七回目の青木さん

あわき尊継

「おはよう」


 「おはよう」


 青木さんは教室の一番前、廊下側の席に居る。

 俺が朝学校に来るといつも席に着いていて、一人で静かに授業の開始を待っている。


 返事がこないまま教室内へ目をやると、クラスメイトの一人が手を振ってきた。


「あー、田崎ー、おはよー」

「おう、おはよう」


 挨拶は大切にしろ、そう爺ちゃんに言われて育った俺は、誰にだってちゃんと挨拶をする。

 家を出る時、返った時だって、誰も居なくてもとりあえず口にする。

 昔は大切なことだって思ってたけど、最近は深く考えないでとりあえずでしてる感じだ。習慣になると、むしろやらないでいると気持ちが悪い。返事をくれる人が大半だけど、たまに無視されることもある。人と話したくない人だっているだろうし、俺だって何かに集中していると声を掛けられると鬱陶しいって思うことがある。ゲーム中に勉強しろって言ってくる母さんとかな。一試合終えた後、勝ってスッキリしてる時に言ってくれれば、じゃあやるかって思えるのにさ。


 なんにせよ、挨拶は基本だ。

 俺の何倍も生きた爺ちゃんだって大切にしろって言うくらいだし、一応は相手の反応くらいは見ながら言うようにしている。

 嫌がっていれば、素直に止める。

 押し付けにならないようには、気を付けてるつもりだ。


 今日もクラスは騒がしく、昨日のドラマとかスポーツの試合の結果だとかを中央で話す人も居れば、後ろの方でアニメの感想を言い合っている人も居る。突っ伏して寝ている人、本を読んでる人、二人だけで話していたり、輪の傍らで相槌を打ちながら眠そうに欠伸をしている人も居た。半裸になっているのは、朝練上がりの運動部だろう。窓際に干してる服が汗臭いと女子から苦情を受けている。


 朝礼まで後十五分、どこに混ざろうかな、なんて考えつつ踏み出していった時、


「……おはよう」


 青木さんが返事をしてくれた。

 瞬きをしながら彼女を見るけれど、青木さんは顔を俯けてしまった。


 でも、ちょっとだけ見えている。


「おーい田崎ー、こっち来いよー」

「ん、おう」


 呼ばれたので今日はドラマの話題で盛り上がろう。

 そんなことを思いながら改めて俺は歩き出す。


 頭の中で、さっき見えた青木さんの横顔を思い浮かべる。


 なんか、可愛かったな、なんて思いながら。


    ※   ※   ※


 七回目の人生を私は生きる。

 青木 トモ香は六度死に、六度生き返ってはこの高校生活を送っている。


 そう言うと何十年も生きてきたみたいに聞こえるけど、ループの始まりである今日から私が生きていられるのは、冬休みの間までの半年くらいだ。


 最初は無理心中だった。

 父に逃げられた母が私を殺し、自分も死ぬと言っていた。

 私が死んだ後に母が本当に死んだのかは分からない。

 自分の血に溺れて死んだ私はいつもの席で目を覚まし、そうして、


「おはよう」


 田崎くんが挨拶をしてくる。


 返事はしなかった。

 あまりの衝撃と、母に殺されたショックと、生きている自分。状況が掴めなくて、吐き気がして教室から逃げ出した。


 二度目は事故死、だったと思う。


 なんとか持ち直した私は、両親が別れてしまわないように説得しようとした。

 けれど、教室で誰とも話せず、友達も居ない私は笑顔が作れない。中学の頃、笑っているつもりでいたら、馬鹿にしてるのかって怒られてから、どうすれば笑えるのか分からなくなった。

