第7話

 井上君は毎日のように塾まで通ってきているようだった。夏期講習とは言っても、休みの日ももちろんあるのだけど、そうした日も別のクラスは講義をしているし、自習室は空いている。

 女の子は同じグループで固まっていることが多かったけれど、男の子は井上君のように一人で勉強していることが多いようだ。だからわたしも遠慮なく彼の隣に座ることができた。

 わたしは朝起きるとバスに乗って駅前まで行って、夕方まで自習室にいるようになった。適度に息抜きはするけれど、周りが勉強しているからあんまりサボろうって気にならない。

 自習室で井上君を見つけると、わたしはその隣に陣取った。井上君も自然とわたしを見つけると、隣に座ってくれるようになった。

 彼は将来、建築士になりたいのだそうだ。勉強していい大学に入って、なんとかっていう有名な先生の指導が受けたいらしい。

 ちょっとはにかみながら言った彼の言葉を聞いた時、イケメンに対するミーハーな好奇心だけじゃなく、尊敬の念が入り混じった感情がわたしの中に生まれるのを感じた。

 彼の夢見る眼差しに、わたしは心の中で喝采を送った。いいね、建築士。かっこいいよ。井上君は頑張ってるんだから、絶対大丈夫!

 わたしはちょっとひねたところがあるから、誰かが夢を口にすると斜に構えて、実現すればいいね、なんて内心皮肉っぽく唇を歪めてきたものだ。わたしにはそういう理想のようなものがないから、心のどこかでひがんでいたのかもしれない。

 でもどうしてだろう、井上君が言うと素直に、きっとなれるよ!なんてきらきらした目で頷いてしまう。

 なんか好きかも、このひとのこと。

 何の気負いもなく、そんなことが思えてしまう。

 井上君と一緒に過ごす三年生の夏は勉強ばっかりで、海のきらめきとか、首許を吹き抜ける風の心地よさとか、そういうのとは無縁だったけれど、わたしの心は色づいて、なんだか甘酸っぱい心地がしていた。

 でも、どうしてわたしは気づかなかったんだろう。わたしが一発で惹かれてしまうくらいだ。井上君が塾の女の子たちの間でも人気者なことくらい、すぐに分かることなのに。

 ある日ちょっとトイレに立つと、わたしが個室に入るのを見計らったタイミングでステレオタイプな陰口が聞こえてきた。

 曰く、井上君の邪魔をするな。彼とわたしとじゃ釣り合っていない。鏡を見たことないのかな、あのブス。友だちがいなくて可哀想だから許してあげよう。まあ、他にもいろいろ。

 別に、陰口を叩かれるのは初めてじゃない。わたしだって小中と女のコミュニティの中で育った戦士だから、思い出すのも面倒なことがこれまでだっていろいろあった。

 わたしにはみこちんとやのぴーがついていてくれて、二人はずっとわたしの味方だった。それは恵まれたことだと思う。四年生の頃に目立つ子たちに目をつけられそうになった時にも、二人がわたしをかばってくれた。それにわたしだって、なるべく波風を立てないように立ちまわってきたつもりだった。

 でも今回は、ちょっと失敗したなと思う。知らない場所に来て不安だったところに優しくしてくれるイケメンがいて、夏休みだし、ちょっと舞い上がってしまっていたかもしれない。

 わたしは知らない間に、この塾の女の子たちが作り上げていた井上君独占禁止法に違反してしまっていたらしかった。いや、井上君不可侵条約だったのかな。

 わたしは考える人みたいなポーズで、洋式トイレの便器に座ったままどうしようかと考えていた。

 どうせ夏休みの間だけの付き合いだ。このまま堂々と出ていって、陰口をしている子たちを一瞥して井上君の隣に戻ってもいい。でも夏休みはまだ二週間ほど残っている。それをすると生意気な奴と思われてエスカレートするかもしれないし、わたしの心はあらゆる妨害を潜り抜けて平然としていられるほどには強くない。

 でも井上君と一緒に居られなくなるのは嫌だなぁ。折角仲良くなれたのだし、井上君からも歩み寄ってくれているのだから、いきなり避けたら失礼だ。ふいっとスルーされることの辛さを、わたしはもう知っているからね。――お前の話だよ、小佐田。

 事情を話してほとぼりが冷めるまで一緒に勉強するのは止めることにしようか。でも井上君は男の子だから、どういう反応をするか分からない。妙な正義感を出されてしまうと厄介だ。だいたいほとぼりが冷めるのっていつだ。わたしたちの夏は短いのだ。それに、姿は見えているのに近づいちゃいけないなんてやだーっ!

