第68話 見えない壁の向こう側

 東京東端、千葉との県境からほど近く。

 星天せいてん学園の最寄り駅から三十分ほど電車に揺られた先に、目的の『鏡乃海かがみのうみ水族館』はある。


 一番大きいかどうかは分からないが、敷地面積や飼育種類数などの全体的な規模は都内指折りの場所で、知名度は高く全国的に見ても有名な水族館だ。五年ほど前には、最大手ホログラムディスプレイ開発企業のミラーズコーポレーション協力のもと大規模リニューアルが行われたらしく、リニューアル後はより一層人気を博している。


 ……と、ここまでが観光サイトによる情報。どこへ行こうかと彩月さいづきと話し合っていた時、たまたま見つけた都内水族館ランキングの一位に入っていた為、目的地はここに決まった。


「おお……凄い人気だな」


 駅から数分ほど歩けば鏡乃海水族館に到着だ。都内屈指の観光スポットという事で、言わずもがな人だらけ。夏の熱気が五割増しだった。


流輝るき君見て! もう魚見えるよ!」

「いや、まだ入館してな……マジか」


 興奮気味に服を引っ張る彩月の視線の先には、入口付近の噴水から飛び出す数多の魚たち。それらは全てホログラムだったが、本物と見まがうような自然で美しい出来だ。

 入館前からつい足を止めていたが、本番はこれからなのだ。水族館なんて中学生の頃ここより小さい所に行ったきりだが、少し楽しみになっている自分がいる。


「さあさ、早く中入ろ!」


 そしてそれは、俺以上に楽しそうにしている奴が隣にいるからかもしれない。

 今日の彩月は、白のチュニックにキュロットパンツとふんわりとした動きやすそうな恰好だった。人だかりで見失わないよう服装を確認していたら、六月に二人で行ったショッピングモールで買っていた服だという事に気付く。彩月もおしゃれとかするんだな、という感想は流石に失礼なのですぐに頭から消去した。

 そんな事よりも、立ち止まっていると置いて行かれそうだ。俺は慌てて、彩月に続いて館内に足を踏み入れた。





     *     *     *





 水族館に人が集まる理由のひとつには、落ち着いた雰囲気が大きいと思う。

 空調が効いていてひんやり気持ち良いし、人の多さとは裏腹に館内は静かだ。薄暗い内装と美しくライトアップされた水槽が、人々の心を和ませているのかもしれない。

 何よりこの鏡乃海水族館は、ホログラムによる展示が壮大だ。特に『海中体験スペース』なる部屋は、スクリーンになっている床や天井だけでなく部屋中にホログラムの魚が泳いでおり、本当に海に潜ったかのような幻想的な景色だった。


 うっかり見入っていると彩月を見失ってしまうのではと危惧していたが、意外にも館内での彩月は大人しかった。いや、ずっと興奮気味ではあるのだが、ひとつひとつの水槽を「うわー」とか「きれー」とか声を漏らしながらジッと眺めていた。

 いつもパワフルな彼女が綺麗な物に釘付けになっている姿は何だか以外だった。柄にも無い度合いで言えば俺も人の事は言えないだろうけど。それだけ水族館は、人を特別な気持ちにさせてくれる場所なのかもしれない。


「ねえ、流輝君は水族館の魚を見て美味しそうって思うタイプ?」

「何だその質問」


 大きな水槽トンネルを歩いている時、彩月はふと訊ねて来た。首を痛めないか心配になるほど顔を動かして魚を目で追いながら、彩月は笑みを零した。


「えへ、お約束かと思ってさ。ちなみにボクはそうでもないかな」

「そうでもないのかよ。まあ俺も別に、食べたいとは思わないな。クラゲとか見てゼリーみたいだなとは思うけど」

「あ、それ分かる。美味しそうだよね」

「思ってるじゃねぇか」

「クラゲは魚じゃないからノーカウントだよー」


 そんな事を話していると、くだんの美味しそうなゼリーもといクラゲたちの展示コーナーにやって来た。青や紫など寒色系のライトに照らされたクラゲたちを見てると、ゼリーみたいとかいう陳腐な印象を抱いていた事が情けなくなるほどには目を奪われた。

 ガラスに投影された説明文によると、クラゲの英名は『ジェリーフィッシュ』と言うらしい。やっぱりゼリーじゃないか。


「こう見ると不思議だよね。海の底で人知れず暮らしてた生き物を、こんな間近で見られるなんて」


 水槽の奥をまじまじと見つめながら、彩月がなんだか深い事を言う。


「このクラゲたちの事だって、昔の人間は知らなかったんだよね。それをどうにかして調べて、捕まえて、綺麗に飼育して。ボクは流輝君とここに来れて良かったと思ってるけど、この子たちはどう思ってるのかな」

「……」

「閉じ込められて悲しいのか、安全に管理されて幸せなのか」


 ガラスに手を当てて、見えないけれど確かに存在する壁の向こうにいるクラゲたちへ問いかけるようにポツリと零す。クラゲたちに向けられているはずなのに、ここではないどこかを見ているような視線。それが、俺へ向けられた。