 笑わない娘が見透かしたみたいに未来を指摘して、分かったようなことを言えば大人だって腹が立つんだろう。


 怒った母に突き飛ばされた私は、机の角に頭をぶつけて死んだ。


「おはよう」


 田崎くんは相変わらず挨拶をしてくる。


「おはよう」


 次の日も、その次の日も。

 上手く返せなくて、黙り込んでいても、彼は構わず私に挨拶をする。

 ループ開始の前からそうだったと思い出したのは、三回目の時だ。


 おはよう。


 貴方に言葉を返せたら。

 たった一言が言えない私では、両親を説得なんて出来る筈もない。


「おはよう」


 三回目の死因は、多分、餓死だ。

 三回目、二度に渡って母に殺されたと思い込んだ私は、両親に関わるのが怖くなって、ずっと家で緊張して、顔を合わせないようにしていた。

 だから母も私を殺そうとはせず、父の居なくなった家から無言で出て行って、放置された私は冬の寒い部屋の中で死んだんだ。


 生きたくなかった。


 死んでしまいたかった。


 なのにループは私を生かす。

 死なせてくれない。

 死んだ筈なのに楽になれない。


 地獄のような日々で、毎日のように降りかかる挨拶が、まるで分かったような顔をして垂らされた蜘蛛の糸みたいに思えた。


 私は、あのお釈迦様の話が嫌いだ。

 助かりたい、って心の底から救いを求める人間がどうして他人を気遣えるだろうか。

 自分を当たり前に打ち捨てて誰かを救えるような、そんな特別な人間でなければ救われてはいけないって話に思える。


 大丈夫、その糸は切れないよ。


 たった一言、そう言ってあげれば良かったのに。


「おはよう」


 田崎くんは挨拶をする。

 毎日毎日、私が返事をしなくてもお構い無しに。


 けれどある時、彼は挨拶をしなくなった。


 最初はやっと分かったのかと満足していた。

 両親をどうにかしようだなんてとっくに思わなくなっていた私は、自分に纏わりつく最後の一つを払い落とせたと勝ち誇ってすらいた。


 人に関わるなんてうんざりだ。


 誰も居なくなった自宅でカップ麺を食べて、勉強をして、学校へ行く。

 田崎くんは無言で私の前を通り過ぎる。

 ちょっとだけ立ち止まったけれど、そっぽを向いているとまた歩き出す。


 四回目は、焼死だった。


 冬休みに入って、カップ麺を作る為に湯を沸かしていたのを忘れて、こたつで寝てしまっていた。

 目が覚めた時にはキッチンは火の海で、私は慌ててベランダへ逃げたけれど、冬用に広げていた絨毯やコタツ布団があっという間に火を広げてしまって逃げ場を失った。


 どうしてこんな目に合わなくちゃいけないの。

 私が何をしたっていうの。


 何もしなかった。


 何もしたくなかった。


 母に殺され、突き飛ばされ、捨てられて、死ぬのが痛くて苦しくて辛かったから、なんとか生きようって、それだけなのに。


 煙に包まれて、息も出来ず、目が痛くて涙が溢れた。

 助けて。

 助けて、誰か。


「おはよう」


 懐かしい声に、胸が痛くなって、涙が溢れた。

 喉が震えてしまって、また返事は出来なかった。


    ※   ※   ※


 返事をしよう。

 そう決めてから二週間、私は何も言えず机にしがみ付いていた。


 相変わらずクラスで私に声を掛けてくる人は居ない。

 私の目は釣り上がっていて、母に似てキツい表情をしている。

 中学の時に笑っているつもりでいた私は、相手を馬鹿にしているような、蔑むような顔をしていたそうだ。

 鏡の前で何度も練習した。

 ネットで笑い方を検索してみたり、お笑い芸人の動画を見てみたり、可愛い動物の写真を見て気持ちを和らげる、なんてことも試してみた。


「おはよう」


 だけど、田崎くんが私に挨拶をすると、身体が固くなって、頭が真っ白になってしまう。

 一度その時の自分を鏡で見てみたけれど、我ながら怒っているようにしか見えなくて、家に帰ってから大いにへこんだ。


 上手くできたら。


 上手く笑えたら、田崎くんに返事をしよう。


 五回目、私は母に殺された。

