精霊に愛されし侯爵令嬢が、王太子殿下と婚約解消に至るまで〜私の婚約者には想い人がいた〜
水都ミナト@【解体嬢】書籍化進行中
第1話
穴に落ちた。
深い深い穴。
兎を追って穴に落ちて異世界に迷い込む、そんなお伽噺があったな…なんて冷静な頭でぼんやりと考えながら落ち続ける。
ああ、このまま死ぬのかな――
そう思った時、ふわりと柔らかな風が私を包み込み、温かな腕に抱き止められた。
五歳の頃の出来事だった。
◇◇◇
私はナターシャ・ナイジェル。侯爵家の長女として生を受けた。
精霊の加護を受けるシルフィール聖王国の中でも、精霊との結びつきが強い家系の一つである。特に私はマナと呼ばれる自然界に溢れる力の扱いに長けており、五歳で三つ年上のレイモンド・ル・べルージュ王太子殿下の婚約者となった。
でも、王太子殿下には既に想い人がいた。
殿下と同じ歳で幼馴染のアイシャ・アメリア公爵令嬢だ。家柄も申し分なく、アイシャ様自身も温厚篤実で品行も良くて大変愛らしいご令嬢である。
ただ一つ、マナの扱いが苦手という理由で王太子殿下の婚約者候補から除外されてしまった。
聖王国で最も重んじられるのは精霊との繋がり、つまりマナを扱う能力。いくらアイシャ様が可憐で素敵な少女でも、肝心のマナを扱えないのであれば殿下の婚約者は務まらない。
ふんわりウェーブがかったブロンドの髪に、青空のように透き通った瞳、肌は白くて頬は桃色。まるでお人形のような魅力的な少女が、物心ついた頃から側にいたのだ。殿下が恋に落ちるのも必然であろう。
レイモンド殿下もアイシャ様もとても優しくて、私は二人が大好きだった。そんな二人が想い合っていることも、幼いながらに感じ取っていた。どうして二人は結婚できないのかと尋ねた時の悲しそうな表情は今でも忘れられない。
―――転機が訪れたのは、私がレイモンド殿下の婚約者になって半年ほど過ぎた頃だった。
その日、私は王城の裏手に広がる森に足を踏み入れていた。森に住まう精霊達と遊ぶために、こっそりと入り込んだのだ。
いつものように精霊達と追いかけっこをしていたら、マナの濃い場所に迷い込んでしまった。木々は鬱蒼と生い茂り、マナが濃いせいで息をするのも苦しいところだった。
これは流石に長居してはならないと足を踏み出した瞬間、地面が消えた。地面にポッカリと空いた人一人通れる程の穴に落ちてしまったのだ。
深い深い穴に落ち、気持ち悪い浮遊感にも慣れてしまうほど落ち続けた私は、気付けば見知らぬ人の腕の中にいた。
「お前は誰だ?どうやって入り込んだ」
地面につきそうなほど長い緑の髪を靡かせ、吸い込まれそうな深い翠玉色の瞳を携える、目を見張るほどの美貌の男性だった。思わず見惚れていると、溜息をついたその人が私を腕に抱いたまま歩き始めた。
されるがまま揺られていたが、地下深くに落ちたはずなのに周囲が妙に明るいことに気が付いた。
木々にマナが溢れてポウッと輝いている。あちこちに精霊の姿があり、新緑が生い茂り、小川のせせらぎも聞こえてくる。空には虹がかかり、幾つもの浮島が漂っている。全てがキラキラと煌めいていて、まるで絵本の世界のようだった。
私を運ぶ男性は、一際大きな木の前で立ち止まって私をそっと下ろした。
「人の子よ。名はなんという」
「ナターシャ」
「ナターシャ。お前はマナの扱いに長けているようだな。道中精霊達がお前のことを語って聞かせてくれたが…随分と好かれたものだな」
「精霊さんはお友達だから」
その人の声は凛としていて何だか不思議な音色がした。
「ここはどこ?」
地下に広がる不思議な空間。その奇妙な光景に幼い私は恐怖よりも好奇心が勝っていた。
「ここは精霊界だ」
「精霊さんたちのおうち?」
「ああ、そうだな。精霊達の棲家と思ってくれていい」
