第10話 変化

 佐々木の学生生活に変化が起きていた。

 

 翌週の月曜日。佐々木は田中と一緒に櫻大へ登校して、目的の大講義室に入ると、左斜め後ろ側に席につく。

 半ば定位置となりつつある場所。


「そういや、もうそろテストじゃん。うへぇめんどくせー」


 まだ朝だというのに、もう死んだ魚のような目をしている田中。


「この授業テスト、あんま難しくねぇらしいぞ?」

「マジでっ!?」


 そんな友達の姿を見て、佐々木が呆れ気味に助け舟を出す。


「授業内レポートがあるだろ? あれ採点が厳しい割に評価が半分を占めているから、テストは簡単にしてくれているらしい」

「お情けってやつか」

「だろうな。必修だから単位も取りやすくしてくれてる部分もあんだろ」

「なんでもいーよ。単位が取れれば問題なし!」


 選択科目とは違い、必修科目は単位が取れないと卒業ができない。田中と同じように考える学生がほとんどのはず。留年なんてしようものなら両親になんて言われるか分かったもんじゃない。佐々木もまずは単位を取ることを優先している。

 すると——


「おい、来たぞ……」


 誰かがそんな言葉を呟いた瞬間、大講義室内が一斉にざわついた。

 その原因は、たった今教室に入ってきた二人の女子学生。


「ははっ、やっぱあーして並んでると、いつにも増して華があんなー」


 片肘を机についた田中が、感嘆したように言う。

 その視線の先には、櫻大が誇る七女神の二柱である「氷の女神」こと緋川と、「の女神」こと若月の姿があった。


「お前どっち派?」

「俺はやっぱ緋川さんかな。あの何を考えてんのか分かんない無表情が堪らん……! そそられる!」

「いや〜若月さんだろ。緋川さんより話しやすいし、ワンチャンいけそうな感じしね?」

「でも若月さんのファンクラブって過激って噂だぞ?」

「それは七柱みんな一緒だろ?」


 同様の反応が教室内で男子を中心に広がっていき——しかしその中には。


「なにあれ……うざ」

「お高くとまってんじゃねーよ……」


 確かに負の感情も混ざっていた。

 羨望。憧憬。恋慕。嫉妬。嫌悪。

 ないまぜになった視線を受ける中、緋川と若月は特に気にした様子もなく、チラッと佐々木達がいる席に視線を向けて。


(……マジで来る気か)


 佐々木が内心で驚いてると、二人は悠然とこちらへ歩いてきた。


「二人ともおはよー!」

「おはよ、佐々木。田中も。この席空いてる?」


 よくある学生同士の挨拶……なのだが。

 ザワザワッ! とまた一段と教室内が騒がしくなった。


(まぁ、こういう反応するよな)

 

 普段、若月と緋川は合コンにいた如月や小野田といった固定の女子グループと一緒に講義を受けている。

 それが自分達から男子のもとへ行き、しかも男子には特に冷たいあの緋川が挨拶をしているというのだ。これを驚かないでいられる学生は櫻大にはいないだろう。


「おはよ。空いてるから使っていいと思うぞ?」

「よかったー。少し遅れちゃったから埋まってるかと思った」

「詩織が寝坊したせいでね」

「もうー、ごめんて理佐」


 緋川が佐々木の隣に座り、さらにその隣に若月が腰を下ろす。

 ここに緋川と若月がきたのは偶然ではない。

 これは佐々木の女子慣れを兼ねて、授業や学食など、一緒にいられるときは一緒にいようと提案した結果だ。

 その際、若月にも佐々木の恋愛事情を話した。


「ごめん! 私、何も知らないのに佐々木の悪口めっちゃ言っちゃった!」


 若月から丁寧に頭を下げられた。

 悪口と言っても、本当に些細なもの。

 内容を聞けば、むしろ好印象を受けた。

 これらの経緯を経て。

 佐々木、田中、緋川、若月のグループが誕生した。

 教室内にあった喧騒も、担当の講師が姿を見せたことでようやく静まった。




 ——昼休み。

 佐々木達が一つの机で昼食を取っていると、マジマジとした視線を感じた。

 ほとんどの視線はまず緋川と若月を見て、その次に佐々木と田中を見ていた。ただし、佐々木と田中に向けられている視線は「なんでこいつらいるの?」という怪訝なものだった。