 無理心中だった。


    ※   ※   ※


 五回も死ぬと、死ぬのがどうでもよくなってくる。


 いや、死ぬのは痛い。

 苦しいし、辛いし、あんなのは嫌だって思う。

 死ぬのは、気が狂いそうなほど嫌だ。


 だけど一方で、どうせ今回も死ぬんだって思う。


 死んでもまたループして、私はいつか自分が完全に狂ってしまうまでこの苦しみを続けるんだって諦観が強くなる。

 もしかしたら、狂って死んでも、ループの始めに正気に戻ってしまうのかも知れないけれど。


 笑う練習も止めてしまった。


 返事をしたからって何だ。


 どうせ上手く行かない。


 笑えたって、私は冬休みに死んでしまう。

 ループして、全部が元通り。

 永遠に死を待つだけの時間が来る。


 学校にも行かなくなり、部屋に閉じこもってしまうと、両親の破綻は加速する。

 すぐに父が居なくなって、母も出て行って、家が静かになる。


 幸いにもお金を置いて行ってくれるから、しばらくは暮らしていける。


 寝て、起きて、食べて、また寝て。


 死ぬのが辛いから、とりあえず生きている。


 火の扱いには気を付けた。

 湯を沸かしてる間は絶対にキッチンから離れない。

 燃え易そうなものは別室へ放り込んで、バケツに溜めた水をいつもベランダに置いてある。

 焼け死ぬのは、特に苦しかったから。


 湯が沸いたので火を消して、カップ麺に注ぎ込もうとした時、チャイムが鳴った。


 通販で買った食糧が届いたのかもしれない。

 そんな風に思って、確認もしないで扉を開けた。


「おはよう」


 田崎くんが立っていた。


    ※   ※   ※


 なんでか彼は部屋へ上がりこんできた

 いや、私がどうぞと言ったのかも知れない。

 とにかく頭が真っ白で、彼がぶるぶる震えていたのだけは覚えている。


「冬休みの宿題さ、先生に届けてくれって頼まれたんだよ」


 いつの間にか二学期が終わっていたらしい。

 日にちは確認していたけど、終業式がいつだったかは覚えていない。


「う~っ、にしても寒いよなぁ! 昨日はもうちょっとマシだったから薄着にしてたんだけど、油断したぁ……っ」


 コタツに入ってぶるぶる震えている田崎くんへ、私は無言でお茶を差し出した。


 そういえば私、返事ってしたっけ?


 招き入れた時のことも曖昧だから分かる筈もなかった。

 ましてや、田崎くんに確認するなんて出来ない。


「ありがとう! ずずっ、うぃ~人情が心に沁みるのお」


 これはボケているんだろうか。

 私はツッコミというのを入れるべきなんだろうか。


 とりあえずもう一つの湯のみを反対側へ置いて、私も寒いのでコタツへ入った。


 ずずずずず、とお茶を飲む。


「ぷっ、ははははは!」


 田崎くんが突然笑い出したので私は混乱した。


「なんか青木さん、お婆ちゃんみたいだよっ」


 失礼な。


 つい睨んでしまったけれど、田崎くんはおどけた表情をするだけだ。

 咄嗟に湯のみを持って、彼が見ているのに気付いて、音が出ないように飲む。ちょっとやけどした。やっぱりお茶はずずずと飲むべきなんだ。


 湯のみを降ろすと愉しげにこちらを見ていたのが腹立たしくて、コタツへ打ち付けるようにして置いてしまった。


「はぁ~、茶はいいのぉ」


 田崎くんは爺くさい。


「あ、そだ。青木さんって宿題進んでる? あ」


 自分で言い出して、自分で気付く。

 私の宿題は今日届けられたばかりだから、進んでいる筈も無い。


 というか、改めて調べてみたら終業式は五日も前だった。

 届けるように頼まれたって話だったけれど、田崎くんは結構ズボラなのかもしれない。


「青木さん家っていいなぁ。広いし、テレビでかいし」


 この殺風景で空っぽの家のどこがいいんだろうか。


「俺の家ってさ、狭いし、兄弟多いからテレビのチャンネルなんていっつも取り合いなんだ。一応上から二番目だから、いっつも母さんが我慢しろ我慢しろって。ゲームだって弟の希望が優先だし、スイッチなんて共有だけど、アイツすぐ壊すからさー」


