第93話 憶エル

「では、あなたは知っているというのですね。牛の首と呼ばれる怪談のことを」


「……ああ」


 自分の問いに対し、眼鏡をかけた老人は厳かに答えた。


「教えてください。あまりの恐ろしさに、誰も内容を語りたがらなかったという、伝説の怪談を」


「……あなたは、勘違いをしているようだな」


「勘違い?」


「牛の首、というのはね。いわば、そういった概念に過ぎんのだよ。あまりに恐ろしい、という概念にね」


「そんなことを言って、はぐらかす気ですか。その手には乗りませんよ。私はあなたが、あなただけが牛の首の内容を知っていると長年の調査の末にようやく聞きつけたのです。いいですか。私にとって、牛の首の内容を知るというのは道楽ではないんだ。怪談という文化を研究する者として当然の責務なんです。どうか、教えてください」


 すると、老人は深いため息をつき、


「……そこまで言うなら、片鱗だけお見せしよう」


「片鱗?」


「ああ。片鱗というより、序文と言った方がいいのかもしれんがね」


 そう言うと、老人は唇を舐め、


「——―……えっ?」


 気が付くと、私は脂汗にまみれていた。


「やあ、気が付いたか」


 老人が、遠い目をしながら語りかける。

 何か、妙だ。

 まるで、意識が飛んでいて、たった今戻って来たかのような……。


「……今のは?」


「これが、牛の首だよ」


「これが?」


「ああ。君は人間の脳に、安全装置のようなものが備えられているのを知っているかね?あまりに危険な情報は、すぐに削除してしまうか、別の情報に置き換えてしまうという、言ってみれば、脳の神秘のようなものだが……」


「ま、まさか……」


「ああ。牛の首というのはね。そのあまりの恐ろしさに、脳が理解することを拒否してしまうのだ。だから、君は私が牛の首の序盤を語らっている時、意識を失っていたのだよ」


「そ、そんなことが……。ま、待ってください。だったら、あなたはどうして……」


「私はね、許されているんだよ。牛の首から、認知されることをね。それが、どういう理由なのかは分からないが……思うに、牛の首は、ひっそりと存在していたいのだよ。そういう怪異として」


「な……。それではまるで、牛の首という怪談自体が、妖怪のようではないですか。人間の脳に住まう……」


「私が死ねば、君が牛の首に、次なる保有者として魅入られるかもしれんな。どうだね?その覚悟はあるか?」


 老人の問いに、私はとうとう答えることができなかった。

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