第4話

 勉強をするとは言ったものの、参考書を引きずり出して机に並べたまま、ほとんど他愛のないことを話して過ごした。お互いの好きなもの、好きなこと、部活のことや、これからのこと、家族のこと、友だちのこと。

 わたしたちはどうしてか波長が合うみたいで、お互いのことを知らないだけで、まるで何年も前から友だちだったみたいに気安く話せた。

 小佐田さんは修学旅行の夜のことや、それからのことはほとんど話さなかった。だからわたしも、きっと避けられていたのはわたしの早とちりで、小佐田さんはわたしと友だちになりたかっただけなんだと思った。

 あの夜のことはちょっと距離感を間違えただけで、ふざけたつもりがわたしに真顔で返されたから、しばらく気まずかったのかもしれない。そう思うと、悩んでいたのが馬鹿らしくなる。強いて仲良くなりたいわけじゃない、とか言っていたのが申し訳ない。

 そうしている内に、隣の部屋からゲームの音も話し声もしなくなっていた。

「お兄さんたち、出かけたのかな」

 わたしが何気なく言うと、小佐田さんは急に顔を固くして、どうだろうね、と曖昧にほほ笑んだ。

 それから身を乗り出して、こそっとわたしの耳もとに囁いた。

「うちの兄貴、ホモなんだ」

 あんまり唐突だったから、ちょっと大きな声を上げそうになってしまった。シッ、と小佐田さんは鋭く制して、キモイよね、と四つん這いの姿勢のまま声を潜ませて笑った。

 そしてすごく性格の悪い顔で笑う。

「きっと、今もヤってるよ」

「え。な、なにを」

 咄嗟に誤魔化してしまった。ヤってる、なんて下品な言葉が小佐田さんの綺麗な形をした喉から出てきたことが信じられなかった。急に雰囲気の変わった小佐田さんについていけなくて狼狽えている。

「読んだことない?そういうの」

 小佐田さんは唇を歪めてさも面白そうに笑った。下卑た表情をしているはずなのにどこか見惚れてしまうような美しさがあって、美人は得だなぁ、などとわたしの頭の冷めた部分がぼやいている。あと、顔、近い。

「見る?」

 小佐田さんが何を言い出したか、初めは分からなかった。

「は?」

「覗けるんだ。ちょっと穴、開けてある」

「えっ。なに、それ」

「大丈夫、兄貴にはバレてない」

 何が大丈夫なのか分からなくて、わたしは頭がくらくらした。ほんの少し前までは分かり合えた気がしていたのに、今はちっとも小佐田さんのことが分からない。

「興味ない?」

「きょ、興味?」

 思わず、生唾を呑み込む。

「そう、男同士がどうやってヤるのか」

「きょ、興味は……」

 小佐田さんの手がさりげなくわたしの手の上に重なる。わたしの耳許に唇を寄せる。

「気持ちいいよ、見ながらすると」

 わたしは息を呑んだ。一拍おいて彼女の示唆するところが分かる。一気に心臓の鼓動が早くなって、身体が火照るのが分かる。一番奥の部分がじゅんとする。

 聞き間違いかと思って目を合わせる。けれど小佐田さんはなにを考えているのか分からない薄い笑みを浮かべたまま、訂正する様子もなくわたしを見ている。わたしは無意識に太ももに遣っていた手をぎゅっと握る。

 想像してしまった。壁の穴から兄の情事を覗き見て、ひとりで気持ちのいいところを愛撫する小佐田さんの姿を。その様子は浅ましくて、今までの綺麗なイメージなんてぶち壊しで、なんか、興奮した。

 でも、ちょっと怖いと思った。穴の向こうに広がっている世界も、それを覗いて気持ちいいことをする小佐田さんのことも、それに劣情を覚える自分のことも。

 黙ってしまったわたしをしばらく観察して、ふっと小佐田さんは短く息を吐いた。

「冗談だよ」

「え?」

「冗談だって。全部。兄貴のこともだし、わたしは壁に穴を開けてのぞき見なんてしてない。ちょっとからかうだけのつもりだったのに、本気にするから。わたしもつい、面白くなっちゃった。ごめんね!」