 田崎くんの家は、お鍋みたいだと思った。

 いろんな具材が詰まってて、ぽかぽかして温かく、賑やかで楽しそう。


 私の家は、水だけ入った空っぽのお鍋かな。


 昆布くらいは浮いてるかも。

 ぷかぷかと、意味も無く、一つだけ寂しく浮いている。


 だけど今日、この家には田崎くんが居た。


 私は一言も喋らないのに、彼は次々と話題を持ち出して好き勝手に喋る。

 たまにこっちの様子を伺うようにするから、どうしたらいいのか分からなくて、表情が固くなる。

 前のループで散々練習したから分かるけど、きっとそうなった私の表情はキツくて、睨んでるように見えただろう。


 なのに田崎くんは話を続けた。


 あまつさえ時間になったからって、私の家でサッカーの試合を見始めた。

 大画面だから迫力が凄い、なんて言いながら彼は贔屓のチームを応援していた。

 私は、ルールも良く分からないサッカーに興味は持てなかったけれど、田崎くんが楽しそうにしているのを見るのはなんだか楽しかった。

 二人分のカップ麺を用意してずるずる啜った後、彼は呆気無く帰って行ってしまった。


「青木さんって結構面白いよなっ。もっと早く話せてたら良かったよ。三学期んなったら学校来いよ? 俺、青木さんって面白い奴だって言いふらしとくからさ!」


 最後にそんなことを言っていたけど私に三学期は訪れない。

 今日で冬休み五日目。

 私はきっと、六日目の夜までには死んでしまう。

 元旦には少しだけ届かない、私の人生。


 その晩、私はトイレで血を吐いた。


 もしかして、とふらつきながら私はキッチンに行って、買い置きされていたカップ麺を調べた。

 数は多くなかったけれど、幾つか針で刺したような跡があって、痙攣の治まらないまま寝転んで私は笑った。


 捨てて行った癖に、母か、もしかすると父は、私が生きるのをどうしても邪魔したかったらしい。


 それから気付いた。

 田崎くんもカップ麺を食べていた。


 ゴミを調べようとしたけれど、キッチンを出た所に電話があるのに気付いて這い寄る。


 肺が痙攣して息が苦しい。

 お腹の奥が握り潰されたように痛んで、指先が震えっ放しだ。

 どうにか学校の連絡網を探し当て、彼の自宅へ電話を掛けた。


「はい」


 田崎くんは、無事だった。


「どちらさまですか?」


 尋ねる声の後ろで、兄弟だろう誰かが騒いでいて、彼は一度静かにするように怒鳴った。

 そんな声も出すんだと、変な所で嬉しくなった。


 良かった。


 巻き添えにして死なせてしまう所だった。

 この幸せそうな家族を壊さずに済んだ。


 田崎くん。


「ん……もしかして、青木さん?」


 不意に名前を呼ばれて驚いた。

 家に居た時もずっと無言だったからかもしれない。


 お腹が痛んで、息が漏れる。


 咄嗟に受話器のマイクを塞いだけれど、少しだけ聞こえてしまったんだろう。


「泣いてるの?」


 優しい声だった。

 しばらく無言で居ると、彼は問い掛けを無かったことのように別の話題を持ち出してきた。

 二学期にあった文化祭の様子とか、最近ハマっているゲームの事とか、先生のオモシロ失敗話だとか。


 痺れが首にまで達し、手足の感覚が無くなっても、私は田崎くんの話を聞いていた。


 どんどんと声が遠くなる。


 もう少し、もう少しだけ、聞いていたい。


 私ね、貴方に答えたくて、笑顔の練習をしたんだよ。


 昔から上手く笑えなくて、お父さんも、お母さんに似てキツい表情の私を見るのが嫌だったんだと思う。お母さんはきっと、私と同じで不器用なんだ。上手く言葉を伝えることが出来なくて、お父さんが求めるような笑顔が作れなくて、悔しくて、自分と同じような娘を見るのが辛かったのかも知れないんだ。

