はよ開けんかいゴラァ!

時雨澪

第1話

 ノックの音がした。

 それはノックと言うにはあまりに乱暴で、ドアが殴られているような鈍い音だった。乱暴な音が三回ほど響いたあと、男の怒鳴るようなドスの利いた大きな声が聞こえた。

「なんべん言わせたら分かんねん。はよ開けろ、警察や!」

 警察という単語に反応してしまい、目を覚ましてしまった。枕元の時計は夜中の三時頃を指している。変な時間に目覚めたのと、あまりの蒸し暑さに僕の寝起きは最悪だった。そろそろエアコンに頼らないといけない季節なのか。扇風機では全く戦力が足りていない。それにしても警察はこんなに夜遅くでも働いているのか。ただ時間を考えるとちょっと迷惑ではないか? 何故こんな夜遅くに来たのだろうか。周りの住民のことも考えてほしいものだ。

 それにしても、街の平和を守る警察がこんな所に何の用だろうか。ここはただの古くてボロボロなだけの良いところが無いアパートなのだが。階段や手すりはところどころ錆びているし、壁の白い塗装は落書きだらけ。郵便受けの扉はまるで職務を放棄したかのようにとても開けづらいし、力づくで開けようとすると、開けるたびにギシギシと嫌な音を立ててくる。そもそもここは街の中心から少し離れた場所にあり、立地はそれほど良いとはいえない。一番近くの駅はここから歩いて約十五分。唯一近くにあるのは一時間に一本だけ走っているバス路線のバス停だけだ。ボロアパート過ぎる。

 そんな、なんとも言えないボロアパートの一階、一番端にある部屋のドアの前に警察官がやってきているようだった。

「はよ開けんかいゴラァ!」

 鈍い音とともに、また警察の怒鳴り声が聞こえた。

 おまわりさん、あなた達が問いかけているのはただの一般人男性です。毎朝同じ時間のバスに乗って出社し、同じ時間のバスに乗って帰ってくる。毎日同じ時間に寝て、同じ時間に起きる。そんなただの社会の歯車です。そんな人を一体どうしてこんなに怖がらせてくるのですか? 別にヤクザとかではないですよ。

 とりあえず外の様子を見る必要がある。最優先事項だ。水を飲むことよりもシャワーを浴びる事よりも優先するべきだ。外から差し込む街灯の明かりを頼りに、恐る恐るゆっくりと玄関のドアに近づく。できるだけ足音を立てないように。あくまで留守である雰囲気を出さないといけない。一歩、また一歩、慎重に足を動かす。なんとかして玄関のドアに音一つ立てずに張り付くことに成功した。ドアに付いている小さな覗き穴は、玄関からドアを開けずに廊下の様子を確認する唯一の方法だ。恐る恐るその穴から外の様子を窺ってみるころにした。

 レンズによって歪んだ外の様子は、全く予想外の光景だった。そこには青い制服を身に纏った警察官がなんと数人立っていて、全員前を向いて警戒している様子だった。シワ一つ無い制服を着て、直立のまま動かない。警察官一人一人の表情ははっきり見えないが、全員が緊張感を持っているように見えた。

 こんなのが目の前にいたら、とてもじゃないがドアを開ける事すら怖い。開けたらきっと痛い目に会う。なんなら殺されるかもしれない。そう思わされるほど、威圧感があった。

 外の様子をレンズ越しに見ていると、警察官たちの話し声がある程度は聞こえることに気がついた。そこで僕はできるだけ息を殺して警察官の声を聞いた。

「先輩、反応が全くありません。中に人がいる様子が無さそうですが……ドアを破壊して突入しますか」

 標準語の警官が、関西弁で怒鳴っていた警官の横で話しかけていた。

「せやな。でもこの分厚いドアやろ? 破壊するって言うてもワシらだけじゃ無理やろ。あんまり好きちゃうけど、突入部隊を呼んでくれるか?応援を呼んでいる間も犯人に開けて貰えるように呼びかけるさかい」