 陰口は五分ほどで止んだ。わたしに対して十分なけん制をしたと思ったのだろう。最後に見下したような笑いを残して、彼女たちは立ち去って行った。

 わたしはようやく個室から出て、ふぅ、とため息を吐いた。少なくとも今日はもう帰った方がいいだろう。あれだけ言われてちっとも堪えていないのだとか、思われたくない。

 妙な疲労感を覚えながらホールに出ると、階段から見覚えのある顔が降りてきた。誰だったかと思っているとその視線に気づいたらしい。彼も立ち止まって視線を合わせる。

「あれ、君は……」

 わたしはすぐに思い出した。

「あ、小佐田さんの……」

「ああ、あの時の」

 小佐田さんの兄の透さんだった。ここに通ってたんだ、とフレンドリーに微笑んでくれたけれど、わたしはいっぺんにあの日あったことを思い出してしまってなんだか気まずい。

「お兄さんも夏期講習ですか?」

「そう。俺、今年受験だからさ。頑張んなきゃいけないの」

「そうなんですか……」

 話をしながらも頭の中で、きっと今もヤってるよ、と小佐田さんが下卑た顔で囁いて来る。ボディタッチくらいするよね、と言いながら彼女の手がわたしの身体をまさぐる。ええい。邪魔だ、小佐田。

 透さんは、若干挙動不審なわたしに怪訝そうに首を傾げている。わたしは淫靡な気配の漂う思考を切り替えたくて、思いついた話題を振った。

「えっと。あの時いた方は、一緒じゃないんですね。あっ……」

 今一切り替えきれていない話題が飛び出てきて、わたしは一人で焦っている。透さんはなんでそんなことを聞くんだろうと思っただろう。若干首を傾げながら、悟のこと?あいつは頭いいからなー、と苦笑いしていた。

「あ、あの。小佐田さ……、美沙さんに、お二人は仲がいいって聞いたもので。だから、その……」

 わたしは訊かれてもいないことを勝手に弁解している。あー、ダメだ。黙れ、わたし。自分が墓穴を掘っていくのが分かる。

 透さんはわたわたしているわたしの様子を、ふむ、とあごに手を当てながら眺めていた。それからぽんと肩を叩いた。

「ちょっと来てくれる?」

 別に普通の真顔のはずなのに、やけに怖い顔をしている気がした。

「は、はい……」

 わたしは項垂れて透さんの背中に付いていく。テレビで見かける手錠を掛けられて顔を伏せながら連行される犯人の気持ちがなんとなく分かる。

 長々と陰口を聞かされた後に、これだ。いや、だからこそか。いつもならこんなへまはしない、と思う。思ったよりダメージがあるのかも。今日はもうダメだ。早く帰って寝たい。

 背中越しに透さんが言った。

「あいつになにか言われた?」

 わたしはなんと答えていいか分からずに、いえ、と濁す。そんなに気を遣わなくていいよ、と透さんは明るい声で言った。

「なに飲む?」

 透さんは自動販売機の前で立ち止まった。

「え。いや」

「遠慮しなくていいから。年上にカッコつけさせてよ」

 遠慮とかじゃなく、一刻も早く逃げ去りたいだけなのだけれど。

 ジュースが出てくるのを待つ透さんの横顔をなんとはなしに眺めている。

 前にも思ったが、整った顔をしている。井上君とは別の方向でイケメンだ。井上君はちょっと小柄で優しそうな可愛い系。透さんは太っているわけじゃないけどがっしりとした体つきをして、目元のきりっとしたかっこいい系。結構好み。っていやいや、そんな場合じゃないって!

 自販機の傍の喫茶コーナーには携帯をつつく男の子が一人いただけだった。背の高い丸テーブルには紙コップが二つ。わたしの紙コップにはエメラルド色のメロンソーダがしゅわと弾ける。

