第5話 子供の家

病院を退院した私が次に生活することになったのは子供の家という名の児童養護施設でした。ここは病院ではないので気狂いはいないはずですが、病院と同じくらい煩くてよくわからない子供もいましたし、居心地の悪い所でした。

一番堪えたのは食事の時間です。病院ではある程度食べなかったとしても薬さえしっかり飲んでいれば咎められませんでした。

しかしここでは完食することを強制されていたので私はいつも食堂に最後まで居座り、食べたくもない肉やら魚やらを喉に詰め込まなければなりませんでした。

初対面の時、前田と名乗った職員の女性は私の付き添い役として私が全てを食べ終えるまでいつも隣に座っています。基本何をするにも前田がいます。私は前田のことを前ちゃんと呼んでいます。そう呼べと言われたからです。

「前ちゃん。僕はいつになったらここを対処できるかなぁ」

「そうだねぇ。もぉう少し大きくなったらかなぁ」

いつもこう返してきます。

「僕前ちゃんと結婚したいな」

「はやくここを出て前ちゃんみたいなお嫁さんと暮らしたいよ」

こう言って私は前ちゃんに助けを求めていたのです。ここを出て好きなものを食べられる自由を得たかったのです。

しかし、そんな思いは暫くの間は叶わず、私は数年間子供の家で過ごすことになりました。

ここでは私みたく親を殺した子供はいないものの、私と同じように親からサンドバッグ扱いされてきた子供や、サンドバッグどころか存在を気付かれない透明人間として扱われた子供、また一緒に心中を強制されそうになった子供やらどこかしら普通では無い、私と似た家庭を経験してきた子供がいたため、一人だけですが同志もできました。

ニカという男子に私は最初話しかけました。ニカは私より後から入所した子供で、入所してきた際は長髪だったので女子と間違えるほど、どこかやわらかく、可憐な空気を持つ人間でした。

ニカは、いわゆる透明人間として扱われてきたタイプで、髪も服も身体もおんなじ様に異臭と汚れが目鼻につきました。すぐに職員たちに髪の毛を切られ、風呂に入れられてさっぱりしていましたが、表情はちっとも変わらず、施設のロビー近くにあるソファで人形のようにおとなしく座っています。私はじっとニカを見つめて近づいていきました。

「君、新人さんだね。よろしく。名前なんて言うの?」

「ニカ」

「へぇ、なんか外国の人の名前みたいでカッコ良いね」

「うん」

「だって自分でつけた名前だから。ニカっていう主人公の本知らない?」

それが最初のニカとの会話でした。

ニカは本が好きでした。

私は今ではそれこそ本の虫だと自負している程ですが、当時は本というものに全く触れたことがなく、ニカという主人公が出てくる本など当然知りません。

「どんな本なの?」

と聞くとニカは隣に置いてあったボロボロのビニール袋からそおっと分厚い本を取り出しました。

「これ。」その本は大変汚れていてかなり読み込まれているようでした。

「読んでみる?」私を見上げたニカの目はまるで私を試すかの様な目でした。自分に近づくかい?自分を知るかい?と心が語りかけていました。

「ありがとう。」私もそおっと受け取り大切に持ちました。


 ニカが貸してくれたその本はニカという人物の哲学小説の様なものでした。とても感銘を受けましたし、ニカという名前を自分につけたニカのことを私はとても好きになりました。

今の自分があるのはニカが私に本を、教えてくれ、数多の本から新たな知識を入れるきっかけを与えてくれたからなのです。

「てことはニカ、君も僕と一緒で肉は美味しくないのかい?」本の主人公と同じでニカも肉食はしないのか気になりました。

「美味しくないんじゃなくてとてもじゃないけど食べられないんだよ」

「僕も舌以外はとてもじゃないけど食べられないんだ。」

「舌?」

「親が焼肉好きだったんだよ

まぁタンだけは不味いけどまだマシだったってだけだけど。

ま、今はもう死んじゃったから僕はこうして孤児としてここにいるんだけど。」

「ニカは?」

「ぼくも同じ感じだけど。」

「親は生きてるよ」

「じゃあいつか迎えにきたりするんだ。」

「どうかなぁ。」

「僕はこの世界に生まれてきてしまったんだよ、親は全然望んで産んだわけじゃないみたいでさ。僕は存在しないって思われてたからなぁ。」

「馬鹿な奴ほど何も考えずにつがっちゃうんだもんね。大総統ニカによるとねっ!」ふざけた真似で小説のセリフを言ったのですがアハハっとニカは受けてくれました。

 キーキー声を出しながら気狂いのように暴飲暴食をする元気いっぱいの子供たちとは違って私とニカは食べることが苦痛で仕方なく、かなり浮いた、薄気味悪い子供だったに違いありません。食堂にはニカも一緒に最後まで居座り、二人の職員に無理矢理食べさせられ、そのあとやっと図書部屋に行けるのでした。