「気にすんなよ祥平。こんなの分かりきってたことだ」


 緋川と若月がトレーを片付けに行ったタイミングで、佐々木がソワソワしている田中に声をかけた。


「そう言われても落ち着かねーものは落ち着かねーんだよ。ってか、緋川達はともかく、玲はなんでそんな平気なんだよ」

「まぁ、からな」


 佐々木のその言葉に、田中は合点がいったように「そうだったな」と呟く。


「昔のお前と今のお前……落差が激しすぎて別人のように感じちまうんだよな……」

「それは俺も自覚するところだ……にしても緋川と若月遅くねぇか?」

「そう言えばそうだな」


 トレーを戻すだけなら一分もすれば戻ってこれるはず。

 佐々木が辺りを見渡して緋川と若月を姿を探す。


「あ、いた」


 佐々木が指差した方向には二柱の女神。

 が、その様子は少し険悪そうで、三人の男子学生に囲まれている緋川と若月の姿があった。

 見覚えのある奴らだ。

 授業中は騒がしく、学食にたむろしていて、周りからけっこう顰蹙ひんしゅくを買っている同級生……だったような気がする。


「お、おいおい。助けにいった方が——」

「やめとけ。もっとややこしくなる」


 田中が席を立とうとした所で、佐々木が忠告する。


「な、なんで……!?」


 と言う田中に、佐々木は『いいから見てろ』といった感じで顎で示す。


「今日はもう授業ないんでしょ? せっかくなんだから飲みに行こうよ」

「………」


 無視を決め込む緋川と、それに倣って無言を貫く若月。

 男子達は明らかに相手にされていないが、それを気に留めるほど繊細な精神は持ち合わせていないらしい。


「なぁ無視は良くないって女神様たち。それに佐々木と……誰だっけ? あいつらより俺たちの方が良くね? あんな陰キャ共ほっとけって」


 それを聞いた時、緋川の眼光が鋭くなった。

 ふざけるな。

 こいつらと佐々木達とでは役者が違う。

 比較されるのも腹立たしい。


「確かにアタシは佐々木と田中と一緒にいる。でも、それがイコールあなた達と一緒に行く理由にはならない」


 はっきりと拒否する緋川。

 だが男達はむしろ。


「うおっやっべ!? 『氷』に話しかけられた!」


 と下卑た笑みを浮かべるばかり。


「じゃあ、せめて連絡先だけでも交換——」

「むり。次の授業あるから通して」


 緋川は終始顔色一つ変えず対応し、男子学生達を置いてさっさと歩いていった。


「あははっ、あれが『櫻大の氷の女神』のだよ」


 ほがらかな笑みを浮かべる若月。

 だが次の瞬間——底冷えするような目で男子学生達を睥睨する。


「でも次はないよ? 今この場で私が助けてって言ったら、何人の学生が君達に襲いかかるか……分かるよね?」


 そう言い残して、若月も男子学生達の前から姿を消した。

 取り残された男子学生達はというと、若月ファンと思われる学生に敵意をむき出しにされて、すっかり縮こまってしまっていた。

 あの様子では、もうおいたはできないだろう。

 そして。

 そんな一連の流れを眺めていた佐々木と田中はというと。


「ほら見ろ。心配するだけ無駄なんだ」

「みたいだな……」


 呆れ気味に溜め息をついた。

 あの程度のこと、緋川と若月にとってはありふれた日常の一コマに過ぎない。

 下手に自分が首を突っ込むよりも、本人達に任せた方が円滑にことが運ぶ……そう判断して、佐々木は田中をこの場に留めたのだ。

 

