ユーフォー
テチチ
第1話 わたしの日常
いらっしゃいませ
午前十一時。
腕時計に視線を落としたまま一見、落ち着いて接客業をこなしているように振る舞う。
おばあさんが一人と、おじいさんが二人。そう。だってまだ三人だけしかレジに来ないから。ちょっとわたし、慣れてますよ。と澄ました顔で、ちっとも進まない腕時計を見る。だけどすぐに、左胸に刺さった、新人バッジを見付けてしまった。
こんなバッジをつけてるくせに、あんな澄ました顔をしていたなんてなんて失態を、、サイアク。
しゅんとした隙をついたかのように、カゴいっぱいに、商品を入れた女がやってきた。
慌てていらっしゃいませ。と呟き、ピッピッとレジを通す。慌てるな。落ち着いて、正確に。丁寧に。心の中で念仏を唱えるように繰り返す。お菓子、シャンプー、ティッシュペーパー、ペットシーツに缶詰、、
スキャンを終えて、「お待たせ致しました。二十三点で六千四百三十二円、頂戴致します!」と声を張る。
暫し無言のままスマホを操作していた女は、画面をこちらに向け、この割引クーポンを使いたいんだけど、と私を睨む。
女の視線に怯みながらも冷静を装う。大丈夫。このクーポンは昨日教えてもらった。お買い上げ商品の中から一品だけ、15%割引になるというクーポン。一品だけだから、商品の中から一番高い商品にこのクーポンを利用してあげなきゃお客さん損しちゃうよね。と言った、昨日の指導社員佐藤さんの教え通り、この二三点の中で一番高い商品をレジ画面から探し出す。値段を見比べ、シャンプーが一番高いので、それを選択。女の長財布から六千四百三十二円、丁度受け取り、「お待たせ致しました。こちらレシートのお渡しです。」と言ってレシートを渡す。
今回はスムーズに対応できたので、このバイトはなんとか続けられるかも知れない。と、余裕を持てたのは、ほんのつかの間だった。
しばらくしてさっき帰った筈だった大量買いの女が私のレジへとやってきたのだ。それもまたバケモノみたいなすごい形相で。やってしまったと悟る ミスだ。ミス。おこられる。それもまた盛大に
悟りは見事に的中し、店長呼び出しからの神様への謝罪。ミス多発中新人佐伯への叱責が毎度の如く始まった。
私はクーポンを二番目に高い商品に使用していたのだった。すぐに店長が裏に来いと吐きつける。
「ねぇ佐伯さん。何回同じミスしてる?いい加減もうちゃんと出来るようにならなくちゃ。次ミスしたらかなり怒るからね。」店長はもう、かなり怒っている。本当に怖い声で、腕組みをして、狭いスタッフルームに置いてあるただ一つのパイプ椅子に座り、私を見上げるその拡大された瞳孔は私の瞳をぼやけさせた。
はい、すみませんでした。と呟き、氷のように固まる。同じミスじゃない。店長、私このクーポンは昨日教えてもらったばかりで、決して同じミスではないですよ。なんて言ったらどうなるのか。
言わないけど。
その後私は自信をなくしてまたミスをした。その日はマネージャーからも怒られた挙句、三十分はやく退勤させられた。
翌日の出勤は午後四時からだった私は泣きそうになりながらレジに立った。いや、もう、ここもクビになる。そう怯えながら少し泣いていた。
一人の客がレジに来た。心臓が高なる。慌てて目を擦る。ミスはしない。絶対に。
薬がひとつ。男の手から私のいるレジにポン、と置かれる。
客の顔すら見れなくなっていた私は薬だけを見つめ、薬剤師を呼んだ。最近増えている市販薬乱用防止策の一環として、薬剤師による声かけが実施されるようになっているからだ。私は律儀にマニュアルを守った。
「えー、服用者は年齢十五歳以上の方ですか。」
「はい。」
「えー、そうですね、一日、二回までの服用をおまもりください。」
「はい。」
おどおどしながら薬剤師の田辺さんは声かけをする。
乱用の疑いをかけられたと勘違いしてキレてくる客もいるからだ。
レジを済ませ、一番小さなレジ袋にその薬を入れて、渡す時に初めて客の顔を見た。
心臓が高なる。私と同じ匂いがした。この人は。同類だ。と瞬時にわかった。
その日は珍しくミスもせず、清々しく退勤することができた。お疲れ様です。と挨拶し、スタッフルームで私服に着替えながら、薬を買っていった男のことを考えていた。
手提げ鞄に着替えた制服を押し込み、内ポケットからピルケースを取り出す。カラン、と良い音が鳴る。
あの男が買っていった薬と同じ、咳止め薬の細長い錠剤を口に含み、勢いよく飲み込む。
勤めているドラッグストアから家までは自転車で五分もかからない。ずっと国道沿いを漕いで行く。
私を追い抜いていく車が吐き出していく排気ガスを、肺いっぱいに吸い込むと、薬が少しずつ効いてきて、心が軽く、頭がすっきりと冴え渡った感じがして、自然と口角が上がる。
きっと今日この薬を買っていった客も私と同類に違いない。そう言い聞かせただけで安心する。私みたいな人間も、他にいると思えた。
まだこの時間帯、私と同い年の人は学校で授業を受けているから、すれ違うのは年寄りか、主婦だけ。私のような若者がどうしてこの時間帯にいるのかと、白い目で見られることにはもう、とっくに慣れている。
アパートの自転車置き場に着くと、携帯が鳴った。母からだ。
「日美香、バイト終わったの?」
「うん今終わったから帰る。」
「それならちょっと煙草買ってきてくれる?」
母は、最近パートをクビにされ、そのショックからやけ食いに走り、こんな太った私は外なんか歩けない。と言って、引きこもってしまっているので、買い出しや、通っている精神科から処方される薬なんかは、全て私が代わりに取りに行っている。煙草もかなり吸う量が増え、家の中は常に煙たい。
ただいま、煙草買ってきた。
それだけが入れられたコンビニ袋を母に渡す。ありがとね。と言うなり母はすぐさま煙草に火をつける。
数分後、母はふらふらとした足取りで私の座る畳の間にやってきた。
「ごめんね日美香、」と呟き欠伸し、眠そうな目で私を見つめた。焦点があまり合わない暗い瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。
私は何も言わずにただ母を見るだけだった。
もう、この頃の私は母と接するのが億劫だった。もう何をしてもこの人は堕落してゆくのだと、悟っていたのかも知れない。母が段々と弱って、引きこもり、希死念慮を抱いて、自ら命を断つという流れを。
その流れを、私は決して止める事はしなかった。
そう。私の悟った通り母は死にました。
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