「あなたは、だれ?」
「俺はシルフィード。精霊の王だ」
「王様?」
「そうだ」
王様、ということはとっても偉い人。幼い私の認識なんてそんなものだった。彼がそう易々とお会いできる存在ではないことを理解したのはずっと後のことだった。
私は精霊たちと戯れながら、シルフィード様と色んな話をした。
シルフィード様曰く、私は精霊界に迷い込んでしまったらしい。稀に精霊達が人間界と精霊界を繋ぐ穴を閉じ忘れるようで、まさにこの日私が落ちた穴がそうだった。ちなみに偶然地面に開いた穴だっただけで、精霊界が人間界の地下に広がっているわけではなく、全く別の空間なのだとか。
精霊界はマナが濃すぎて人間の身体には負担が大きいのだが、幸いマナの扱いに長けている私はどうにか平気でいられるようだ。
「さて、ナターシャ。そろそろ人間界に帰るといい。いくらお前でもあまり長くここに居てはマナを浴びすぎてしまう」
「浴びすぎたらどうなるの?」
「身体に不調をきたす。体内のマナが暴走して息ができなくなり、最悪の場合は命を落とす」
「…また遊びに来てもいい?」
すっかりこの場所が気に入ってしまった私は、帰りたくなくてつい我儘を言ってしまった。シルフィード様は少し困ったように眉根を下げたが、腰を落として私の目線に合わせて頭を撫でてくれた。
「……ああ、また来るといい」
こうして私はしばしば精霊界に遊びに行くようになった。
そして八歳になった私は、とある事件を起こしてしまう。
レイモンド殿下とアイシャ様は相変わらず相思相愛で、私を入れてよく三人でお茶会を開いていた。二人とも私を妹のように可愛がってくれる。私は大好きな二人がどうにか結ばれる方法はないかと考えるようになっていた。
そして閃いた。
「アイシャ様!こっちです!」
「うふふ、ナターシャは足が速いのね」
アイシャ様が殿下と結ばれないのはマナの扱いが苦手だから。では、マナの扱い方を私が教えてあげれば問題は解決するのではないか。そのためにはマナのたくさんある場所でマナに触れるのが手っ取り早い。
そう短絡的に考えた私は、シルフィード様が私のために密かに繋いでくれた精霊界への入り口付近へとアイシャ様を連れて行った。森の奥深く、綺麗な水が湧き出る泉の側でとても綺麗な場所。きっとアイシャ様も気に入ってくれる、そう思っていた。
「はぁ…はぁ…随分森の深くに来てしまったわね…はぁ…」
私は慣れっこだが、可憐なアイシャ様には獣道はかなり大変な道中だったようで、すっかり肩で息をしている。
「どうですか?ここはマナに溢れています。私とマナを扱う練習をしましょう!」
両手にマナを集めて柔らかな光を発する。すると周囲のマナも反応してチカチカと満天の星空のように煌めいた。さあ、アイシャ様も…と振り返ると、アイシャ様の様子がおかしかった。
「ナター、シャ…なんだか私…くるし…はぁっ…」
「どうかしましたか?アイシャ様っ!!」
顔は真っ白になり、息苦しそうに胸を押さえて、とうとう膝から崩れ落ちてしまった。
「ど、どうしようっ…アイシャ様っ!」
私が途方に暮れて泣き出しそうになっていると、ふわりと優しい風が溢れかけた涙を拭うように頬を撫でた。
「ナターシャ、何をしている」
「シルフィード様っ!アイシャ様が…」
「ふむ、マナにあてられたか。森の入り口まで送ろう。この場から離れてマナの暴走が落ち着けば元気になるだろう」
シルフィード様が手をくるりと回すと、温かな風が私たちの周りを旋風のように取り囲んだ。思わず目を閉じ、再び開くとそこは森の入り口だった。
「…すごい」
「ナターシャ」
「はいっ、シルフィード様、ありがとうございます」
