第88話 凌グ

「……手ヲ寄越セ」


「今、使っています」


「……足ヲ寄越セ」


「今、必要です」


「……ソノ話、誰カラ聞イタ?」


「仮は仮面のカ、死は死人のシ、魔は悪魔のマ」


 それっきり、御札で覆われた箱の中から声は聴こえなくなった。


「おら、こういうことだ。これが返答の例文のメモ。聴こえてきたら、さっきみたいに返事をしろ。死にたくなけりゃ、なるべく寝るんじゃねえぞ」


 それだけ言うと、スーツ姿の男は俺に背中を向けて、去ろうとした。


「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。置いていかないでくださいよっ。意味が分かりませんっ」


「ああ?ちゃんと説明しただろうが。その箱の中から声がしたら、さっきみたいに返事をすりゃあいいんだ」


「で、でも、いつまで……」


「お前、いくらだ?」


「え?」


「借金だよ。いくら焦げ付かせて、ここに運ばれてきた?」


「……な、七百万です」


「七百か。じゃあ、ざっと半年ってとこだな」


「……は?」


「じゃあな、頑張れよ。飯は日に二回、係の奴が持ってくる。ああ、それと、もし失敗したら、そのメモに書いてある名前のどれかひとつを言え。お前の後任者候補の名前をな」


 そう言い残すと、男は部屋から出て行った。ガチャリと、外から鍵を掛けられる音がする。

 ……半年?

 まさか―――、


「……手ヲ寄越セ」


「……っ!」


 咄嗟に、メモを見遣り、


「い、今、使っています」


「……足ヲ寄越セ」


「今、必要ですっ」


「……ソノ話、誰カラ聞イタ?」


「か、仮は仮面のカ、死は死人のシ、魔は悪魔のマ……」


 箱との会話が終わり、沈黙が訪れる。

 まさか、俺は半年間も、ずっと、この窓の無い牢獄のような部屋で、この箱と会話しつつ、過ごさなければならないというのか?

 そして、失敗したら、後任者候補の名前を言う……?

 ふと、下を見た。

 コンクリートの床には、そこかしこに赤茶色の染みがこびり付いていた。


「……手ヲ寄越セ」

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