第9話 どこかの痛み

 夢は脳が行う記憶の整理だという話は、昔から聞いた事がある雑学だ。俺たちが毎晩寝ている間も、記憶の引き出しに様々な記憶が綺麗に仕舞われているのだろう。

 ならば、何度も何度も見てしまう夢は、どこに仕舞えばいいのか分からないほど強く心に残っている記憶なのだろうか。あるいは引き出しに入れてしまってはいけないほど、固く記憶に留めるべき思い出なのだろうか。


 この目に、脳に、記憶に、強く焼き付く情景がある。


 まるで風そのものが物理的な破壊力を帯びているかのように、視界の全てが簡単に崩れ落ちる。あらゆる物が燃え盛り、ついさっきまで何事もなく日常を過ごしていた人々がいきなり目の前で吹き飛ばされていく。極彩色の波動が辺りを埋め尽くし、あらゆる色を破壊という手段でもって塗り替えていく。あまりに非現実的な惨状だった。


 東京の約一割の面積を丸ごと消し飛ばした、悪夢のような災害。あと一歩でトラウマになりえたであろうその日が、心に傷としてではなく『思い出』として残ったのは、俺の命を救ってくれたあの人のおかげだろう。


 自らの身に降りかかる危険も省みず、一人でも多くの命を救おうとしたあの人の姿は、今の俺の憧れとなっている。


 あの人のように強くなりたい。たくさんの人を守れる力を持った、強い能力者になりたい。

 それが、俺の将来の夢だ。





     *     *     *





 六月も後半になり、朝方も日向を走ると汗ばむようになった。

 そんな季節でも毎日欠かさず、俺は早朝にランニングを行うようにしている。まずは形から、と入学と同時に買いそろえた良い素材のジャージに身を包み、東京の街を走る。彩月さいづきとの特訓のおかげか体力が付いて来たので、最近は走る距離を少しずつ伸ばしているのが小さな自慢だ。


 時刻は朝の六時。まだ人通りがまばらな道を、左耳にはめたワイヤレスイヤホンから流れるニュースや天気予報を音楽替わりにして走る。こんな時は好きな曲なんかを聴いてるとテンションが上がったりしそうなものだけど、残念ながら俺は流行に疎い。後でいい曲は無いか、流行りに人一倍敏感なケンにでも聞いてみるか。


『――東京西部に出現した「裂け目」は、今日も変わった様子はありません。能波濃度も危険値を大きく下回っており、生活に支障をきたすことは無いでしょう』


 赤信号に足止めされて立ち止まっている間も、ニュースは耳から入って来る。一日の天気や気温の予報が終わると、次にはいつもこのニュースだ。


 三年前。東京西部のとある街に突如として出現し、溢れ出る膨大な能波によって東京の地図を書き換えるほどの災害を引き起こした、謎の『裂け目』。


 その正体は何なのか。特殊能力者の体内に流れているはずの能波がなぜそこから噴出したのか。二回目の災害は起こり得るのか。三年経った今も、判明している事は何ひとつとして無い。ただ空間そのものが裂けたとしか言いようが無く、皆が自然と『裂け目』と呼ぶようになった。


 今も『裂け目』からは能波が零れ続けているらしいが何かの影響を及ぼすほどでもない、というのが先ほどのニュース。もっとも、一度東京を破壊し尽くしてからはずっとこの調子なのだが。


「……本当に何なんだ、アレは」


 あの日、急に遠くに行きたくなり、まるで現実から逃げて転がり込むようにやって来た遠くの街で、俺はその災害に巻き込まれた。最悪な出来事だったはずなのに、どうしても嫌な記憶として切り捨てられない。その内自分が何を考えているのかすら分からなくなって来る。この事を考えているといつもこうだ。俺の中にある、『裂け目』に対するがそうさせているのだろうか。


「あーもう、別の事考えよう」


 頭を振って、勝手に走り続ける思考をリセットする。左手首に着けているリストバンド型のウェアラブルデバイス『スマートバンド』を起動すると、手首上の空間に小さなホログラムパネルが投影される。俺は浮かび上がる半透明のパネルを操作してニュース番組を閉じた。暴動だとか集団昏睡だとか、朝から物騒なニュースしか流れて来ないし。


「結局、何も聴かないのが一番集中できるのかもな」


 ワイヤレスイヤホンをポケットに押し込み、信号が青になった横断歩道を渡る。どこで起こってるかも分からない物騒な事件より、目の前に広がっている朝の空気を楽しもう。そう前向きに気持ちを切り替えて、さらに十五分ほど走った時だった。左手首のスマートバンドが僅かに振動し、メッセージの着信を知らせてくれた。