 私が笑えていれば、もしかしたら、二人の関係は壊れなかったかも知れない。

 カップ麺に毒を仕込んだのは、やっぱりお母さんかな。

 自分そっくりの私がこの先も生き続けたって、苦しいだけだって知っていたから。

 だから、苦しみを終わらせる為に、殺してくれたのかもね。


 ごめん。

 ごめんね、こんな話しか私は出来ないから。

 人の輪を飛び回って、皆を笑わせることの出来る田崎くんみたいにはなれないよね。


 貴方が羨ましかった。

 貴方が恨めしかった。

 貴方が怖かった。

 貴方が――――。


「なあ、青木さん…………返事、してくれないかな」


 何故か緊張した様子で田崎くんが言った。


「俺、鬱陶しくないかな? 前にしつこく挨拶してくんなって、言われたことあってさ、気を付けてるんだけど、青木さん嫌がってる感じはしなかったから……だけど、やっぱ鬱陶しかったかなって。あー悪いっ、だってちょっとネガティブ入っちゃうってっ。今日話せて良かったってのは本当だよ? だけどさ、挨拶する時って、やっぱ少し、期待するからさ。返事貰えないとへこむし、貰えると嬉しいんだって。だからさ」


 受話器を強く握り込む。

 絶対に音が漏れ入らない様に。


 もう目は見えなくなっていた。

 耳だけが、不思議と彼の声を拾っている。


 息が苦しい。苦しい。苦しいよ。


「返事、してくれよ」


 そこで私は六回目の死を迎えた。


    ※   ※   ※


 七回目の私は彼を待つ。

 教室の一番前、廊下側の席で、一人ぽつんと座って。


 実はいつも、物凄く早く登校している。


 家に居るのが嫌で、昔からそうだった。


 誰よりも早く教室について、誰とも話さず、じっと自分が居ていい場所に居る。


 でも、もうじき彼が来る。


 彼は返事が欲しかったのだという。

 いつも何気無くくれていた挨拶に、彼なりの不安や期待があるのだという。

 知らなかった。

 知ろうともしていなかった。

 返事もしないで私が逃げていた時、彼はどんな気持ちで居たのだろう。


 弾んだ足音が近付いてくる。

 いつものように、誰かを笑わせるネタを携えて、もう少しで扉を開けるだろう。


 教室は騒がしくて、誰かの笑い声が響いている。

 宿題を忘れたという人がノートを見せてくれと頼みまわっている。私のように時間を潰すしかない人は机につっぷして孤独を誤魔化し、後ろの席で女子二人が中央を独占するグループの陰口を叩く。シャツを脱ぎだした男子に気の強い女子が文句を言って、言い訳が始まっていた。スポーツの話が聞こえて、少しだけ気になった。