 その言葉を聞いて、警官が一人、応援を呼ぶためだろうか、無言でどこかに消えていった。

「出来れば内側から開けてもらいたいねんけどな」

 関西弁の警官の右腕は真っ赤になっていた。

「うわ痛そう。とても赤くなってますよ。何もそこまでしなくても」

 標準語の警官の声は先輩を心配していた。

「相手にナメられたらしまいや。待っている間でもこっちは相手に対して精神的に有利な状況を取らなあかんねん。せやからデカイ声と音を出すんや。威嚇みたいなもんやな。こうでもせんと犯人にナメられたら何されるか分からんからな」

 関西弁の警官はそう言いながらポキポキと指の骨を鳴らした。そして、二歩、三歩と後ろに下がった。

「はよ開けんかいゴラァァァ!」

 犯人への呼びかけと言う名の大きくふりかぶった拳が、ドア目がけて一直線に振り抜かれる。またドアから鈍い音が響いた。

 あまりの気迫に、僕は覗き穴のレンズ越しで見てるのに後ずさりした。これが精神的有利ってことか。多分。

 警官の怒号が響いてからどれほど経っただろうか。周りからは何の物音も聞こえない。隣の部屋の人も今頃驚いているのだろうか。この騒ぎを嗅ぎつけたこのアパートの他の住人が助けに来たりするものかと思ったが、予想に反してとにかくとても静かだった。野次馬精神の旺盛な人たちが見に来ている感じもなかった。虫の声と風の音が窓の外から流れ込む。白い遮光カーテンが少しだけ揺れた。それは五分のように短くとも一時間のように長くとも感じた。

 静寂の中、唐突に標準語の警官の声が聞こえた。

「……先輩、やっぱり腕にそんなにダメージ負ってるのに無理してドアを殴るのってどうなんでしょう」

 再びレンズを覗くと、そこには先輩警官の腕を気にしている標準語の警官の姿が見えた。後輩警官の声には心配の色が色濃く出ている。

「それ今言うことなんか?」

 関西弁の警官は後輩をギロリと睨んだ。

「すみません。静かな環境が苦手なもので、つい」

 後輩の標準語警官は反省したように俯く。

「『つい』ってそれ絶対に警察に向いてないやんけ。まだ一分も経ってへんぞ。もっと緊張感もてや」

 関西弁警官は後輩警官の目の前で銀色に光る腕時計を見せつけた。

「いや、先輩の腕が気になったもので」

「『いや』も何も無いねん。言い訳はいらんから。心配はええけどな、そんなん今じゃなくてもええやろ」

「失礼しました」

 この警官は人の善意を受け取るのが苦手なのかもしれない。せっかく心配してくれてるんだから「ありがとう」の一言くらい言えばいいのに。そうは思っても、全く口を出せる状況では無いけど。

「頼むわ。仕事中やぞ。警察にはこういう『待つ』ってのも大事なことなんや。分かるか?」

「はい」

「ちょっとは頑張ってくれよ。いけるか」

「はい」

 後輩警官は完全に縮こまっていた。何故ドアの前で説教が始まるんだ。今から突入するかもしれない場面だろ。

「それにしても全然出てくる気配せえへんな。どっか外におるんやろうか。それとも忍耐強く隠れてるだけなんやろか」

 関西弁の警官はだんだんソワソワしている。しきりにその場をグルグル回ったり、腕時計を何回も見たり、貧乏ゆすりが多くなったり、とにかくじっとしていられない。常に体の何処かが動いている。

「なぁ、ベランダの方にも人って置いてるんか?」

「もちろん裏から逃げられないように人員は配置しております。二名ですが」

 関西弁の警官の問いに標準語の警官が答えた。

「ちゃんとええ仕事するやんけ」

「へへ、ありがとうございます」

 標準語の警官は褒められたからか、ほんの少し照れたような仕草をした。

「ほな、すぐに窓から入るか」

 喜ぶのも束の間、関西弁警官のこの言葉で一気に現実に引き戻されていた。

「今ですか」

「そうや今すぐや」

「え」

 後輩警官の目が呆気にとられたように大きく見開いているのがレンズ越しでもよくわかった。

「なんや、そんな顔して。毒でも飲み込んだか」

 そんな後輩警官の表情が先輩には全く理解できないようだった。

「いや、さっき先輩が警察は待つのが大事って言ってたので」

「あのな、こういうのは待ってられへんねん。分かるか、『速さ』が大事やねんから。待っている間に中にいる犯人が地下から逃げたり、現場にいた痕跡を消去したり、最悪自殺してまうかもしれんやろ。ほら、行くぞ。急ぐことも警察官の仕事や」