 道の脇に逸れてメッセージを確認する。差出人は彩月だった。

 今日は土曜日。いつもなら自主練習だけでグラウンドでの特訓は無いのだが、今日は違うのだろうか。そう思って開いたメッセージウィンドウには、意外な誘いの言葉が記されていた。





     *     *     *





 午前八時。場所は学園の敷地から出て少し歩いた、駅前にある小さなコンビニ。そこがメッセージに書かれていた集合場所だった。そしてその内容は、特訓のお知らせでは無かった。


「まさか、彩月に買い物に誘われるなんて」


 謎めいた彼女が休日は何をしているのだろうと考えた事はあるが、女子高校生らしく買い物もするらしい。今日は少し遠くの大きなショッピングモールに行きたいらしく、付き添いを頼まれたのだ。まあ、トレーニング中の男子なんて荷物持ちにはもってこいだろうな。


「……にしても遅いな、彩月」


 休日の駅前はいつにも増して人が多い。主に遊びに行くのであろう学生たちの姿が多く、その中にスーツ姿の大人がぼちぼちと混ざっている。中には能力者特有の色とりどりな髪色が目立っているが、俺が待っている白髪は見当たらない。

 彩月自身が指定した集合時刻からは、既に三十分ほどが過ぎた頃だ。気まぐれ屋な彼女のことだから、十分かニ十分ほどの遅刻はありえるだろうと思って待っていたが、さすがにこれだけ待っても来ないとなると、何かあったのかと心配してしまう。


 このままでは俺も、ただコンビニの前で三十分も突っ立っている不審者になりかねない。彩月には『何かあったのか?』と短くメッセージを送り、コンビニに入ってそれとなく商品を眺める作業に移ることにする。

 そしてややあって、返事が来た。とても短く簡素な一言。


『あたまいたい』


 送られてきたのはそれだけだった。


「頭、痛い……?」


 最初は目を疑った。そして次に、何かのなぞなぞかと頭を捻った。単純に体調不良であるという結論に至ったのはその後だった。

 思えば、学園では最強と称される彩月だが、特殊能力者だって不思議な力が使えるだけの人間。たまには頭痛に襲われる事だってあるに決まってる。


『大丈夫か?』

『いたい』

『頭痛を治す能力は無いのか?』

『わからないたぶんない』


 何か言語能力まで低下してないか……? 漢字変換されてないし、文字もまともに打てないほど衰弱してるのか?

 彩月に限ってそんな事があるのかと信じられない反面、あれだけ特異な能力を持つのだから副作用的な謎の症状があったっておかしくない、と飛躍した考えも出来てしまう。


「どうしたもんか……」


 とりあえず今日の買い物は中止になりそうだ。

 体にいいものを買って女子寮に届けようかと思い、コンビニをぐるりと一周する。だが何を買えばいいのか分からず手ぶらのまま外に出た、ちょうどその瞬間だった。


「おっ待たせー!」

「……っ!?」


 横からいきなり彩月が現れた。RPGなら先制攻撃されてるぐらいの不意打ちだ。


「さ、彩月お前、大丈夫なのか!?」

「あー頭痛? なんか治った。ごめんね心配かけて」


 両手を合わせて、彩月はあまりにもあっさりとそう言った。その様子は完全にいつもの彩月で、一分前までひらがなでしか会話が出来なかった人間にはとても思えない。そして衝撃で認識するのが遅れたが、休日仕様なのか今日は白いワンピースを着ている。ジャージを除くのであれば私服姿の彩月を見るのは初めてだ。


 彩月はこんな性格だが一応は女子な訳だし、服装の感想とか言った方がいいのだろうか。でも、それほど親密な間柄でも無いのにいきなり服について言及するのはちょっと気持ち悪いか……?

 こんな事で悩んでいる時点で俺の対人スキルはお察しである。そして、嵐のような少女がそれを待つはずも無い。


「それより早く行こうよ、買い物! 移動ちょっと長いんだしさ」

「それよりってお前……本当に治ったのか? 無理してるんなら休んでいいんだぞ」

「してないってー。こう見えても割とよくある事なんだから、そんな重病患者みたいな扱いしなくても」


 ケロッとした様子で笑い飛ばしているが、いつも通りすぎて逆に心配だ。本当についさっきまで、メッセージの文章からただならぬ様子を感じたのだが。よくある事と言ってるのだから、本人には慣れたものなのだろうか。


「ほらほら、私の頭はもう完璧だし、いつまでも立ってないで行こーよ!」


 いつの間にか彩月は俺の手を引っ張って、駅の方へ駆け出していった。歩かないと引きずり回されそうなので、俺も一旦思考を中断して足を動かした。

 彼女は言動はおろか、健康状態まで不思議の塊だ。

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