呆気に取られていた私はハッと我に帰ると、シルフィード様にお辞儀をしてお礼を言い、アイシャ様の様子を確認した。頬は桃色に戻り、表情も穏やかになっていた。
「普通の人間はマナの濃い場所に行くとこの娘のようになる」
「あ…」
私のせいでアイシャ様が…ようやくそのことに気付いて項垂れた。だが、そんな私の頭を優しくシルフィード様が撫でてくれた。
「お前は特別だということをゆめゆめ忘れるな」
そう言ってシルフィード様は風に乗って消えてしまった。
「う、ん…私は…?」
「アイシャ様っ!よかった…うっ、ごめんなさい。ごめんなさい…」
「ナターシャ…泣かないで」
「でもっ、でも…うっうっ」
アイシャ様が死んでしまっていたら、そう思うと急に背筋が冷たくなり、恐怖で涙が溢れて止まらなくなった。
「ナターシャ様!アイシャ様!」
その時、お城の方からたくさんの大人が走ってきた。姿を消した私たちを血眼になって探していたらしい。こんなにも多くの人に迷惑をかけたのかと、私はますます反省して小さくなった。
「アイシャ…!」
大人たちをかき分けて、レイモンド殿下がアイシャ様に駆け寄った。
「ナターシャも。無事でよかった」
「ごめんなさい。私のせいで…」
私たちの無事を確認してほっと安心した様子のレイモンド殿下に、私はただ謝るしかできなかった。怪訝な顔をする殿下に、慌ててアイシャ様が弁明してくれた。
「違うんです。ナターシャは私を森の奥の泉まで連れて行ってくれただけで…」
ざわり
その言葉に周囲の大人たちが騒ついた。
この森の奥深くは精霊界と繋がっており、精霊界は聖域とされていた。そして人間が聖域に足を踏み入れることはもってのほか。ましてやマナの扱いが苦手な人間はマナの濃い場所に行くだけで命が危ぶまれる。これは先程シルフィード様に教えてもらったことだけど、流石に大人たちは知っていたようだ。
この日から私はあらぬ噂に晒されることとなった。どこをどう解釈してそうなったのか、最終的な噂話の内容はこうだ。
『王太子殿下と仲睦まじいアイシャに嫉妬したナターシャが、聖域にアイシャを連れて行き亡き者にしようとした』
この噂に激怒したのは当のアイシャ様とレイモンド殿下だった。だけど、私はこの噂を利用してやろうと考えた。
「レイモンド殿下、アイシャ様。私の話に乗ってくださいませんか?」
「なんだ?困ったことがあるのならいつでも頼ってくれよ」
「そうよ、あなたは私のことを思ってあの場所に連れて行ってくれたんだから。酷いわ、何も知らない人が悪意を持って言いふらしているのよ。どれだけ弁明しても誰も聞き入れてくれないわ」
定期的に開かれるお茶会の場で、レイモンド殿下とアイシャ様に相談を持ちかけた。あらぬ噂に憤慨しているお二人はやはり優しい。私は本題を切り出した。
「私はお二人に幸せになってほしいです。だから、この噂を利用しようと思うのです」
「どういうことだい?」
「私はこれから王太子殿下の婚約者として相応しくない振る舞いを続けます。王妃教育を真面目に受けず、アイシャ様に押し付けます。人目があるところではアイシャ様に嫉妬している振りをします。アイシャ様は私のことについて何を問われても困った笑みを浮かべてください。それだけで周囲は勝手に色々な推測を広げてくれるでしょう」
「そんな…」
「アイシャ様、私とこっそりマナを扱う練習をしましょう。大丈夫です、もう森には入りません。アイシャ様がマナを上手に扱えるようになり、私の評判が地に落ちた頃、殿下は私との婚約を破棄し、アイシャ様を新たな婚約者に据えてください」
「そんな…君だけを悪者にするなんて僕にはできない」
「いいのです。お二人には幸せになってほしいのです。心から想い合うお二人に結ばれてほしいのです」
「だがっ、それじゃあナターシャの…」
ナターシャの幸せは?