「なぁ玲、ひょっとして俺らって相当恵まれた立場にいる?」

「……かもな」


 他の男子に目を付けられるこの立場は、危険とも捉えられるが。




 ◇◆◇◆




「お前、佐々木玲だろ?」


 佐々木が一人で構内を歩いていると、二人組の男子学生から声をかけられた。

 二人とも一年の同じ学科……それぐらいしか分からない。

 片方は金髪ピアス、もう片方は茶髪ピアスだ。


「そうだけど……」


 佐々木が答えると、金髪ピアスが距離を詰めてきた。


「お前さ、緋川と付き合ってるってマジ? もうヤッたの?」


 またか……と佐々木は内心でため息をついた。

 最近こういう手合いがやたらと増えた。

 やれ、どうやって緋川と友達になったのか。

 やれ、緋川と付き合っているのか。

 今まで緋川の近くに男がいなかった分、こういった噂や憶測が数多く飛び交っていた。

 佐々木もこの状況は予測してなかったわけじゃない。

 だが、何をしたところで状況は変わらない。

 噂は佐々木たちの真意そっちのけで勝手に広がっていくだけだ。

 しかしこれが一週間も続けば、さすがに疲労を感じざるを得ない。


「何度も言ってるが、俺と緋川は付き合ってねぇ。ただの噂だ」

「でも仲良くなったんだろ?」

「いや、一緒になった授業で少し話す程度だって」

「それだけで十分ヤベェだろ! 実はおれ前から緋川のこと狙っててさ、距離詰めるための秘訣みたいなの教えてくんね?」

「そんなのねぇよ。たまたま意気投合しただけだ」

「じゃあ、連絡先は?」 


 しつこく食らいついてくる金髪ピアス。

 良い方向に捉えるなら、熱意があるとでも言うのだろう。


「個人情報だ。そういうのは本人に聞け」

「本人に聞いてダメだったから頼んでんだろ? なぁ、頼むって」

「無理。っていうか、そもそも緋川の連絡先なんて知らねぇし」


 嘘だ。

 本当は知っている。


「悪いけど、これからバイトがあるんだ。じゃな」


 強制的に会話を切り上げて、佐々木は再び歩を進めた。

 心配なのは緋川だ。

 もともと彼女はその容姿から注目を集めがちだが、今回の件でさらに大変なことのなっているのは容易に想像つく。

 だが、直接会えばまた余計な噂が広がるのは確実。

 とはいえ技術躍進が激しいこの時代、連絡の取り方などいくらでもある。

 佐々木はスマホを開くと、若月にメッセージを飛ばした。


『お疲れ様。今日も絡まれた。若月と緋川は大丈夫か?』


 既読はすぐに付いた。


『お疲れ様。私も理佐も大丈夫。むしろ拍子抜けなぐらい』

『そうなのか。意外だな』

『如月茜と小野田凛おぼえてる? 合コンに参加してた子なんだけど』

『ああ。二人とも強烈だったからよく覚えてる』

『私とその二人で理佐の周りは常に固めてるから、特に被害はなし。噂も理佐にとっては悪い気はしないものだしね』


 なるほど。

 さながら姫と騎士と言ったところか。


『ならよかった。引き続き頼む』

『了解』


 若月からスタンプが送られてきて、やり取りは終了した。

 色々と考えたが、どうやら杞憂だったらしい。

 以前、緋川は如月と小野田とはそこまで仲良くないと言っていたが、関係に変化でもあったのだろうか。

 いずれにしろ、あの三騎士が常に張っているなら特に問題はないはず。佐々木も突っ込んでいける度胸はない。

 すると、再びスマホにメッセージが届いた。

 若月からだ。


『ごめん、私から言うことあった。そろそろ試験が始まるから、みんなで勉強しない? って理佐が提案してる。私たち同じ学科だし』

『ありがたい話だ』

『場所は大学の図書館ね。詳しい時間はまた連絡する。たぶん理佐が』

『了解』


 そこでメッセージは途切れた。


「はぁ……」


 勉強会……か。

 佐々木の脳裏に、家庭教師と生徒として、松村に勉強を教わっていた頃の記憶が思い浮かぶ。

 ——根気強く、分かりやすく、丁寧に。

 松村が心掛けていたことだ。


「いい? ここはね——」


 間違ったところは工夫して教え。

 同時に、正解すれば過剰なほど褒めてくれた。 


「すごーい! さすが玲くん! 自慢の生徒だよー!」


 あの言葉も嘘だったんだろうか。

 もう何が真実なのかも分からない。


 ——勉強してた時だけは……本当の莉央さんだった。


 都合がいいだけの醜い願望。

 それは理解している。

 だが、せめてそうであってほしい——と考えてしまうのは、自分の心が弱いだけなのか……




 翌日の放課後。