 この関西弁の警官。中々に理不尽だ。言っていることがさっきと違うなんて。少しこの後輩警官に同情したくなる。というか犯人が自殺なんてそんなことほとんど無いだろう。

「はい、わかりました。べんきょうになります……」

 後輩警官の明らかに不服そうな声が聞こえる。本当に可哀想だな。どうやら本当に裏に回るようだ。足音がいくつか鳴って、それがどんどんと遠くなっていった。

 このアパートの裏というと、ちょうどベランダの部分だ。僕は先回りしてゆっくりとベランダに通じる窓の方まで向かう。そっとカーテンの隙間から外を覗くとそこには確かに警察官が立っていた。そこにさっき玄関のレンズから見えた警官が合流してくるところも確認できた。警官はみんな関西弁の警官に腰を低くしている。あの理不尽が服を着たような警察官が大ボスらしい。

 今日は熱帯夜で窓を開けていたのがラッキーだった。警官たちいる位置は少し遠いが、何を喋っているのかは割と聞き取れた。

「よっしゃ。おいお前ら、今から犯人の部屋にベランダから窓を叩き割って入る。あれが見えるか。ベランダの隅の方にある、あの植木鉢に植わってる植物。あれが今回の犯人を捕まえるに至った証拠になる大麻や。近隣住民によって通報されたものやな。まぁでも、よおあんな堂々と隠さずに置いてるな……。見る人が見たら分かるやんけ」

 それから、警官たちは関西弁の警官を先頭にまとまって一斉に近づいてきた。ゆっくり一歩ずつ近づいてくる。そして、前の方にいた数名が一人ずつベランダの柵を軽々と乗り越えてきた。

「犯人を逃さへん為にこんな夜中に来たんや。こいつは余罪もたっぷりある。絶対に捕まえるぞ。じゃあ行くぞ。お前ら」


 それから先の事は僕には見えなかった。


 ノックの音がした。

 ガラスの窓をコツコツと二回。

 それからすぐだった。

 バリン!

 ガラスの割れる大きな音。

 その後沢山の足音がに入っていく音が聞こえた。

「はよ探せ!」と大きな怒号が壁越しに聞こえる。

「アニキ、これで本当に良かったんですか」

 かつての弟分が部屋の隅の方でうずくまっていた。

「もうその呼び方はやめてくれ。僕はもう真っ当な人生を送れるようになったんだ。あの暗くてドロドロとした世界から足を洗って。このキレイな世界で生きて行くんだよ」

「でも隣の部屋の人は……」

 隣の部屋では大きな物音がずっとしていた。「部屋の隅々まで探すんやぞお前ら。タンスの中すらも全部確認して見落とし無いようにせえよ!」と関西弁警官の声が壁越しでもはっきり聞こえた。

「僕は裏で生きている人たちと完全に縁を切るために様々なものを犠牲にしたんだ。カネもモノも、さらには自分の指だって……。それに比べたら見知らぬ隣の人が受ける些細な苦痛などほぼ無いに等しいだろう?」

「それはわかってるんスけど」

 弟分は怯えた小動物のように耳を塞いで塞ぎ込んでいる。「そっちには居たか」「いや、こっちには居なかったぞ」「クソ、どこに隠れていやがるんだ」と沢山の警官の声が聞こえる。

 僕は弟分の隣に座り込んだ。

「大体、お前も共犯じゃないか。裏社会から完全に縁を切って。それでも残ってしまった大麻を植木鉢に植えて、隣の家のベランダにバレないように置いてくれたのはお前じゃないか。どの家ならベランダに置いても大丈夫かどうか調べたのもお前だろう? 隣の住人が独身のサラリーマンで、洗濯物はすべてコインランドリーだからベランダをほとんど使わないとわかった時、とても嬉しそうに僕に教えてくれたじゃないか。隣の家に大麻の植木鉢を置いたあと、さぞ前からあったようにして警察に通報したのもお前じゃないか。そうさ、全部お前が僕の為にしてくれたことだろう。なぜ今になって急にしおらしくなっているんだい。君の仕事は素晴らしいよ」

 弟分の肩を叩いて励ました。これから普通の人間と同じように暮らせるんだ。その為の犠牲など仕方のないことではないか。僕たちは明るい将来のために動いているんだ。

 隣の部屋からは「見つけたぞー!」と雄たけびがあがった。知らない男の「やめてくれ」という悲痛な叫びが聞こえる。

「アニキ、おれ本当に正しいことしたんスかね」

 照明の点いていない暗い部屋。弟分の顔ははっきりとは見えない。しかし、その顔はなぜだか泣いているように見えた。

「正しいかどうかは問題ではない。あんな裏の社会で生きておいて「正しいこと」を気にするなんてお前は変なやつだな。僕たちが今考えないといけないことは、真っ当な人間としてこの先の生活を送れるかだ」

 そう言うと弟分は何も喋らなくなってしまった。こいつは元々人が良すぎる。裏社会に向いてない性格だった。だから僕が助けてやろうという気持ちだったのだが。もしかして余計なことだっただろうか。ただ、僕の指を失った意味がまるで無くなるので是非僕と一緒に普通の人間になって欲しいのだが。

 誰も喋らなくなった静かな部屋に秒針の音が響く。

 隣の部屋からかすかだが「逮捕する」という声が聞こえた。「俺は何もしてないぞ!」と隣の住人の必死な叫びが聞こえた。

 やがてパトカーのサイレンが鳴って、それがどんどん小さくなっていった。

 これで僕も今日から普通の人間だ。もう何も怖いものなんて無い。罪はすべて隣の住人になすりつけた。少し申し訳ない気もするが、これも僕の将来のためだ。


 ノックの音がした。

 パトカーが去って約十分後のこと。弟分も落ち着いてこの先のことを考えるように鳴った頃だった。

 こんな夜中に誰だろう。別にインターホンを使えばいいのに。

 玄関のドアのレンズから外を見ると、さっきの関西弁の警官が立っていた。さっきは斜めから見ていたが、真正面に立たれるとなんだか圧がすごい。居留守を決め込むことも考えたが、僕は今日から普通の人間だ。かつていた世界とは違い、警察と一対一でも堂々と話せるようになったのだ。僕は覚悟を決めて玄関のドアを開けた。

「はい、なんでしょうか」

「夜分遅くにすみません。私こういうものと申しまして……」

 警察手帳をみせてくる。書いてあることは僕にはさっぱりだった。

「どうされたんですか」

 僕は努めて普通の人間になっていた。

「いえ、先程騒がしくしてしまったお詫びを。ちょっと突入という荒っぽいことをしてしまいまして」

 さっきの理不尽がまるで感じられない優しい顔をしていた。こわ。これが警察か。

「いえいえ、起きてしまいましたが、そんなの全然大丈夫です。声が聞こえてきましたが、誰か悪者が捕まったんですかね。悪者が捕まるのは良いことです」

「ほう」

 警察官の片眉が上がった。僕何か変なこと言った?警察はそれでも人当たりの良い笑顔で続けた。

「それでは少しあなたにお尋ねしたいことがありまして」

「なんでしょう」

 正直、今の自分には何も怖いものはない。そう思っていた。裏社会から完全に逃げ出せたことによる充足感が体を満たしていた。

「さっき隣の家に突入した時、家の中を色々と調べていたんですよ。するとベランダにあった植木鉢の近くの床に引きずられた跡がありまして。そのおそらくその跡を見るにあなたの部屋から引きずられた物だと思われるのですが。ちなみにその植木鉢、大麻が育てられていたのですが――」

 僕は身の危険を感じてドアを閉めた。鍵をかけ、ドアロックをかける。

「おい、ちょっと待て! はよ開けんかいゴラァ!」

 ドアが殴られる。鈍い音が部屋に響いた。

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