 小佐田さんは妙に軽い調子で笑いながら体勢を起こした。わたしはきょとんとしてそれを見た。

 さっきまでの表情も、声色も、あっさり冗談で流すような雰囲気じゃなかった。小佐田さんがよっぽど演技が上手くてわたしが騙されやすかったとしても、冗談で言うような内容でもない。小佐田さんが、距離感がおかしい人なのは間違いないとしても。

 つまり、忘れてくれということだろう。それが分かるとわたしもほっとして、冗談めかして怒ったふりをした。ちょっと惜しい、とかは思ってない。

 びっくりした!と言って笑いながらぽこぽこと殴りつけたら、小佐田さんもふざけた調子で、ぎゃーっと言いながらわたしの両手を掴んだ。そのまま背中向きにバランスを崩して倒れ込む。

 わたしが小佐田さんを押し倒したみたいな体勢になった。わたしの身体の下、小佐田さんは髪を乱して倒れていて、見上げる表情は妙に艶っぽく見えた。

 さっきまでのことがあったから、あんまり好ましい体勢じゃなかった。わたしは慌てて身体を起こそうとした。でも逆に引っ張られて小佐田さんの上に倒れ込んだ。押しつぶされた小佐田さんは、おがっ、みたいな変な声をだした。

 わたしはすぐに起き上がろうとしたけれど、両手は掴まれたままでできなかった。身体が密着している。今日は少し気温が高かったから、小佐田さんは少し汗ばんでいた。でも、嫌なにおいじゃない。

 小佐田さんの膝が足の間に割って入る。重力のままに押し付けられて、腰から下に上手く力が入らない。

 どうしてこんなことになったのかはさっぱり分からない。でも、誘われているってことは分かる。

 でもそんなのダメだと思う。そういうのは好き合う同士ですべきことで、わたしたちには理由がない。第一、わたしたちは女同士だ。

 って言うか、そういう理性的な言い訳を考えてしまう時点で、わたしは流されていたんだと思う。本当なら頭突きでもして無理やり手を振り解いて、隣の部屋のお兄さんに助けを求めても良かった。まあ、そこまでしなくてもはっきり嫌だと言えば小佐田さんも諦めただろう。

 でも、情事にふける兄たちの姿をデバガメする小佐田さんのことを想像したら、どうしてか思考が鈍った。

 理由なんてしたいからで十分でしょ。しない理由だってないんだからと、そんな風に囁くわたしがいる。

 いつしかわたしの手は自由になって、小佐田さんの手はシャツの裾から背を這い昇ってきていた。覚えのある手つきだ。でもおそるおそるだった前回と比べて、優しいくせに力は強くて、逃がさないとでも言いたげだ。

 わたしはすっかり敏感になってしまっていたから、それだけのことでぞくぞくして、動けなくなった。

 おかしい、と思う。こんなのは知らない。こんなわたし、初めて。

 頭の中で思考が上滑りするようにぐるぐる回っていた。脳の奥にぴりぴりした感覚があって、それがわたしを麻痺させる。身体の力は萎えて、もどかしくなるくらいに緩く、全身をひっきりなしに刺激されている。身体の中心から足の先まで、現実味の無い浮ついたくすぐったさがある。

 わたしはラグに投げ出された髪のひと房の上に額を突いている。小佐田さんがゆっくりとこちらを向く気配がした。耳もとで囁かれる。

「ボディタッチくらいするよね。女の子同士だもん」

 さてはこいつ、初めからそのつもりだったなと思った。たぶん、修学旅行でちょっかい出してきたのも、そもそも同じ班になってくれたのもわたしの身体が目当てだったのだ。

 身体目当てと言うと悪そうだけど、あんまり悪い気がしていないのは、わたしが小佐田さんの体温や手の感触、声のかすれを、不快と感じていないからだろう。

 わたしは自分のことをノーマルだと思っていた。だって、初恋の人は小学生の頃の同級生だし、たまに気になる人がいても、みんな男の子だった。女の子に恋なんて考えられない。

 小佐田さんに触られるのが気持ちいいだけで、身体の欲求がわたしの心を鈍らせているだけなのかもしれない。直前の会話でその気にさせられて、いいように操られているんだ。

 それなら、自分の手でするのとさして変わらないんじゃないのか?わたしがするのか、小佐田さんがするのか、それだけの違いだ。えっと、分からなくなってきた。それって、それだけって言えるの?