 勉強会は意外と早く行われることになった。

 俺は頼まれていた用事を済ませ、少し遅れて図書室へ向かった。

 この時期の図書室は普段とは違い、試験勉強に明け暮れている人数が多い。


「あっ、来た来た!」

「やっほー、佐々木くん」


 勉強スペースが設けられている場所に着くと、女子の声が耳に届く。

 佐々木が顔を向けると、いつものも三人に加え、如月と小野田も一緒にいた。


「茜と小野田も一緒だったのか」

「そだよー! ほら、佐々木くんの席も確保してあるから座って」


 如月に促されるまま、佐々木は彼女の隣に座った。

 対面には緋川が座っていて、一瞬だけ目が合ったがすぐに逸らされた。


「それじゃ、サクッと始めよ。みんな危ない教科あるだろうし、真剣にね。特に田中!」

「え、俺っ!?」


 若月の号令で勉強会が開始される。

 一癖も二癖もあるものの、この場にいる全員は名門の櫻大に合格した面々。当然と言えば当然だが、全員勉強する姿勢は悪くない。

 大学は中間試験がないため、テスト範囲が広い。

 せっかく一緒に勉強する機会を設けたのだから、この時間を無駄にしたくないのだろう。


「ねぇ、佐々木くん。ここって——」


 十分後。

 佐々木は自然な流れで、隣の如月とペアで勉強していた。


「あぁ、そこは——」


 今やっているのは苦手な教科なのだろう。

 佐々木が手短に解説したが、如月はイマイチ理解できないようで少し苦戦している。


「あー、もう分かんないよー! なんなのこれ! ほんとに日本語?」

「あんまり騒ぐな茜。周りに人がいる」

「あ、ごめん……でもこの教科苦手だよー。講師もおじいちゃんでなに言ってるかよく分かんないし」

「まぁ、確かによく分かんねぇけど、苦手から逃げると後が大変なのは受験で分かってるだろ?」

「……うん」


 如月は小さく頷くと、再びペンを取った。

 叱りつつも見離さず、相手が理解できてなくても声を荒げない。受験生だった頃——松村がやっていたことの真似事だ。


(くそっ……まだ俺はあの人のことを……っ! いや、いいんだ……これは試験勉強を優先しているだけだ)


 まるで言い聞かせるように、佐々木は自分を納得させる。

 そこでふと——視線を感じた。


「…………」


 正面に座る緋川からだ。

 眉間に皺を寄せ、合コンで佐々木を睨んでいたときと同等の圧力を放っている。

 一体、何にそんな怒っているのか。

 理由も分からず、佐々木が背中に冷や汗をかく。


「佐々木くん、どうかした?」

「い、いや、なんでもない」

「そう? ならここは分かる?」


 グイッ、と前かがみに近づいてきた如月が、上目遣いで聞いてくる。

 やや胸元が開いた服装から、若干だが胸の谷間が視界に入る。


「そんでここ、はっ」


 突然、足に痛みが走って声が上擦った。


「ど、どうしたの佐々木くん!?」

「く、くしゃみ我慢したら変な感じになった。続けるぞ」


 如月に解説を再開した佐々木は、足を踏んできたの張本人——緋川を見た。

 自分のノートにペンを走らせ真面目に勉強している。ように見えるが、机の下では今も佐々木の足を踏み続けている。

 机下の攻防は、勉強会が終わるまで続く大熱戦となった。




「むかつく……」


 勉強会が終わり解散した後、緋川は独りごちる。


(如月さんに教えるにしても距離近すぎでしょっ……胸元だって見てたし。あれ絶対見せつけてた)


 胸の谷間で発作は起きないと分かってるが、ひやっとはした。


(っていうか、アタシにももう少し構ってくれてもいいじゃん。ずっと如月さんとばっかり勉強してさ……誘ったのはアタシなのに……)


 胸のモヤモヤが収まらない。

 ただの勉強会なのは分かっている。

 だが頭で考えても、緋川の嫉妬は消えてくれない。


(……っ、なに? 視線?)


 背後から気持ち悪い視線を感じる。


(ま、学校じゃ珍しくもないけど……)


 気にせず歩くと、緋川のスマホに電話がかかった。

 見れば、バイト先の店長からだった。


「はい、緋川です。————えっ、でも試験が近づいてて—————なるほど、それは仕方ないですね。分かりました。可能な限りヘルプに入ります。…………はい、それじゃ失礼します」


 緋川は電話を切って、スマホをポケットに戻す。

 辺りに気を配れば、いつの間にか気持ち悪い視線は消えていた。

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