っててくれる?」
「えー……。もうすぐゲームのイベント始まっちゃうんだけど」
「すぐ戻ってくるからさ。ね?」
「……十分以内に戻ってこなかったらこれ全部叩き割るから」
「そりゃ大変だ。速攻で帰ってくるぜ」
私は足早に、家電量販店に踏み込んだ。
〇
「忍燹潜香、ただいま戻りました!」
所要時間、九分五十二秒。ギリギリセーフ。
「おかえり。何を買ってきたの?」
「うーんとね。まずはこれ」
紙袋からコーヒーメーカーを引っ張り出した。今回のターゲットが店で使用しているものと同じ種類だ。
氷名乃は、納得したような表情を見せる。
「それから、これ」
「えっ。それって――」
それは、巷で大人気のゲームソフトだ。人生の半分以上をゲームに捧げている氷名乃が、前から欲しがっていたものである。発売初日から売り切れ必至で、購入できていなかったらしい。
「今日のお礼にプレゼントするよ。今は持てないだろうから家で渡すね」
「……ホント? やった。ありがとう」
普段から、落ち着いた性格をしている氷名乃。この控えめな笑顔は、とても嬉しい出来事があったときに見せるものだ。
「ダウンロード版でもいいんだけどさ、せっかく買うならパッケージ版がほしいなって思ってて……とにかくありがとう」
「そういえば、ここ最近忙しかったもんね」
「うん。タクシー運転手がわざと遠回りして、高額な費用を客に請求してたってやつ。あれ結構時間かかったよね」
「だね。とにかく、喜んでもらえて何よりだよ〜」
「それにしても、発売から一週間も経ってるのに売ってるなんて。びっくりした」
「いや。今日からこのお店で再入荷されるって情報があってね。今買ってきたのはそれだよ」
「――さすがうちの潜入担当だね」
「えへへ~。もっと褒めてくれてもいいのよ?」
〇
「それじゃ、早速始めますか!」
とあるマンションの一室――氷名乃と同棲している家のキッチンで、私は陽気な声を上げた。
「ガンバレー」
棒読みの応援が耳に届いた。声の主は、ソファーに深く座っている氷名乃だ。コントローラーを握りしめ、ゲームに夢中の模様。
「さて、と――」
机の上には、購入した瓶が所狭しと並んでいる。
「これからいこうかな」
手にしたのは、『アンカノヤーツ』という名前が付けられたコーヒー豆だ。特徴はなんといっても、値段の安さ。お店にあった商品の中で、一番安価だった。コウキュウナヤーツと同様に、安直な名前である。
「ここに豆を入れて……よしっ。スイッチオン!」
あとはコーヒーメーカーに任せて、しばし待機。
「よっこらせっと」
氷名乃の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
彼女が没頭しているのは、いわゆるFPS。モニターに映し出された敵が、銃で次々に倒されていく。
敵の出演時間は、長くて一秒ぐらいだ。血も涙もない。
「――ねえ、潜香」
「ほい。なんでしょな?」
「買ってきたコーヒー、全部飲むの?」
氷名乃の視線は、ゲーム画面に向かったままだ。
「うん。飲むよ」
「コーヒーって、飲みすぎるとよくないイメージがあるけど」
「カフェインを摂りすぎると健康に悪いって聞いたことあるね。何日かに分けて飲むよ。決行は早くても一ヶ月後かなあ」
会話の最中でも、彼女の指は止まらない。
というか、動きが早すぎる。これに付いてこれるコントローラーさん、すごすぎ。
「……おっ」
徐々に独特の香りが漂ってきた。ソファーから腰を離して、コーヒーメーカーの前に帰還する。
しばらく眺めていると、緑のランプが点灯した。抽出が完了した合図だ。すぐさま、抽出されたコーヒーをカップに注ぐ。
普通のコーヒーと比べると、少し濃い色をしている。真っ黒だ。
「いただきます」
……。
……うーん。
「苦い……」
この世のモノで一番苦いのでは、と疑ってしまうほどの苦さ。それでいて、少し酸っぱい。飲みやすさは、微塵も感じられなかった。
「よしっ。残りは氷名乃に飲んでもらうとして――」
「私、あんまりコーヒー得意じゃないんだけど」
「次はこれいきますか」
「無視すんな」
次に私が手にしたのは、コウキュウナヤーツだ。まさしく、高級なやつ。
値段が値段なだけに、美味しくないと困る。苦味や酸味は控えめでお願いします。
「――あのさ」
コウキュウナヤーツをセットして、抽出を待っていたところ、氷名乃から声を掛けられた。
「ミルクとか砂糖とか入れないの? 多少飲みやすくなると思うけど」
「仰る通りなんだけど、コーヒーの味を確かめるにはブラックがいいかなと思って」
「ふーん。まあ、潜香がそれでいいなら止めないけど」
この会話の間にも、氷名乃の視線が画面から逸れることはなかった。
あくまでも私の目的は、コーヒーを楽しむことではない。コーヒーの味を舌に覚えさせることだ。
「……いい香りだなあ」
コウキュウナヤーツ、抽出完了。新品のカップを食器棚から持ち出し、再び注ぐ。
色は、アンカノヤーツとほとんど一緒に見える。墨のように真っ黒だ。
「……おっ」
驚いた。香りもなのだが、味がまったくの別物。
なんというか、とても上品な苦味だ。きつい酸味はなく、とにかく飲みやすい。
十五歳にして初めて、コーヒーが美味しいと心の底から思えた。
「氷名乃! これ! これ!」
私は犬のように大はしゃぎしながら、氷名乃にカップを差し出した。
「いや、飲まないよ?」
「違う違う! これは本当に美味しいよ! 飲んでみて!」
「えー……」
ゲームを中断した氷名乃は、私に疑いの目を向ける。
「少しでも不味いと思ったら、今日のお風呂掃除は潜香がやってね」
こやつ、ぶっ続けでゲームをやる気だな?
「……いただきます」
氷名乃は恐る恐る、カップに口を近づけていく。
「……」
飲んだ。
「どう?」
「……お」
「ん?」
「……美味しい」
「でしょー!?」
風呂掃除の当番が氷名乃に決定した瞬間である。
「実はさ」
「うん」
「どんなに美味しくても、不味いって言うつもりだった」
「貴様! 小癪な!」
「い、いいじゃん。結局正直に言ったんだから」
それだけコウキュウナヤーツが飲みやすかった、ということだろう。
……さてさて。これから私に試飲されるコーヒーたちも、これと同じように飲みやすければいいのだけれど。
「――それにしても」
ふと、氷名乃が呟いた。
「その生活を最低でも一ヶ月は続けるとなると、結構しんどいんじゃない?」
「まあ、確実に飽きは来るよね」
「それに、飲みやすいやつばかりとは限らないよ」
「そうだね……。何か息抜きがほしいところ」
「……それじゃあ、ここにでも行ってきたら?」
こちらに近づいてきた氷名乃。
彼女が見せてきたスマホの画面に映し出されていたものは――。
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