第2話 スーサイド

母が亡くなったのはその日から一三日後だった。私はドラッグストアのバイトをクビにされ、母は相変わらず引きこもったままだったが、その日は、明らかに躁状態だと分かるテンションで、突然「にいに」に会いに行ってくると言い、家を出たのである。「にいに」というのは、私が生まれてすぐの頃、母が自殺しようとした時に止めてくれた、母にとっては命の恩人で、元ヤクザの男らしい。私はその男を母のドレッサーに飾ってある写真でしか見たことがない。

母によると、「にいに」は女に人気なので、片思いらしいのだが、「ねえ、にいにと結婚したい。いい?」と目を輝かせながら、私に語りかけてくることもよくあった。

果たして母は、にいにと会った後に飛び降りたのか、会う前に飛び降りたのかは私は分からず終いである。

 母がいなくなり、一人になった私を心配して父と祖母が家に来たが、何年も会っていない親戚は他人同然だったので、酷く気まずい空気に耐えられなかった。相手も同じらしく、結局励ましの言葉を少しと、お金を置いて、逃げるようにして帰って行った。

 私の生活は、母がいなくなったこと以外は特に何も変わりはしなかった。お金は父が定期的に振り込んでくれたし、食品や、生活用品はたまに祖母が宅急便で送ってくれたので、しばらくは新しいバイトも探さず、家からも出ず、本当に何もしないで過ごす日々が続いた。この父と祖母からのありがたい支援はいつ途絶えてもおかしくはなかったのに。

 ある朝、ふと外の空気を吸いたくなって、窓を開けた。

深呼吸をしながら、窓を開けると、いつも見える山と空の境界線から、オレンジ色の太陽が顔を出している。

 それをぼんやりと眺めていたら、昔よくいたユーフォーが見えた。

私が小学生だった頃は、夕方に窓を開けると必ずユーフォーが見えたのだった。

一度もっとよく見てみたくて、望遠鏡で見ようとしたのだが、母からひどく恐ろしい口調で「やめときなさい。」と言われたので見るのはやめたが、今はそれを止める母はいない。

 青白くて薄い円盤の小窓がこちらを向いている。きっと中の宇宙人が、望遠鏡か何かで私を観察しているのだろうと思った。ユーフォーは何回も見たことはあるのに、その中の宇宙人は一度も見たことがなかった私は、ひどく興奮しながら、押し入れの中にしまってあった望遠鏡を取り出してきて、ユーフォーのいる方角にピントを合わせてみる。

合った瞬間に、母のあの言葉が鮮明に蘇ったのだが、目を逸らす事はできなかった。

 心臓がドクドクと音を立てている。一瞬、ピカッ と私の目に光が入り込んできたかと思うと、両耳がキーン、と耳鳴りをおこした。ようやくはっきりと見えたそれは、まるで、鏡を見ているのではないかと錯覚した。

ユーフォーに乗っていた宇宙人は私とそっくりの容姿だった。着ている服も、持っている望遠鏡も何もかも、間違いなく自分の姿だった。

その私にそっくりの宇宙人は、一人でに何かサインを送ってきた。望遠鏡を外し、口をパクパクと動かして、必死に、何かを喋っているのだが全く読み取れない。私は聞き取れないという意味で、一旦望遠鏡を目から離し、バツマークを送った。そしてすぐさま望遠鏡を覗き見るが、途端、ピカッ と光ってユーフォーは消えてしまった。

目が眩んだまま今見た宇宙人のことを思い出そうとしたのだが、もうどんな顔をしていたか思い出せなかった。私の虚無が興奮に変わったのはほんの一瞬だけだった。

 日が沈み、暗くなった部屋はヤニ臭く、冷たい空気が張り詰めて、まるで生気が感じられない。私の口から出る白い息がより鮮明に見えるだけだ。

 ふと、気配を感じてカーテンの下に目をやると、黒い大きなゴキブリ と目が合った。私と目が合ったのに、決して焦らず食べ物を探している。まるで甲虫のように、触覚だけは、ゴキブリ らしく、忙しく動かしながら、ノロノロと歩いている。

 何故か、突然に、今までこんな部屋に住んでいたことが酷く惨めに思えた。ここから抜け出したい。と、強く思ったそして誰かに会わなければならないと思った。でなければ気狂いになりかねない、という恐怖心が、私の中で初めて爆発したのだった。


 コンビニで買った食パンを、齧る。

蛇口をひねり、シャワーを、浴びた。

何日ぶりだろう。何処かに出かけることや、人に会わないとなるとこんなに自分を汚してもちっとも気にならなかったなんて。久々に鏡を覗くと、奇妙な興奮と期待を膨らませ、恐ろしい程に生命力を漲らせた、気色悪い女がいた。

外は雨が降っていた。錆びたビニール傘をさして、歩き出した瞬間に、靴は濡れそぼったが気にならない。知ってはいるが、一度も入ったことはない家に、今から何故行くのか、自分でも不思議だが、そこしか行くあてがなかったからだろうか?