 時計の針が進む。


 扉が開いた。


「おはよう」


 田崎くんは、今日も私に挨拶をする。


    ※   ※   ※


 最近、青木さんと話をするのが楽しい。

 キッカケは、初めて返事をしてくれた時だ。

 恥ずかしそうに顔を俯けた横顔が可愛くて、一日中頭から離れなかった。

 次の日も挨拶をすると、彼女は他の女子が言う、ちょっとキツそうな表情で返事をしてくれた。

 確かに怖そうな印象もあったけど、あの恥ずかしそうな横顔を思い浮かべると、なんだかとても綺麗に思えてじっと見ていたら、また少し表情が固くなって顔を背けられた。


 毎日、朝会うと挨拶をする。


 青木さんは返事をしてくれる。


 そこでふと、彼女がどのくらいの時間に来ているのか気になった。

 だって青木さんは俺が登校してくると絶対に席で座っている。

 俺が早かった日も、遅かった日も、青木さんはいつも居る。


 最初はオモシロ半分。

 挨拶を返してくれたことでチョーシに乗ったのもある。

 彼女の席に座って待っていたら、どんな表情になるだろう。

 青木さんの別の表情を見てみたかった。


 だけど俺なりに早起きして登校してみたら、青木さんは普通に席に付いていた。


「おはよう」

「……おはよう」


 既に数名クラスメイトが来ていたから、悔しい気持ちを堪えて絡みに行った。


 翌日、いっそこのくらいならと一時間も早く登校してみた。

 青木さんは席に付いていた。


「………………………………おはよう」

「……おはよう」


「…………はやくない?」


 顔を背けられた。


 なんだか負けた気分で十分くらい机の前でふくれっ面をしていたら、青木さんはちらりとこちらを見て、慌てたみたいに顔を背けて、それから俺を睨んできた。


「ぷっ、ははははは!」


 その日から俺は一時間早く登校するようになった。

 朝練の運動部も来ないような早朝で、俺は青木さんと話をする。

 青木さんは殆ど喋らないけど、俺が何かを聞いたりすると、固い表情で返事をしてくれる。

 挨拶と同じように、会話っていうのは返事があると嬉しい。

 押し付けになってしまうこともあるけど、楽しいことだって俺は思う。


 毎日、毎日、青木さんと話をした。


 そしてある日言った。


「俺、青木さんのこと、好きだ」


 彼女は返事をしてくれた。


    ※   ※   ※


 寒い境内で震えながらスマホを確認すると、十分も前にメッセージが入っていた。


「やべー」


 返事を打とうとするけど、手袋のままでは上手く入力出来ず、仕方なく外していると提灯の照らす参道を踏んで歩いてくる姿を発見した。

 地味なパーカー姿、つり目がちで凛々しい表情の、青木さん。


 と、


「おー田崎くん。待たせたね」

「田崎くん、寒くない? カイロあるから使ってね」


「ありがとうございます。おじさん、おばさん」


 車に乗ってきたからだろう、青木さんの両親はまだ寒さに震えておらず、鼻の頭も赤くない。

 俺はおばさんから貰ったカイロで手を温めつつ、おじさんへ寄っていった。


「ねえねえ、新作は? 俺のお年玉は完成した?」


 目上の人に対する言葉遣いとしては砕け過ぎだけど、おじさんは気にした様子もなく。


「後は塗装だけだな。型を作るのに手間取ったけど、今回は結構自信作だぞ」

「おーっ、楽しみ! 俺のカメッ○スっ、これでマイベストメンバーが勢ぞろいだぜ!」

「ははは。今度はどうするかな、伝説系のは大体作ったし、初期三種をシリーズごとに作っていくのも」

「俺っダイヤモンドパールが最初なんで!」

「いやいやここは初代に敬意を表してだな」


 盛り上がる俺達を余所に、おばさんは少々呆れた様子で息を落とす。

 だって仕方ないでしょ。

 おじさんが趣味で作ってるミニチュアって本当に出来が良くって、作ってるの見てるだけでも楽しいんだ。


「あーそうだ、おばさん。母さんからブルーレイ預かってるよ。今度も古い映画らしいけど、本当に大丈夫?」

「あらぁ、いいのかしら気を使って貰っちゃって。大丈夫、おばさんもあの時代の映画が好きなのよ」

「今度リバイバル上映あるから劇場でも見たいって言ってるけど」

「行く行く! 大画面でテツヤの若かりし頃を見るなんて最高じゃないっ」


 渡したパッケージを嬉しそうに眺め、おばさんがおじさんを呼ぶ。

 どうにも昔二人で見た作品らしくって、当時の事を思い返して語るおばさんに、おじさんは少しだけ困った顔をしながら頷きを返す。


 仲の良さそうな二人を横目に、俺はこっそり青木さんに近寄った。


 耳元へ顔を寄せると、いつものように表情を固くするけれど、


「ねえねえ、なんで和服じゃないの? 見たかったのに」


「だ、だって晴れ着は初詣の時に着るものだし。除夜の鐘は別だし……」


「そうなんだ。じゃあ、初詣の時は見せてくれるの?」


 目尻をキッと釣り上げて、青木さんは頬を赤らめる。


「……お母さんに頼んでみる」

「やったっ」


 これで明日もデートが出来る。

 除夜の鐘にばっかり意識が向いてて、初詣のことを忘れたんだ。

 いや待て、明日いきなり和服着たいって言って、用意出来るもんなのか?


