第6話

 そんな折、母がわたしに一枚のチラシを突きつけてきた。

「夏期講習だって。行ってきなさい」

 行って来たら?とかじゃない。命令形だった。

 これまでわたしの両親は、勉強しなさいだとか、習い事をしなさいだとか、わたしのすることにあまり干渉してこなかった。自分が好きですることじゃないと続かないと話し合っているのを聞いたことがある。

 それはわたしに対する信頼だと思う。自分で考えて自分で行動する、そういう力がわたしにあると考えてくれていた。

 でも今回は、受験まであと半年ほどになっての散々なテスト結果だ、流石に腹に据えかねたのだろう。親の期待を裏切ってしまったわたしにはその決定に異を唱える権利などなく、わたしは大人しくうなだれて頷くしかなかった。

 とは言えわたしも高校受験を控える三年生で、今のままじゃいけないという焦りみたいなものはあった。わたしはただ、物覚えも要領も悪い……、ってだけで、今まで強制されてこなかったおかげか、勉強が大嫌いというわけじゃない。今まで塾に通ったこともなかったし、いい機会かもしれないと思った。

 どうせ夏休みに入れば、小佐田を睨みつける仕事もひとまずはなくなる。特別にすることもないし、いつもとは違う場所で心機一転というのも悪くはない。

 会場はわたしの住む町からバスに乗って三十分ほどのところにある駅前のビル。そこに入っている大手の塾だった。

 大学の講堂のような長机の並べられた広いホールの中は、同い年の子たちでにぎわっていた。多くはずっと継続してこの塾に通い続けている子たちだろう。仲良さそうにグループを作って、がやがやと笑いさざめいている。少しきつめに入れられた冷房もこの人数の熱気には少し押し負け気味だったけれど、外の暑さに合わせて薄着をしてきたわたしには肌寒いくらいだった。

 わたしはきょろきょろと辺りを見回して、知った顔がないかと探した。何人か見つけたけれど、あまり話したことのない子ばかりだったし、もう他の子とかたまりを作って楽しそうに話しているからちょっと入りにくい。小佐田さんと仲のいい大人しそうな子が二人組でいるけれど、わたしが仲間に入れてもらおうとしたら迷惑がられてしまうかもしれない。

 みこちんたちも夏期講習があると言っていたけれど、もっと近くの別の塾のものに行くそうだ。わたしが案外乗り気なのを見た両親は、張り切って、一番受講料が高くて、有名で、頭のいい子たちが通うこの塾にわたしを突っ込んだ。

 果たしてわたしが付いて行けるのか、不安で仕方ない。

 わたしは疎外感を覚えながらも空いている机に一人で座った。まあ、焦らなくても友だちなんて、しばらくすれば自然とできる。できなくっても勉強しに来たんだから関係ないよね!

 まだ講義が始まるまでには十五分ほどあった。わたしは手持無沙汰な気分で参考書を開く。

 思えばみこちんもやのぴーも同じ小学校からの友だちで、中学生になってから、やのぴーがぴょんちゃんとみんこを連れてきた。いつも五人でいるから、友だちづくりは得意、みたいに思い込んでいたけれど、大きくなってからわたしから作った友だちってあんまりいない。

 小佐田さんとも、なんだかこじれてしまったし。

 わたしって、自分で思ってたほどには人付き合い、上手くないのかなー……。

 難しい顔をしていると、隣の席に男の子が鞄を置いた。

「ここ、空いてる?」

 爽やかイケメンがそこにいた。ちょっと痩せすぎだけど、しゅっとした顔の輪郭が涼やかで、でも目はタレ気味で優しそう。ちょっと、アイドルの子に似てるかも。

「あ、うん。どうぞ。空いてまるす」

 思い切り噛んだ。わたしは赤くなる顔を意識しながら、コミュ症かよ~!と内心で叫ぶ。イケメンの前で失敗した。恥ずかしい。消えてなくなりたい。

 その子は少し苦笑い気味に、ありがとう、と座った。どうやら聞かなかったことにしてくれるらしい。でもわたしが緊張していると思ったらしく、初めて?と訊いてきた。

「あ、うん。そうなの。知ってる人もあんまりいなくて」

「そっか。僕は二年の時から通っててさ。だから結構慣れてるんだ。ここ、割と広いしさ、迷いそうだったりしたら訊いてよ」

 優しい言葉にちょっと救われた気がする。いい人だ。

「僕は井上和也。君は?」

「あ。早月です。三崎早月」

「うん、よろしく」

 そうしてわたしは、講義が始まるまでの話し相手を得ることができた。本当は、一人って慣れなくて心細かったんだ。助かった。しかも顔がいい。ぐふふ。

 初日は丸々テストだった。ここで受講生をみんな学力別に分けて、次回からはAからDまでの各クラスで指導を行うのだという。

 わたしは一番できないクラスだった。分かってたけど、ちょっと落ち込む。井上君は一番成績がいいクラス。だからわたしと記念すべき一番目の友だちは、二日目にして早速別れ別れになってしまった。

 イケメンの隣の席で勉強できる最高の環境だと意気込んでいたのに、がっくりした。Dクラスの席順は決められていて、わたしの隣になった男の子が、いつもちょっと落ち着かなげにしているのもがっくりポイントの一つだった。あと、好みじゃない。

 ただ、ばかクラスの先生は相手がばかばっかりだと分かっているおかげかとても丁寧に分かりやすく教えてくれた。一年生の内容から順を追って解説があって、わたしがつまずいて分からないままにしていたところも、おかげでちょっと分かった気になった。ばかのわたしでも分かったのだ。ばかばか言うな!

 講義が終わっても、広い自習室が使い放題だ。以前のわたしならさっさと帰って動画でも見ようかとなっていただろうけれど、周りの子たちが自然とそちらに足を向けていたので、流されて自習室に向かうことになった。井上君がいないかな、という下心もあった。

 三日目、わたしが自習室に顔を出すと井上君がちょうど顔を上げるところだった。わたしと目が合って、軽く手を振ってくれた。

「ここ、空いてる?」

「うん、空いて……。空いてまるす」

「もう!」

 わざわざ言い直してからかう井上君に、わたしはふくれ面を作った。憶えていてくれて嬉しい。ちょっときゅんとした。

「どう、そっちは」

「うん、分かりやすい。ちょっと前進してるかもって思う」

「そう、良かった。僕も他人に教えられるほど分かってるわけじゃないけど、分かんないことがあったら聞いてよ。僕の勉強にもなるしさ」

 井上君はさらりと笑うと、また自分の勉強に没頭し始めた。見れば数学の参考書を開いて、ノートに証明問題の解答を書き込んでいる。

 集中した顔もかっこいい。机に突っ伏すようにして姿勢が悪いし、字は汚いけど、大人っぽいのにそんなところは年相応で可愛いかも。

 わたしは関係のない方向に思考が行きかけているのに気が付いてふるふると頭を振った。

 いやいや、今は勉強だ。だって高いお金を払ってもらってここを使わせてもらっているのだし、隣に座るわたしがそんな調子じゃ、井上君にも迷惑だ。井上君に、邪魔だな、とか思われたくない。

 わたしは我に返って参考書を取り出して、真面目にさっきの講義の復習を始めた。イケメンが隣にいると勉強がはかどる。我ながら現金だけど、いいじゃないか、きっとみんなそんなものだ。

 そうして毎日を過ごす内に、わたしの頭の中には、小佐田さんのおの字も出て来なくなっていった。

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