キンコーン、と音が鳴る。インターホンも通さず、いきなりガチャと開いた扉から現れたのは、母のドレッサーに飾ってあった、母が死ぬ前に私より会いたいと願ったあの男だった。

「誰だあんた。」

「佐伯英恵の娘です。」

途端その男の眼が揺れた。私は歩み寄ってその男の眼、空気、匂い、声、五感以上からどんな人間なのか、定めようとしていた。それは私が無意識的によくする癖のひとつだが、今回はいつも以上に研ぎ澄まされた何かが私の自制心を押さえつけることを、強く拒んでいた。

「あなたがっ。母が、私の母が、最期に会った人間ですか。」激しい怒りが訳もなく沸き起こったのだが自分でもどうしてかは理解不能。

「あんたが母をああいう女にしたんですか」咄嗟殺したくなった 衝動的に噛む狂犬のように。ああ 自分はこんな人間なのかと男の首に手を伸ばしながらもう一人の私が呟いている。こんなに狂った。私が知らなかった私。こういう獣は皆飼っているのだろうか? そう、例えば犯罪者とかは。さあ 今この瞬間人を殺して私も即死刑。したら母のとこに逝けるか。

だが、力が男の方が強かった。刃物でも忍ばせておけば殺せただろうに。

本当馬鹿らしかった。男は首に手をかけた刹那は確実に、動揺していたのが感じられたが、窒息なんて、一秒もさせず仕舞いで、両手を無理矢理引き剥がされた。

「佐伯英恵の娘って言ったよな あんた 」もう男の眼は揺れていなかった。敵意も怯えも一つもなかった。ただ狂った犬を冷ややかな目で憐むような冷たい眼をしていた。

「死んだか。」


「死にましたよ」


「…… そうか。」


「とりあえずお前、頭冷やせや。」


 もうそう言われた瞬間には私の頭はとうに冷え切っていた。なんて無謀で狂ったことをしたんだと羞恥心に苛まれた。なぜこの男に殺意を抱いたのか、考えたくもなかった。


「帰ります。」

男は追ってくるかと思ったが、見逃してくれた。殺そうとしてきた相手が逃げるのなら、普通、捕まえたり、反撃するのではと、警戒していたが、そんな殺意すら、相手に抱かせることはできていなかったのかと、己を嘲笑した。本当に私は弱い生き物だ。全く情けない。

 本来ならとっくに誰かの胃袋に入っているはずの存在なのだから、当たり前か。

玄関を出ると雨はここに来た時よりもさらに酷く降っていた。ドア横に立てかけていた傘をさそうとしたがもうすでにバチバチと地面から跳ね返る雨に濡れていたので、そのまま、雨の中へ入っていった。



 家に着く頃には全身がずぶ濡れになっていた。少し寒い。だが気分はあまり悪くはなかった。

 久しぶりに郵便受けを開けると大量のチラシ広告と、二通の手紙が入っていた。それは父と、祖母からだった。二人から手紙が来るなんて初めてだった。とても気味の悪い思いと、恐ろしさがこみ上げてきた。

家に入るとすぐさま自分の手が封筒を破っていた。そこに書いてあることはもう予想がついているのだと落ち着かせても、私の目は慌てて活字を追っていた。




   佐伯 日美香さん


 如何お過ごしでしょうか。

私は必ず毎月貴方が困らないようにと仕送りしているのにも関わらず、電話の一報もないので心配しています。私はもう貴方の事が理解できません。正直疲れました。

せめてもの感謝はないのでしょうか?

貴方の母が亡くなった時は酷く同情したものですが、もう流石に何の反応もない仕送りなんてやってられません。私は十分貴方のことを考えてやってきました。

そろそろ自立して生きて下さい。



           立川美里


 父からの手紙も全く同じ感じの内容で、もうそろそろ支援してられませんとのことだった。


「死ぬしかないかぁ」


「どう死のうかなぁ」


とりあえず薬を飲み干して自分を痛めつけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る