「おばさん」

「大丈夫よ。いつも嫌がるけど、用意だけはしてあるんだから」

「さっすが!」


 くるっと向きを変え。


「おじさん!」

「分かった。車は出してやる」

「やりい!」


 頼みごとをすんなり聞いてくれる両親ってすんごく羨ましい。

 ウチじゃあ我慢しろって煩いし、今日だって危うく弟達の世話をさせられる所だったんだ。

 一つ下の妹に事情を説明したら全力で協力してくれるって言うから甘えたけど、初詣終わったらしばらく世話係かな。


 なんて考えていたら、ちょっとだけ冷たい手が俺の手に触れた。

 視線を反対の方向へ向けながら握り返す。

 きゅっ、と握り返される感触で胸がツンとした。


「田崎くん」

「……ん?」


 青木さんは眩しそうに両親を見詰めながら、どこか迷うような、悲しい何かを思い浮かべるようにして、それから、


「ありがとう」


 振り払うようにして、やわらかく微笑んだ。


    ※   ※   ※


 長い冬が終わり、春が来て、また季節は巡って、あの日の記憶は埋もれていく。


 私は夢を見ていたのだろうか。

 あるいは、思い悩み過ぎて、変な妄想に取り付かれていたのか。


 田崎くんから告白されて、ううん、彼の挨拶に返事を返した日から、奇跡のような日々は始まった。


「いってきます」


 家を出る時、声を掛けるようになった。


「ただいま」


 家に帰ると、声を掛けるようになった。


 共働きの両親だったから、居ない時もあったけれど、そんなことを重ねていたある日、


「いってらっしゃい」


 父が見送りをしてくれた。


「おかえりなさい」


 母が出迎えてくれた。


 どちらも浮かない顔をしていて、余所余所しいままだったけれど、静まり返っていた家の中でその瞬間だけは言葉が生まれていた。

 相変わらず会話らしい会話は無い。

 私も挨拶は出来るけれど、田崎くんのように次々と話題を繰り出して話し続けるなんて出来なかったから。


 それでも、これまでのループなら居なくなっている時期になっても、父はまだ、家に居てくれた。


「へーっ、おじさんミニチュアなんて作れるんだっ、すげー!」


 やがて、田崎くんがウチへ遊びに来るようになって、状況は激変していった。


「あっ、この映画ウチの母さんも見てたよ! テツヤファンなんだ!」


 彼は相変わらずよく喋って、よく笑う。

 最初は余所余所しく、あしらうようにしていた父も母も、徐々に押しの強さに負けて話をするようになり、気付けば当たり前に笑顔を浮かべていた。


 母は私を殺した。

 父は私を捨てた。


 その記憶は簡単に拭い去れるものではなかったけれど、田崎くんと楽しそうに話す二人を見ている内に、ふっと納得出来てしまった。


 私も彼に救われたから。

 彼のくれた、ささやかで、とても大切な言葉があったから、私はこうして生きている。


 あれから何年も経ったけれど、あの日に戻ることは無かった。


 死んだことはないから、いずれ老衰とかで死んだら、戻ってしまうのかな。

 それはないかと、当たり前に思った。

 何故だろう。

 虫の知らせみたいなものかも知れない。


 だって分かるから。


 ほら、もうじき扉を開けて帰ってくる。


 弾んだ足音と共に、息を切らせて。


「ひゅーっ、腹減ったー! 母さんごはーん!」


「こらっ」


 腰に手を当て、目尻を釣り上げて私は言う。


「いつも言ってるでしょ! ちゃんと挨拶しなさい! 大事なことなんだから!」


「うわっ、鬼ババアだ! ねえ父さんっ、母さんが鬼になってるー」


 トイレから出てきた旦那に息子が飛びつき盾にする。

 旦那は、へらっとだらしない笑みを浮かべて、


「怒ってる母さんは可愛いなぁ」

「ちょっ、と……何言ってるのよっ」


「ひゅーひゅー!」


「こぉら! ただいま言わないとご飯抜きだからね! 待ちなさい!」


「た だ い ま !! はいっ、これでいいでしょ!」


 全く、と鼻息を荒くしていると新聞を小脇に抱えた旦那が寄ってきて、


「お母さん、返事は?」


 睨むと彼はおどけて両手を挙げる。

 ウインクまでして「可愛いよ」なんて言ってくるからまた顔が熱くなってきた。


 歳を考えなさい歳を!


「母さん返事はー?」


 柱の影からにやにや笑ってこちらを見てくる息子が居る。

 全く誰に似たんだか。


 それでも、と私は言った。


「おかえりなさい」


 大切な言葉。

 何気無い、日々に埋もれてしまいそうなくらいささやかな交流。


 今日も、明日も、そっと積み重ねていく。


 きっとそれだけで救われる命もあるのだろう。





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