レイモンド殿下は恐らくそう言おうとしたのだろうが、俯いて口を固く引き結んだ。殿下は揺れていた。私の提案により、アイシャ様との諦めていた未来に光が差したのだ。だけど、その未来を手にするに私を犠牲にせねばならない。
「いいのです。私はお二人が大好きです。お二人が幸せになるのが私の幸せです」
私は朗らかに微笑んだ。レイモンド殿下とアイシャ様も笑っていただろうか。あまりはっきりと覚えていない。
それからは宣言通り、王太子殿下の婚約者として相応しくない行動を取った。王妃教育はアイシャ様が居ないと出ないと駄々をこね、授業中は上の空、人目があるところではアイシャ様に我儘を言い、突き放した。だが、マナの扱いの練習はしっかりと受け、その能力を存分に誇示した。
次第に、性格に難ありだがマナの扱いは右に出る者がいないと称されるようになり、品格を問うかマナの扱いを取るか、王城の官僚たちは王太子殿下の婚約者の扱いに大いに頭を悩ませた。
ちなみに私の企ては侯爵の父には打ち明けていた。父は最後まで反対したが、私が一向に折れないので最後には了承してくれた。とても悲しそうな顔をさせてしまった。
「ナターシャ、辛くはないのか?」
ある日、息抜きのために精霊界に遊びに来ていた私に、シルフィード様が問いかけた。私はもう十二歳になっていた。
「大丈夫ですよ。レイモンド殿下もアイシャ様も、心を痛めていらっしゃいますが…私がしたくてしていることですから」
「そうか…」
「でもやっぱり息が詰まりそうにはなります。だからこうしてシルフィード様に会いに来るのです」
「俺に?何のために?」
「シルフィード様といると心が落ち着くからです。私は精霊達も大好きですし、この場所も大好きです。ああ、ここに住むことができたらどれだけ幸せか…」
「…人間はここには住めない。マナの供給に耐えられないからな」
「ふふ、分かっています。言ってみただけです」
「そうか…」
大丈夫、だからそんなに悲しそうな顔はしないでください。
「アイシャ様、人を好きになるってどんな感じですか?」
「えっ!?」
十四歳の時、私はマナの練習の合間に尋ねた。アイシャ様はぼんっと顔を赤くして恥ずかしそうにしている。
十七歳になったアイシャ様は、私からすればすっかり大人の女性へと変貌していた。愛らしさはそのままに、美しさには磨きがかかり、ふわふわのブロンドの髪も、美しい青い瞳もその魅力を増していた。
「そう、ね…その人のことを考えると、胸がぽかぽか温かくなって、でもきゅうっと締め付けるような切なさもあって、だけど嫌じゃないの。その感情全てが愛おしいの」
「ふとした時に会いたくなったり…?」
「ええ、会いたくて仕方がなくなるわ」
「その人のことを考えると何でも頑張れちゃう?」
「ふふ、そうね。幸せな気持ちが胸に満ちて支えてくれるの」
そういうものなのか。
ーーーなんだ、私はその気持ちを知っている。
…叶いはしない想いだけれど。だからこそアイシャ様にはレイモンド殿下と幸せになってほしい。私の分まで。
「シルフィード様、いよいよ明日です」
「そうか」
私は十五歳になった。明日はレイモンド殿下とアイシャ様が王立学園を卒業する日。お二人は十八歳になっていた。
長年の努力の甲斐もあり、アイシャ様はマナの扱いが随分とお上手になった。マナの扱いにしか取り柄がないとされる私より、アイシャ様の方が殿下に相応しいという声もあちこちで聞こえるようになっていた。
明日の卒業パーティで、私は最後の仕事をする。
アイシャ様に飲み物をかけ、レイモンド殿下を怒らせて婚約破棄を突きつけられるという筋立てだ。
なぜそこまでする必要があるかというと、この国では一度結んだ婚約を簡単に解消することができないから。余程の理由がない限り、精霊王に誓いを立てた婚約関係を解消できない。
今日まで私は我儘で身勝手な婚約者を演じ続けてきた。周囲の評判もガタ落ちだ。最後の決定打があれば、無事にレイモンド殿下とアイシャ様は邪魔者の私を排除して結ばれる。
「シルフィード様。ありがとうございました」
「何がだ」
「ここでの時間が私を支えてくれたのです。ここが私の憩いの場所でした」
「ならよかった」
シルフィード様は言葉が少ない。だけどそれが逆に心地よかった。
「シルフィード様、少し手を握ってもよろしいですか?」
「ん?どうかしたか?」
「いえ、最後までしっかりと立ち続けるために、勇気を分けてほしいのです」
「…好きなだけ握るといい」
「ありがとうございます」