「流輝君は、水族館の生き物を見て可哀想って思うタイプ?」


 七色の光を湛える瞳には、ほんの小さな穴が開いているように見えた。天真爛漫な彼女の底にある、小さな闇のように。


 調べ上げられ、管理される生活。その言葉はまるで、彼女の現状を表してるように思えた。ただ問いかけているようにも、嘆いているようにも、諦めているようにも聞こえてしまう。

 それがどうにもいたたまれなくて、俺は咄嗟に口を開きかけた。だが、出そうになっていた言葉はどれも、今は言えない事ばかり。彼女の秘密を俺が知っている事は、今はまだ知られてはいけないのだから。


「……それも、お約束の質問か?」


 彼女の助けになってやれない悔しさを押し殺して、俺は冗談を言い合っていた時と同じようなトーンで返す。今はまだ、こんな言葉しか返せない。


「まあ、客にゼリーみたいって言われるんだから、可哀想と言えば可哀想だな」


 明らかに的外れな俺の答えに、彩月は面食らったように数回瞬きをして、それから笑った。


「それは言えてるね。多分この子も心外だーって怒ってるかも」

「すまんなクラゲよ。いつか人類がクラゲを食す日が来たら、お前は俺が責任を持って食べてやる」

「あははっ、きっとこの子はデザートだね」


 先ほどまでの暗い顔が噓のように、いつもの明るい笑みを取り戻していた。ガラスの向こうなど気にも留めずふよふよと漂うクラゲに手を振って、彩月は通路の奥を指さした。


「あそこ、魚と写真撮れるんだって! 行こ行こ!」


 無理に演じてるようにも見えないし、切り替えが早いだけなのかもしれない。すっかりテンションが戻った彩月とはぐれないよう、俺も後を追った。





     *     *     *





 館内をぐるりと一周し、グッズショップで買い物をした後、俺達は併設されたカフェで休憩していた。昼飯前にスイーツを食べるのはちょっとした背徳感があるが、たまにはいいだろう。

 夏の海のようなブルーハワイソーダや魚を模したクッキーの乗ったソフトクリームなどなど。水族館ならではのメニューがたくさんあったが、一番目を引いたのはやはりコレ。


「まさか、こんなにも早くが来るなんて」


 俺の目の前にあるのは、ミズクラゲをモチーフにしたゼリーだった。さっきは冗談めかして食べてやるなんて言ったけど、こんな形で叶うとは思わなかった。せっかくなので、俺はこのゼリーを食す事にした。


「うん……まあゼリーだよな」


 間違ってもクラゲの味なんかしない。そもそも食用クラゲを食べた事がないから分かる訳ないんだけど。味も食感もちゃんとグレープゼリーだった。


「クラゲの肉とか入ってる?」

「さすがにそれは無い。普通に美味しいゼリーだな」


 向かいの席に座る彩月もクラゲゼリーが気になっているようだ。大きなソフトクリーム片手に、興味深そうに視線を落としていた。


「ねえ、ボクもひと口だけ食べていい?」

「え」

「大丈夫! ホントにひと口だけだから! ひと口には個人差があるとか言って全部食べたりしないから!」

「いや、そんなズルを懸念してる訳じゃなくて」


 俺が言葉に詰まったのには、もちろん別の理由がある。ここで何も引っ掛からない男子高校生などいない。


「……も、もうひとつ買ったらいいんじゃないか?」

「ソフトクリームもあるしさすがに全部は多いよ。ここはシェアした方が効率的でしょ?」

「それはごもっともだが……俺の食べかけだぞ? いいのか?」

「味が変わる訳でも無いしボクは大丈夫だけど」


 大丈夫じゃないだろ。むしろ何で大丈夫なんだよ。何もおかしな事は言ってないとでも言うように首をかしげるな。


 ……けどまあ、彩月相手に女子高生らしい恥じらいを求めるだけ無駄かもしれない。それがこいつの良い所でもあるしな。

 それに些細な話だが、クラゲとゼリーを結び付けてしまったのは俺だ。俺が招いた事だと言うのなら、ここで拒否するのも違うだろう。


「しょうがない。ひと口だけな」


 気持ち大きめにクラゲゼリーをすくい、目の前に差し出した。身を乗り出した彩月は何の躊躇いも遠慮もなくパクリとかぶりつく。


「んむむ……普通に美味しいゼリーだね」

「言ったろ、普通に美味しいゼリーだって」


 二人してそれなりの感想しか出てこなかった事が可笑しくて頬が緩む。彩月も釣られたように笑いながら、今度はソフトクリームをこちらに差し出して来た。既に半分ほど無くなっている、まごう事なき食べかけである。


「ボクのもあげるよ。美味しいよ?」

「……いや、お腹冷えそうだし遠慮するわ。全部食べな」

「そう? 勿体ないなぁ」


 流石に俺の方にそんな勇気は無かった。やんわり断ると、彩月は気にせず再びソフトクリームを食べ始めた。

 彩月はソフトクリームを舐める派じゃなくてかじる派なんだな、とどうでもいい事を考えて恥ずかしさを紛らわしつつ、俺も残りのゼリーを平らげた。


 能力による戦闘は一流だし人からの敵意や悪意にも動じなかったり何かと高校生離れしているが、こういった思春期特有の感情も本当に疎いんだよな彩月は。いつか悪い人に引っかけられたりしないかちょっとだけ心配だ。

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