第8話
夏休みが終わった。
クラスメイトの話し声でがやがやする教室に入ってわたしに手を振ってくれるやのぴーの顔を見るとほっとした。なにせしばらく敵だらけの戦場に身を置いていたからな、わたしは。連絡は取り合っていたから、久しぶりに会う、って感じじゃなかったけどね。
ついでに小佐田と目があった。さらりと視線を逸らされる。ちっ、この反応も久しぶりだ。
「つっきーは大変だったみたいだね」
みこちんが少し気の毒そうに言ってくれた。そうだんだよ~、とか言って泣きつきながら、信頼できる友だちが近くにいる幸福を噛み締める。
あの後も大変だったのだ。どうやらわたしに陰口を叩いていた子たちは、トイレから出てからもわたしのことを監視していたらしい。そしてわたしが性懲りもなく第二のイケメンとお茶するところを目撃した。
透さんも井上君と同じように女の子たちに人気のある人だった。
もう数日して、反意なしと判断された後であったならまた話も違っただろう。でもお灸を据えたと思った直後、透さんと親密そうに話していたから、堂々反旗を翻したと思われた。
わたしは塾生の間で、井上君にも透さんにも粉をつけて回る、イケメンと見れば見境がない女の敵認定されてしまった。わたしがイケメン好きなのは事実だから抗弁するつもりもないけれど、粉を付けて回っていたつもりなんてない。井上君はともかく、透さんは彼氏持ちだし。
まあ、彼女たちの気持ちも分からないでもない。イケメンは共有財産だし、みんなで牽制し合っていたところに空気の読めない奴が横からさらっていこうとしたら、わたしだって目くじらを立てるだろう。
でも、本当にそんなんじゃないんだけどなぁ。
井上君はともかく。
まあ、もう戻れないところまで来てしまった感はあったので、闇討ちされないよう開き直って、なるべく井上君や他の男の子たちと一緒にいるようにした。
透さんにも何度か守ってもらったから、結構仲良くなったと思う。今のところ、小佐田さんより絶対に透さんとの間柄の方が気安い。
そういう悩みを、みこちんたちには時々聞いてもらっていた。イケメンと一緒なんだろ、贅沢言いやがる、みたいな態度だったけれど、それでも励まされたことには違いない。
結局わたしは夏休み中、ほとんど休まず自習室に行っていた。井上君目当てもあったけど、休んだら嫌がらせに屈したみたいじゃないか。わたしの中にそういう意地っ張りな部分があったなんて、初めて知った。
その成果もあってか、休み明けからしばらくしてあったテストはそこそこの点を取れた。他のみんなも頑張ったんだろうね、平均点は上がっていたけれど、わたしはもっと上だった。
答案を自信満々で母に見せたら、父が帰りにケーキを買って来てくれた。ひとまず信頼は回復できたらしい。おばかクラスの先生と井上君に感謝だ。って誰がばかだ。
一月時間が空いたおかげか、わたしの小佐田さんへの怒りは治まっていた。今はもう、授業中に気が付いたら小佐田さんを睨みつけている、なんてこともない。むしろどうして以前はあんなに意識してしまっていたんだろうと不思議になるくらいだ。
わたしに意地悪してくる子たちとも離れ、心安い友人たちに囲まれ、小佐田さんを睨みつける仕事もなくなって、わたしの気持ちはここ数ヶ月なかったくらい平穏だった。
井上君や透さんとはなかなか会えなくなってしまったけれど、連絡先はもらっているから、会いたくなったらすぐに会える。
井上君は今日も学校が終わるとあの自習室に引きこもって勉強に励むのだろう。彼は西高校を受けるつもりだと言っていた。この辺りでは一番の進学校だ。わたしももしかしたら、頑張れば、高校で再会できるかもしれない。
再会したら、もっと仲良くなれると思う。わたしと井上君はたかだか一月の付き合いだ。わたしは彼のいいところばっかりしか知らないけど、もっと仲良くなったら、きっとわたしの前で抜けたところや嫌な部分も見せてくれる。
わたしなんてちっともできた人間じゃないから、もちろんそんなの気にならない。わたしは優しく受け入れてあげる。でも指摘しないわけじゃないよ。許しすぎる関係は、それはそれで歪だと思うから。
彼はちょっと拗ねた顔をするかもしれない。それにわたしの嫌なところだって知られてしまうだろう。でも透さんと悟さんみたいに、信頼し合って、気遣い合っていけたらいいな……。
がん、と椅子の足に何か当たる衝撃で夢想が途切れた。はっと振り返ると、いつものすました顔をした小佐田さんがいた。でもこころなしか唇を尖らせて、不機嫌そうにも見える。
「ごめん、当たった」
小佐田さんはそれだけ言うと足早にわたしの隣を通り過ぎて行った。にやけた顔してきも、とかいう暴言がこそっと聞こえた気がした。
なにあいつ。なにあいつ!