 まとまらない思考に何もできないでいるうちに、ブラの留め具を外された。遮るものの無くなった肩甲骨のラインを小佐田さんの細い指がなぞる。

 わたしはぶるりと身体を震わせた。太ももの間にしっかりと食い込んだ小佐田さんの足が擦れて、切なさがこみ上げる。

 どくりどくりと心臓が鼓動する。

 呼吸が短く、早くなる。

 わたしがその気になってしまっていることは、小佐田さんには筒抜けだったろう。

「かわいいね、三崎さん」

 含み笑いが耳朶をくすぐる。

 手のひらの上で思い通りにされていることが悔しい。でもそれが心地よい気もしている。せめてこんな無様に突っ伏している体勢だけでも変えようと、片肘を突いて身体を支えた。

 身体を起こしてようやく小佐田さんと目が合った。

 余裕たっぷりの涼しい顔だ。

 それに対してわたしは、切羽詰まって、発情した、情けない表情をしていたに違いない。

 でもすぐにわたしは、小佐田さんの目の奥に、ねっとりとした、熱っぽい情欲の光があるのを認めた。

 それに気が付いてわたしは安心した。わたしがこんな風になってしまっているのと同じように、彼女も追い込まれて見えた。それなら少しだけ、怖くないかもしれない。

 わたしは自由な方の手で、おずおずとシャツ越しに小佐田さんの胸を触った。ブラ越しの感触は少し硬くて、小佐田さんは少し驚いた表情でわたしを見た後、もっと触っていいよ、と囁いた。

 小佐田さんはわたしの身体を触ったし、わたしも彼女の身体を触った。

 ボディタッチ、なんて小佐田さんは言ったけれど、もちろんみこちんたちとは、素肌に触れて反応を楽しんだり、友だちには聞かせられない声を聞かせ合ったりはしない。

 だから、これはそういうのじゃないのだ。友だち同士の気安い仲で、関係性を確かめ合うような行為じゃない。

 でも小佐田さんもわたしも分かっていて、くすぐり合うだけのようなふりをしていた。恥ずかしそうに笑いさざめきながら、手触りがいいだとか、冷え性だとか、核心からずらした言葉ばかりを交わし合った。

 隣にお兄さんたちがいるかもしれないことも忘れていた。なるべく声は立てないようにしていたつもりだったけど、もしかしたら怪しげな遊びをしていることは筒抜けだったかもしれない。

 家に帰って部屋に一人きりになってから、恥ずかしくって叫びだしそうになった。どうしてあんなことができたのか分からない。まるで自分じゃない誰かが乗り移って、代わりにわたしを動かしていたみたいだ。

 学校で小佐田さんにどんな顔をして会えばいいか分からない。あっさり流される気はするけれど、誰にも気取られずに平気な顔をしていられる自信はない。

 股下に冷たく当たって気持ち悪いパンツを脱ぎ捨てた。そこに染み付いたものがさっきまでのことが夢とかじゃなかったのだと教えてくれる。いっそ夢であれば、そんな夢を見た自分にドン引きするくらいで済んだのに。

 わたしはベッドの上に倒れ込んだ。階下から母の作る夕食のにおいが漂ってくる。日常の気配に安心しつつも、情欲は身体の奥に埋め火のように燃え続ける。思い出すとすぐに燃え広がってわたしの身体を奪っていく。

 いけないとは思いつつも、わたしは目を閉じて、小佐田さんがどんな風に触ってくれたか、指先で思い出そうとした。

「……ぁ」

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