私は大樹を背に腰を下ろすシルフィード様の隣に移動した。そして、恐る恐るその大きくて美しい手を握った。温かな熱が繋いだ手を介して私の心をも温めてくれる。
そよそよと優しい風が吹き、大樹の葉が擦れて耳当たりの良い音がする。視線の端では蝶や小鳥に扮した精霊達が戯れており何とも微笑ましい。
穏やかで心地よい時間だった。
そして現在―――
目の前にはシャンパンでドレスが濡れたアイシャ様と、その肩を支えるレイモンド殿下が立っている。私の手にはポタポタとシャンパンが滴る空のグラス。
卒業パーティの会場の中心で、パーティに列席している学生達の好奇な目に取り囲まれている。
そんな中、レイモンド殿下が計画通りに口を開いた。
「私は、っ、ナターシャとの婚約を解消し…アイシャと結婚する…っ」
ダメですよ。殿下、お声が震えています。しっかりと胸を張って、私を切り捨ててください。
アイシャ様も泣かないで。
祝いの場で起こった奇妙な出来事に国王陛下は困惑しつつも、殿下の申し出を受理された。
これで私は王太子殿下の婚約者ではなくなった。ここまで長い道のりだった。私は今、うまく笑えているのだろうか。
「ナターシャ…っ!ナタ、ナターシャ…」
レイモンド殿下とアイシャ様は抱き合いながらその場に崩れ落ちてしまった。婚約を解消し、幸せを掴んだはずの二人の悲痛な様子に周囲は困惑している。
「レイモンド殿下、アイシャ様…どうか笑ってください」
私の声に返ってくるのは嗚咽ばかり。念願の婚約者同士になったのに、どうして二人は笑ってくれないのだろう。
「っ、笑えるわけがないだろう…君は僕たちのために周囲からの評価を落とし、蔑まれ、色んなものを失ってきたじゃないか…!僕たちは…ナターシャ、君のことを実の妹のように大事にしている。君を置いて幸せになんてなれない」
アイシャ様も頷きながら、はらはらと綺麗な涙を流し続けている。レイモンド殿下は歯を食いしばり、涙を溢さないようにどうにか堪えている。
―――ああ、私は酷なことをしてしまっていたようだ。
そのことにようやく気がついた。
二人は愛し合っている。幼い頃から変わらずずっと。
二人が結ばれるためには二つ乗り越えねばならないことがあった。私の存在と、アイシャ様がマナを扱うこと。
私なりに最善だと思うことを懸命に取り組んできた。
恐らく二人はずっと、手を取り合い生きるためには私を犠牲にせねばならないことに、心を痛め、今日の今日まで悩み続けてきたのだろう。
でも、私の存在は二人が共に未来を歩むためには邪魔な存在。
「…私は、どうすればよかったのでしょうか」
物心ついた頃から、レイモンド殿下とアイシャ様は想い合っていた。そんな二人を引き裂いて、殿下と夫婦になるなんて考えられなかった。
それに、私には…五歳の頃からずっと、心を掴んで離さない方がいる。決して結ばれないはずの想い、それを考えないようにするためにも、私は悪役を演じ続けた。
でも、私のしてきたことが大切な人たちを苦しめていたかもしれない。緊張感で何とか保っていた私の心が大きく揺れてしまった。
―――ほろりと頬に涙が伝った。
その時、会場に温かな風が吹いた。
私はこの温かさをよく知っている。
風が止むと、周囲の息を呑む音と共に現れたのは妖精王シルフィード様だった。
「シルフィード様…」
「ナターシャ」
シルフィード様は長く滑らかな指で私の頬を濡らす涙を掬ってくれた。
「ようやく長く苦しんできたことが終わったのだろう?なぜ泣いている」
「シルフィード様…っ、わ、わた…私のしたことは、間違っていたのでしょうか?」
シルフィード様のお顔を見ると、感情のダムが決壊してしまった。次から次へと涙が溢れてはシルフィード様の手を濡らしてしまう。
シルフィード様は視線を流して、レイモンド殿下とアイシャ様を見据えた。そして私に視線を戻すと、優しい声で語りかけてくれた。
「お前はこの者達が、本当に心から幸せになれると思っているのか?この者達は、お互いに愛し合っている。だが、お前のことも大切に思ってくれているのだろう?大切な者の犠牲の上に本当の幸せは築けないぞ」
「では、私はどうすれば…」
「お前も幸せになるしかなかろう」
「私の幸せ…でも、私は…」
婚約破棄して二人が結ばれるように、ただそれだけを考えて生きてきた。レイモンド殿下とアイシャ様とは本当に気のおけない仲になれたし、別に失うばかりではなかった。
それに、私のこの秘めた想いは決して結ばれぬもの。
「ナターシャ、今いくつになる」
「え?十五ですが」
不意にシルフィード様より尋ねられた問いに、首を傾げて答える。シルフィード様は、ふむ、と顎に手を当てて少し思案した後、驚くべきことを口にした。