ニカも私も貪欲に本を読み続けました。それしか暇つぶしするものがなかったからです。読んで読んで読みまくりました。

 月日は流れ、義務教育を受ける時期になっても二人は同じ学校に通い、同じように孤立を貫き、もう子供の家の図書部屋では飽き足らず、市立図書館を利用するようになりました。

学校での生活は正直ほとんど記憶にありません。まるで白昼夢をみているかのような感覚にズーッと陥るのです。ただただ凹にも凸にもならず、空気としてそこに存在していました。

新しいインスピレーションを私に与えてくれる存在はニカだけでした。

ニカが十八歳、私が十七歳になると子供の家から退所を求められました。

就職斡旋の張り紙には常に人手不足で入れ替わりの激しいだろうと思う求人ばかりで、全く働きたいと思うようなものはありませんでした。

全くもっと恵まれた家庭に生まれたらどんなに良かったことか!

この時期は特に、何度も怒りが込み上げてきました。

「ニカー。僕金持ちの家に生まれたかったなぁ」

「あまりにも理不尽だよこの世の中はさ。金持ちの子供は親の脛をまだ齧りに齧って華やかな幸せを満喫しているんだよ。僕たちが生死をかけて働かなくちゃならない今頃ね」

「アハハっ」「ハハっ」とニカは惚れ惚れするような笑顔で痛快にわらいました。

「まぁさ。たしかに今はぼくたち最底辺の人間かもしれないけれど、僕はいつかそんな奴らを木っ端微塵にしてやりたいっていう復讐心があるんだよ。不公平なこの世の中にいつか怒りを示せるくらい強い権力が欲しい。今は塵とおんなじで僕らには目を向ける人間なんていないだろ?

この歳になっても夢を見ていられるぬくぬく育った人間どもを縮み上がらせてみたいなぁって夢見てるよぼくっ!」ククッと今度は不敵な笑みでわたしを見上げたニカの眼は二度と忘れることができません。それを夢みていたからこそ今まで生きてこれたんだという生命力が漲る眼なんです。

 恍惚でした。


就職は一つ上のニカが先に決まりました。ニカは衣食住が無料で賄ってもらえるという理由から定番の軍隊に就職して、私とニカはそこで、会って以来初めて距離を置くことになりました。

わたしはといえば、どうしてもどこにも就職する気が起きず、と言うよりかは最低の手段によって生きようとしたのです。

私は前ちゃんの紐になろうと思ったのです。というより私はずっと前ちゃんをうまく丸め込めば養ってもらえるだろうという算段がありました。前ちゃんは絶対的に私を好んでいたのを実感したからです。

私は十八前ちゃんは三十四。

それでも街の人から見れば仲睦まじいカップルに見えたことでしょう。

ニカほどの美貌はないものの、私は外見には大変恵まれていると自覚していました。

前ちゃんはきっと私が幼少期の頃に初めて会った時からわたしが成長したらこのような関係になることを望んでいたようです。いやわたしがそうさせたのかも知れません。

わたしには前ちゃんは生きる術。

それだけの存在でした。

 汚いとは思いますがそれがわたしなりの処世術でした。

「行ってくるねワンチャン。」

そう言って前ちゃんは私をきつく抱きしめてからいつも子供の家に出勤して行きます。

ええ。ワンチャンです。私のことです。

ワンチャンのように私は従順な僕であり続けようと思いました。

正直どうして私はニカと同じように軍隊に就職しなかったのだろうと後悔もしました。でもなにかが拒んでいたのです。というより、ニカがわたしを拒んでいたと言った方が的確なような気がします。

何故ならニカは軍隊に就職してすぐ自殺したからです。

前ちゃんが教えてくれました。

それだけです。

ニカは死んだんです。

それだけです。


 

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