第六章 サイバネティック・テセウス
第79話 深層より
陽の射さない地下研究所の廊下を、二人の人物が走っていた。
一人は白衣を着た眼鏡の若い男性、もう一人が薄いピンク色の病衣に身を包み、これまた桃色の髪を首筋まで伸ばした少女。二人は複雑に枝分かれした廊下を右に左に曲がりながら必死に走っていた。
「……大丈夫だ、追って来てない」
やがて二人は重厚な扉の前で立ち止まる。白衣の男性は肩で息をしながら、ポケットから取り出した小型端末を素早く操作する。
「まだ奴らは、僕達の脱走に気付いていないみたいだ。けど、外に出たらそうもいかないだろうね」
「……博士、本当に上手く逃げられるかな」
男性とは反対に全く息が乱れていない病衣の少女は、心配そうに胸の前で手を握っていた。
「心配ないよ、アイナ。体内に埋められた二十三種のナノトラッカーは除去したし、システムは『イクテシア』のネットワークからも切り離した。一度外に出て人混みに紛れてしまえば、奴らでも見つけ出すのは困難なはず」
端末を扉のパネルに押し当てながら、男性は安心させるように少女の肩に手を置いた。
「それに言っただろう? 外にいる協力者の一人が近くまで来てくれるってね。特徴は覚えてるか?」
「うん。
少女の答えに男性は頷く。
「アイナと同じくらいの少年だそうだ。僕と別れてから困った事があったら、彼を探すんだ」
「分かった……! 無事に合流しようね」
「ああ。お互い無事に」
二人が話している内に、扉のロックが解除された。パネルから響く電子音に続いて、重い音を響かせて扉が上にスライドした。先には廊下が真っ直ぐ伸びており、その先には彼らが目指している出口がある。
少女には、陽の光が二人を手招いているように思えた。
「ようやく、外に出れるんだね」
感慨に浸りそうになっていた思考を振り払って、少女は光を目指して走り出した。
* * *
いつもなら夜九時には布団に入っている所を、従兄の
なのに、夜中の一時になって目が覚めた。理由は至ってシンプルだった。
「……トイレ行きたい」
ゲームをしながらジュースを飲み過ぎたのだ。単純にして明解、ごくありふれた理由である。布団から出て立ち上がったののかは、しかしすぐにトイレへ駆け込みはしなかった。
その理由もまたシンプル。静まり返った真夜中の家が怖かったのだ。
中学に上がったばかりの彼女だが、夜と幽霊が嫌いな彼女はまだ一人で寝れない。一人で芹田家にやって来た昨日は叔母である芹田母の部屋で眠り、今日は流輝の部屋に布団を敷いて寝ていた。
ベッドで眠る従兄へちらりと視線を向けるが、すぐに被りを振る。今日学園から帰って来たばかりの彼を叩き起こしてトイレに同行させる事に申し訳なさを覚える程度には、ののかも気遣いが出来る中学生だった。
「大丈夫……きっと何も出ないよ、うん」
無能力者を狙う幽霊がいるという話を昼に聞いてしまったせいで、いつも以上に暗闇が深く感じるが、きっと考え過ぎだ。ののかは意を決して部屋を出た。
扉を出てすぐ横の壁にあるパネルに手を当てて、廊下と階段の電気を点ける。
ここは昼間に何度も歩いている家の中だ。暗くなければ何も怖くない。
「こわくない、こわくない……」
手すりを掴みながら一歩一歩降りていく。いつもの倍以上の時間をかけて足を動かし、ようやく一階へ辿り着いた。すぐに一階廊下の電気を点けようとパネルを探す。
いつもの家じゃないのでパネルの位置が分からず、きょろきょろと首を回した。すると、うっすらと何かの灯りが見え、思わずそこに顔を向ける。
「あっ」
そしてすぐに、不用意に見てしまった事を後悔した。
玄関の前で、明らかに自然にできた物ではない影が浮かんでいたのだ。煙のようにゆらゆらと揺れるソレは、辛うじて人型を保っている。
目も口も無い形だけの影。しかしその注意が、確実に自分へ向けられた気がした。目が合ったわけでも無いのに、ののかは瞬時に察してしまった。
アレはこっちを見ている、と。
もはや声も出ないまま、ののかが過去最高速度で階段を駆け上がったのは、それから二秒後にも満たない話であった。
* * *
俺の目を覚ましたのは、腹にかかった重すぎず軽すぎない重圧だった。仰向けに寝ていた体にクリーンヒットしたので、体感的には『落ちて来た』とも呼べるそれ。
若干の苦しさと共に、意識が眠りから引き上げられた。
「痛つつ……一体何なん、だ」
また寝ながら自分を痛めつけていたのかと思いきや、目を開くとののかの姿が見えた。なぜか俺の腹にしがみついてオレの体を揺さぶっていた。
「リュウにぃ起きて……! 下に、玄関に、出た!」
「出た? 何が」
「おばけ! あれは幽霊だよ!」
ののかは涙目で俺の体を揺らす。相当焦ってるのを見るに、いたずらとかではなく本当に見てしまったのだろう。そう言えば寝る前にジュースいっぱい飲んでたし、トイレにでも行こうとしたら出くわしたって感じか。
ののかは昔から幽霊や妖怪といった霊的な怪談が苦手だから、暗闇が怖くて見間違えたんじゃないのか……?