 透さんはホットコーヒーを啜って、熱っ、と顔をしかめた後、柔和な笑みを作って口を開いた。

「未沙とは、仲良くしてくれてる?」

 いきなり言葉に詰まる質問が来た。わたしが目を泳がせると、透さんは笑って首を振った。

「いや、いいんだ。あいつ、学校じゃ猫かぶってるかもしれないけど、結構わがままだからな。迷惑かけてないか、心配だったんだ」

「そんな……、別に。迷惑とかは、ないですよ?」

 ちょっと疑問形になってしまった。わたしの口は正直だ。透さんはなにか察したようで、そうか、と苦笑いした。

 それから何か迷うように口をつぐむ。どう切り出したものかと考えているに違いない。

 黙ってコーヒーを啜るのを見ていると、授業中、なにか考え込んでいる時の小佐田さんの表情と重なった。

 兄妹なんだ、って思う。

 真っ直ぐな一重まぶたや、眉、おでこの形。ちょっとずつ違うけれどどれもが少しだけ小佐田さんっぽいかも。

「どうしたの」

 口元を緩ませたわたしに気が付いて、透さんは首を傾げた。わたしは誤魔化そうと笑みを作りかけて、ぎゅっと唇を結ぶ。

「あ、あの。わたし……、言いませんから、誰にも」

 もちろん、悟さんとのことをだ。

 透さんは心の奥を見透かそうとするみたいにじっと目を見て、助かる、と一言、頷いた。それからふっと目元を緩める。

「俺はあんまり気にしないんだけど、悟の方がな、ちょっと心配性っていうか。って言うか、俺が考えなしだから、俺の分も心配してくれてるんだけど。まあ、こんな田舎じゃ居づらくなるだけだしな。せめて大学に出るまでは、って。誰にも言ってないんだ」

 透さんも緊張していたのだろう。口の中を潤すようにコーヒーを含んだ。わたしもそっと息を吐いて、メロンソーダの初めの一口を呑み込んだ。べったりと張り付くような甘みが炭酸に洗われて喉の奥に落ちていく。

「じゃあ、本当だったんですね」

「なにが?」

「未沙さんが、わたしを動揺させるためだけに言った可能性もあるかな、と」

 あー……、と透さんは息を吐きだした。

「あいつ、性格悪いでしょ」

 どう返そうか迷って、わたしは結局苦笑い交じりに、まあ、と頷いた。

「性格が悪いって言うか、いや、性格が悪いのは間違いないんですけど、訳わかんないって言うか……。裏表激し過ぎて、どう接していいか分かんないです」

 白状ついでに吐露しすぎたかもしれない。透さんはふっと吹き出すようにして笑った。

「正直だね」

「す、すいません!」

「いや、いい意味で言ったんだ。未沙のこと、ちゃんと考えてくれてるんだなって。ありがとう」

 透さんは真っすぐにわたしに頭を下げた。年上の男の人から頭を下げられるなんて初めてのことだ。わたしは慌てて身体を縮こまらせた。考えているなんて、わたしはただ呪詛の念を送っているだけだから、お礼を言われることなんてない。うん、本当にないな。

 そして透さんが頭を上げてくれてほっとした次の瞬間、わたしは凍り付いた。

「で、二人はどういう関係なの?」

「えっ……」

 わたしは全身の血が頭に上って来るのを感じた。瞬く間に耳まで真っ赤になる。どくどくと鼓動が早くなるのを感じた。背中や脇の下から汗が噴き出てくる感覚がある。

 そんなことをわざわざ聞くってことは、たぶん、聞こえていたのだ。

 もちろん、その可能性に気づいていなかったわけじゃない。さっきまでそれどころじゃなかったから完全に失念していたのだ。

 透さんとまた会うことがあるなんて思わなかったから、あの後も深く考えなかった。一人でするときの興奮材料に使っていたくらいだ。……こんなことになるなら止めておけばよかった。

 わたしがそんなヤツだなんて透さんは知るよしもないはずだけど、なんだか見透かされている気がしてならない。裸で立たされているような心地がしてくる。できるなら過去に飛んで自分をぽかりと殴ってやりたい。

 顔を俯けてしまったわたしを見て、デリカシーのないことを聞いてしまったと思ったらしい。透さんはそれ以上追求しないでいてくれた。ごめん、の言葉が突き刺さる。

「でも、安心した。あの時は、俺に対する当てつけかと思ったからな。だったら三崎さんにも失礼だし。まあ……、よく考えてみれば、あいつもそこまではやらないよな」

 透さんは一人で納得して頷くと、残りのコーヒーを飲み干して紙コップを握りつぶした。

「じゃあ、もう行くよ。あんまりサボってると、夏休み中何してたんだって悟に怒られる」

 透さんは、頭のいい奴には分からない奴の気持ちは分からないんだ、とか愚痴っぽくぼやく。

 惚気だ。少なくともわたしにはそう聞こえた。わたしが委縮してしまったから、雰囲気を和らげようとしてくれたのだろう。それが分かったから、わたしも気を取り直して軽口を叩くことができた。

「愛されてますね」

 すると透さんは目を丸くしてわたしを見て、それから無駄にチャーミングにウインクして見せた。

「だろう」

 透さんは手を振って去って行った。わたしはちょっと呆れた気分でそれを見送った。

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