「十八になり、この国で成人を迎えたら精霊界に嫁ぎに来い」
「…ええ!?だ、だって…人間は精霊界では住めないって…」
そう、だから私のこの気持ちは叶わない。種族の壁は越えることができないのだから。
「ああ、だが精霊王が加護を与えれば問題ない。どうだ?俺のものになるか?」
「っ、は、はい!」
長年の悩みをたった一言でシルフィード様は吹き飛ばしてしまった。
せっかく止まりかけていた涙が、再び溢れてしまう。シルフィード様は困ったように微笑みながら、私の頬に温かな手を添えてくれた。ずっと私を支えてくれた大好きな手。
「な、ナターシャ…そちらの方は、本当に?」
レイモンド殿下は驚き目を見開いてシルフィード様を見ている。それもそのはず、精霊王が人前に現れることはまずない。しかも特定の人物と親しくしているなど、普通であれば信じられない光景だ。
「はい、精霊王シルフィード様です」
私の返答に、固唾を飲んで見守っていた人達も、わぁっと感嘆の声を上げている。この国が奉る精霊王様にお目にかかれたのだ、当然の反応であった。
「精霊王シルフィード様、私は王太子のレイモンド・ル・べルージュと申します。お目にかかれて光栄でございます」
「うむ、そこまで畏まらなくても良い」
「はっ、ありがとうございます。それで、その…」
レイモンド様は胸に手を当て、膝をついてシルフィード様に頭を下げたまま、戸惑ったように私を見ている。
「ああ、安心するがいい。事情は全て知っている。ナターシャは俺が必ず幸せにしよう。お前はお前の愛する者を幸せにしてやれ。ナターシャが生まれたこの国には、俺が引き続き恵みを与えよう。王位を継いだ暁には、より豊かな国を作るのだぞ」
「ははっ、もったいなきお言葉。必ずアイシャを、そしてこの国を、国民を守ると誓います。ナターシャを、ナターシャを何卒よろしくお願い申し上げます」
周囲から温かな拍手が溢れる。感極まって泣いている人もいるようだ。
「さて、ナターシャ。行こうか」
「え、どちらへ…?」
「精霊界に決まっているだろう」
シルフィード様が指を鳴らした瞬間、ブワッと旋風が私たちを包み込んだ。目を閉じ、再び開けると、そこはいつもの大樹の前だった。
たくさんの精霊達が集まっており、皆どことなく浮き足立っている。
「ナターシャを迎えに行くと言ったらこの有様だ。着いて来ないように言いつけるのが大変だった」
「まぁ…ふふっ」
精霊達に盛大に出迎えられ、私はとても嬉しい気持ちになった。皆、私の幸せを願い、祝福してくれていることが伝わってくる。
精霊達と戯れていると、シルフィード様が私の髪を一房手に取った。
「お前が大人になるのを待ち、迎えに行こうと思っていた」
「シルフィード様…嬉しいです。ずっと、ずっとお慕いしておりました」
「ああ、知っている。俺もずっとお前を大事に想っていた。お前が頑張ってきたことが、全て終わるのを待っていたのだが…もっと早くに気持ちを伝えていれば安心させてやれたのだろうか」
「いえ、私は今、十分に幸せです。叶わぬ恋だと思っていましたから」
「そうか」
シルフィード様は柔らかく微笑むと、ふわりと私を抱きしめてくれた。腕に抱かれるのは初めて会った時以来。あの時は運ばれていたので正確には抱擁ではないのだけれど。あの日からずっと、私はこの優しくて気高い精霊王に魅了されている。そしてそれはこれからもずっと。
――三年後、私が成人し、学園を卒業した後、シルフィード様は約束通り私を迎えに来てくれた。
この三年の間に、レイモンド殿下とアイシャ様は結婚し、王位を継がれた。新しい王と王妃は国民の支持も厚く、さらに国は豊かになりつつある。
私のこれまでの行動についてはレイモンド殿下とアイシャ様が懸命に弁明し、酷い噂話は跡形もなく消えた。そして前代未聞の精霊王の妻になる私は王国中に祝福され、精霊界に送り出された。
「シルフィード様」
「なんだ、ナターシャ」
「あなたと共に生きることができて、本当に幸せです」
「ああ、俺もだ」
祝いのため、精霊達が煌びやかに大樹を彩っている。シルフィード様と肩を寄せあい、パチパチ瞬く優しい光に目を眇めた。
温かく優しい風が私たちの頬を撫で、天へと昇っていった。
精霊に愛されし侯爵令嬢が、王太子殿下と婚約解消に至るまで〜私の婚約者には想い人がいた〜 水都ミナト@【解体嬢】書籍化進行中 @min_min05
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