「見まちがいじゃないからね! ホントにいたもん!」
「痛い痛い……」
俺の疑いが顔に出ていたのか、ののかは今にも泣き出しそうな顔で俺の腹をバシバシ叩く。泣きたいのか怒りたいのかよく分からない状態だった。
「幽霊……幽霊ね」
ここでようやく、寝起きの頭が覚醒した。
本物の幽霊かどうかはさておき、俺は『霊』という言葉に聞き覚えがある。そのような物をこの目で何度も見たじゃないか。
「ののかの事ねらってるんだよ! リュウにぃやっつけて!」
「分かった分かった。トイレだろ? ついて行くから」
このまま朝まで泣き続けそうなののかをどうにかなだめながら体を起こす。ベッドから出ると、机に置いていたスマートバンドを手に取り、もう片方の手でののかの手を握って部屋を出た。
特殊能力がありふれたものになった現代では、心霊現象などのオカルトは全て能力と同一視され、能力が無かった昔ほど怖がられてはいないし、信じる人もあまりいない。かく言う俺も、死者の魂がこの世に残るなんて怪談は信じていない。本当にそういう能力ならあるなら別だが、聞いた事も無い話だ。
けど、それっぽく演出できる能力ならいくらでもあるだろうし、
「まだいる……! リュウにぃアレ!」
やっぱりか……。
ののかが指さす玄関に、薄い黄緑色をした不気味な人型の影が浮いていた。その姿を見て、俺の予想は的中した。
あれは色こそ違えど何度も見て来た、『ゴーストタウン』の作り出す霊に違いない。
「大丈夫だよののか。アレは俺が追い払っとくから、トイレ行きな」
「終わるまで待っててね? 先に戻ったりしない?」
「しないしない。ずっといるから」
昼間とは違ってすっかり元気が無くなったののかは、途中何度もこちらを振り向きながらもトイレに入った。それを確認してから、俺は玄関の前でゆらゆらしている霊へ近寄る。能波汚染区域に入る時も思ったけど、やっぱ真夜中に見たら本物の幽霊にしか見えないな。
「全く、来るならもう少し慎重に出て来て欲しいな……子供を怖がらせるなよ」
どうせ
黄緑色の霊が不自然にうねり、スマートバンドが触ってもいないのにひとりでに起動した。やはり目の前にいるのは、『ゴーストタウン』が寄越して来た電子操作系の能力を持つ霊だ。
本人から聞いた話によると、『ゴーストタウン』は普段
メッセージの送信が完了したのか、動きが止まった霊は玄関の扉をすり抜けて外へ去って行った。出て行き方もやはり幽霊だ。
「リュウにぃ、ちゃんといるー?」
「しっかり待機してますよー」
扉をノックしながら呼びかけてくるののかに返事をしつつ、左腕に装着したスマートバンドを起動する。
メッセージの頭に付けられていた『緊急』の文字を見て、自然と目に力が入る。
『深層機関の一つ「イクテシア」の通信記録から情報を入手した。イクテシアの被験体として囚われている一人の少女が、内部協力者と共に脱走を計画しているようだ。決行日時はおそらく明日、午前十時。君には現地に出向いて脱走した少女を保護し、安全な場所まで連れて来てもらいたい。イクテシアのついての詳細は――』
メッセージに一通り目を通し、俺は無意識に拳を握りしめた。
深層機関からの脱走者……『ゴーストタウン』は予想していたかもしれないけど、俺は驚いた。決して簡単な事では無いだろうけれど、やっぱり逃げ出そうとしている人はいるんだ。
「明日、午前十時か……」
能力者を道具のように扱う連中と聞くし、捕まれば最悪殺されるかもしれない。人の命がかかっているとなると、俺が出動を渋る理由など無い。深層機関に捕まった能力者を救う事はプリズム・ツリーの役目なのだから。
問題は、俺はたった今、実家に帰省中だという事。
家に帰って来たばかりなのにまた都心の方へ戻るなんて、上手い理由を考えないと両親に不審がられるだろう。
「さて……どうしたもんか」
夏休みも後半の八月下旬。
俺達プリズム・ツリーは、人命がかかったミッションを遂行する事になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます