第13話 正体

「先にあがります。お疲れ様でした」


 店の制服から着替えて、緋川はバイト先の店を出た。

 日が沈みきった夜。緋川が一人で帰路につく。

 時間も時間なため、アパート近辺には人一人いない。


(バイトもやっと落ち着いてきたし……試験に本腰入れなきゃ……)


 即戦力のバイトを店長が雇ってくれたおかげで、緋川にも時間的な余裕ができた。

 これで勉強会に参加できる。

 佐々木と一緒にいられる。

 そう考えるだけで緋川は、自分の顔に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。


「……ッ!?」


 一瞬、緋川の足が止まり——そして、また歩を進める。


(まただ……またあの視線……)


 グループを形成したあたりから、定期的に気持ち悪い視線を感じるようになった。

 最初は初回の勉強会が終わり、家に帰ろうとした時。

 だが学生の多い空間で、しかも視線を集めがちな緋川にとって「視線を感じる」ことは珍しいことじゃない。

 いつものこと——そう片付けて放置を決め込んだ。

 次に視線を感じたのは家までの帰路だった。

 学校で感じた視線と同質のものだとすぐに分かった。

 ここまで来たら、もう無視はできない。

 そして視線は授業中、学食、さらにはバイト先まで及び、緋川は自分がストーカー行為を受けていることを悟った。

 相談はできなかった。

 ただでさえ今は全員が忙しい時期。

 悪質なストーカーは視線を感じるだけで、それ以上の害はなかった。

 自分が我慢すれば……それに試験が終われば夏休み……


 ——緋川が正常だったら、それが誤った選択だと気づけた。


 バイト、試験対策、ストーカー行為など。

 最近、いろんなことが重なりに重なっていた。

 ろくに眠ることもできなくなった緋川は、自分の選択が何一つ根本的な解決に至らないと判断できないほど——心身が弱りきっていた。

 そして最悪なことに……今日は違ったのだ。


(え……嘘……!)


 今までは遠くから見ているだけだったのに、微かに聞こえてくる自分以外の足音。

 それがストーカーのものだとすぐに分かった。


(やばい……絶対やばい……っ!)


 本能的な恐怖を感じ、少しでも逃げようと緋川の歩調が早くなる。

 だが後ろの足音はどんどん大きくなり……

 走って逃げる? 

 ううん、女の自分が逃げ切れるわけがない。


(そうだ、電話!)


 お気に入りの一番上にある佐々木の電話番号。

 緋川は迷うことなく、佐々木に電話をかける。


(お願い……出て……!)


 耳にスマホをあて、祈るように目をギュッとつむる。

 数回のコールのあと、佐々木が電話に出た。

 その瞬間——


「きゃっ!?」


 誰かに後ろから腕を掴まれ、スマホを無理やり取られた。


「や、やめて! 返して!」


 慌ててスマホに手を伸ばすも。


「いたッ!」


 その手も掴まれ、そのまま引きずられるように物陰に連れ込まれる。

 壁際に追い込まれると、両傍に腕を突かれた。

 逃げ道を塞がれた上、この態勢では周囲からも見えづらい。


「久しぶり、理佐ちゃん。今日は勇気を出して話しかけてみた」


 この声……もしかして……

 緋川は恐る恐る顔を上げる。


「あなた……サッカー部の……」


 目の前にいるのは数週間前、緋川に告白をしたサッカー部のエース……小金井こがねいあきらだった。


「やっぱり佐々木に電話してたんだね。脅迫まがいなこともされてたなんて……ほんとに許せないな」

「は……?」

「なんなのアイツら。理佐ちゃん、やっぱり付きまとわれてたんでしょ?」

「え……?」

「佐々木と田中って奴だよ。最近よく一緒にいるじゃん。特にあの佐々木って奴、勉強会のときもフリーブースのときも妙に距離感近かったし……大丈夫? 何もされてない?」


 緋川は小金井が言ってることが全く理解できなかった。

 だがそんなことはつゆ知らず、小金井はさらに捲し立てる。


「分かってるよ、授業中に俺と目を合わせた意味。助けて欲しかったんだよね? ごめん、俺も手を尽くしたんだけどまだ甘かったみたいで……でも大丈夫! これからは俺がずっと一緒にいるから!」


 何を、言ってるの……

 確かに気持ちの悪い視線を感じて、何度か教室を回し見したことはある。

 でも目が合った? アタシがお前を見たことなんて一度もない。

 同じ授業を受けていたことさえ知らない。

 告白をされた時だってそうだ。

 だがこの言い分。どうやら小金井には「目が合った」という「決め手」になることがあったらしい。

 

「あと、俺が告白した時はごめんね。俺……理佐ちゃんのこと全然分かってあげられなくて」

「へ……?」

「理佐ちゃんほど人気があったら、誰か特定の人と付き合うとその人が恨まれるって分かるもんね。だから、あの時は俺のために断ってくれたんだよね。本当は付き合いたいけど、その気持ちを我慢して……。避けられてるって誤解しちゃった時もあったけど、他の男子もいる前で仲良さそうに話すのもリスクあるからね。お互い意識し合ってんのに、障害が多くて困るね、ほんと」

「は、……え……?」

「そしたらなんなの? あの佐々木って奴は。理佐ちゃんにまとわり付いて、ちょっと親しくなったからって勘違いしちゃってさ。理佐ちゃん怖かったよね。実は俺、理佐ちゃんに内緒で隠れて護衛してたんだ。でも佐々木もしつこくてさ……危険だから今度からはこうして一緒に帰ろう?」


 つまり小金井は……ひかわに付き纏っている悪者は佐々木たちで、自分は護衛の騎士ナイトであると……そう言いたいらしい。

 告白の件も、なんと都合の良い解釈をしていることか。

 勘違いも甚だしいことこの上ない。

 告白を断った理由は佐々木が好きだからだ。それ以上の理由なんてない。

 だが緋川に不用意な発言はできなかった。

 トレーニングを積んでいる年若い男に逃げ道を塞がれたこの状況で、緋川に強行突破は不可能だ。

 もし逆上して暴力を振るわれたら——女性には常にその恐怖がある。

 さらに恐怖心を煽ってくるのが、自分は正しい——と信じてやまないこの目だ。

 まるで理解の及ばないナニカと対峙しているような感覚を覚える。


(怖い……怖い……っ)


 緋川は今、魂から震え上がっていた。

 その強すぎる恐怖に思考が完全に凍り付く。

 わなわなと身体が震え、今にも腰が抜けそうだった。


「理佐ちゃんどうしたの? さっきから全然喋んないけど」


 小金井と目があう。


「…………ぁ……」


 緋川の口から、悲鳴にもならない声が漏れる。

 瞳がみるみる潤んでいき、涙が一筋、頬を伝う——


「さ……ささ、き……」


 震える口から無意識に呼んだ名前。

 だがどうやら、それが小金井の地雷だったらしい。

 一瞬きょとんとした小金井の顔が真っ赤になり、憤怒の表情に染まる。


「は……? なんで今あいつの名前が出てくるわけ……ッ!?」


 両傍に合った小金井の腕が緋川の肩を乱暴に掴む。

 そのまま力任せに緋川の肩を前後に揺すった。


「せっかく二人きりになれたんだから、今は俺のことを見てよッ! 理佐ちゃんの考えてることは分かってたけど、でも俺は寂しかったんだよ? ほら、呼ぶなら俺の名前呼んでよッ!」

「い、痛い……っ! 知らない! アンタのことなんて知らない!」

「はぁ!? そんなわけないだろ! 俺たちは両思いじゃん! 照れなくていいんだよ……ほら、ほら!」

「やだ、やだぁっ! 怖い……助けてぇ……助けて、佐々木ぃ……っ!」


 もう何が何だか分からなくて——緋川は泣きじゃくりながら必死に佐々木の名前を呼んだ。

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