不意打ちの驚きから覚めて細い背中を睨みつける。振り向いてわたしが睨んでいるのに気が付けばいいと思ったけれど、小佐田はつんと前を向いたままでこっちを向かない。代わりに通りかかった男子が、えっ、俺?みたいな顔でびくっとしていた。
そうしてあっさり、わたしの小佐田さんへの怒りは再燃した。
最近、勉強を頑張っている。
夏休みの間に勉強漬けの毎日を送っていたからだろうか。あの頃ほどじゃないけれど、わたしにも寝る前の数時間の間に参考書を開く習慣ができた。
努力の甲斐あって、以前よりも絶対、できるようになってる。だから問題を解くのも楽しくなってきて、楽しいから、長時間の勉強も苦じゃなくなった。
というのは表向きの話で、実際のところ、井上君との高校生活がエサとしてぶら下がっているからだ。やっぱり分かりやすいご褒美があるとモチベも上げやすいよね。
けれど当の井上君とはほとんど連絡を取れないでいる。メッセージなんて入れると彼の邪魔になってしまいそうで怖い。大した用事もないのに連絡してくるな、とか思われたらどうしよう。他にやりたいことがある時って、返信、結構面倒だったりするしね。
ばったり会って世間話をちょびっとして、頑張ろう、なんて激励し合ってさらりと別れる。そういうのが理想だ。けれど彼のいる塾の中は敵だらけで、偶然のふりして立ち寄っても、何しに来たの、と会うまでに止められる可能性が高い。
下手したら悪い男友だちを引き連れた見た目清楚な女の子に薄暗いところに連れ込まれて、二度と井上君の前に立てないカラダにされてしまうかもしれない。――いや、ごめん。それはちょっと前にみんこの家で読んだ少女漫画の話。
井上君の幻想を追って机に向かう自分をいじらしい女だと思う。会えない時間が二人の絆を強くするって聞くし。なんだかんだわたしは、恋人のために努力する自分のことが嫌いではなかった。自己陶酔である。悪いか、こら。
しばらく同じ姿勢で机に向かっていると身体が強張ってくる。わたしは疲れると立ち上がって身体を伸ばした。関節がぴしぴし音を立てて、力を抜くと身体が一気に弛緩する。身体の奥に少しだけ心地のいいけだるさが残る。
ベッドの上にばたりと身を投げ出すと、柔らかなマットレスがわたしの身体を包み込む。そのままごろごろと転がって壁際に到達すると、カーテンの隙間から夜の外気に冷やされた冷気が降りてくる。
わたしは寝巻のシャツのボタンをいくつか外して、そっと隙間から手を差し入れる。
する時、わたしはいつも小佐田さんの手つきを思い出す。むかつくけど、あの日以来、わたしの身体には彼女の手イコール気持ちいいって感覚が刷り込まれてしまったに違いない。今までどおりにするより、小佐田さんがしたように触れた方が気持ちよくなれた。
あの時、小佐田さんはわたしの服の隙間から手を差し入れた。触れる手つきは優しかったけど、別に技術がどうのという感じじゃなかったと思う。
それなのに逆らえなくなってしまったのは、わたしの方の準備が整ってしまっていたからだろう。透さんと悟さんの情事を仄めかされ、小佐田さんの自慰行為を想像させられて、ばれるんじゃないかって状況で、ボディタッチだから大丈夫なんて甘やかされて。
おまけに小佐田さんは美人だ。自慢じゃないが、わたしは美人に弱い。イケメンが好きだ。小佐田さんは透さんに似てきりっとした目鼻立ちをしている。まあ間違いなく、男の子だったら、目の保養、とか言ってこっそり様子を伺っていたことだろう。
だから……、まあ仕方ない、のかな。
さらりと撫でる度、皮膚の体温が上がっていくような気がする。そこにうっすらと夜気がまとわりつく。冷たい指に触れられているみたいに感じる。
井上君の少し骨ばった細い手を思い浮かべる。けれどわたしのより大きくて、触れると思いのほか力強い手だ。その手でわたしのおなかや太ももを撫でながら、彼は少し気弱そうにほほ笑む。
「こんなことして、恥ずかしくないの?」
「君がこんなに淫乱な子だったなんて、失望した」
「目隠しをして、手足を縛り付けて、そうして放っておこうか」
ひどいことを言われるたびにわたしの身体はかあっと熱を帯びて、光なのか、粘りつく流体なのか、それとも黒い靄のようなものかが奥底でのたうち回る。
昔はそんな言葉で興奮するわたしじゃなかった。知らなかっただけなのかもしれないけれど。わたしはダメな子だ。
井上君はそんなこと言わない。彼は志が高くて、優しくて、分別のある人だ。そんな人に気持ちよさだけ求めて卑猥なセリフを言わせるわたしは不誠実で、軽蔑すべき人間だ。もしかしたら、軽蔑すべき自分に対して興奮しているのかもしれない。
でも、透さんの情事を覗き見する小佐田さんに比べればマシかな。
きっとあの時、わたしは捻じ曲げられてしまった。
あの時小佐田さんは決してわたしの胸の先端や大事な場所には触れてくれなかったから、わたしも手は触れないでいる。
でも井上君なら話は別だ。彼は男の子だから、きっとそこにばかり興味があるだろう。だからわたしも触れていい。わたしの手は今、井上君の手だ。きっと小佐田さんが触るよりちょっと乱暴に、焦れたみたいに、わたしにしてくれる。
あ、でも待って。頭の奥がチカチカしてきた。呼吸が浅くなる。
「かわいいね、三崎さん」
小佐田さんの声が聞こえる。嫌味っぽい薄ら笑いを浮かべて、わたしを見ている。
わたしは身体を強張らせる。
「…………っ」
しばし呼吸を整えてから、ぽかりと一発自分の頭を殴りつけた。いつもいつも、いいところであいつの顔が出てくる。これも刷り込みか。
非常に腹立たしいことだけれど、やがて心地よい眠気が来て、あいつへの怒りはいつも長続きしないのだ。
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