第8話 ライン
合コンの日から一夜明けた土曜日。
特に予定もない佐々木は何をするわけでもなく、スマホやテレビを行ったり来たりしていた。
——ピーンポーン
インターホンが鳴って、佐々木はスマホの画面から顔を上げた。
ベッドから下り、モニターから外を確認すると、予想通りの人物が立っていた。
(やっぱり……)
佐々木が息を一つ吐く。
特徴的な赤茶げた髪。トレードマークの黒マスク。目元だけで分かる端正な顔。そこには昨日の夜、「また明日」と告げて去って行った緋川が立っていた。
待たせるわけにもいかず、鍵を開けて、玄関の扉を開ける。
「来たよ、佐々木」
「かなり強引な約束だったけどな」
「ごめん。お邪魔します」
緋川を家に上げ、そのままリビングに置かれている長座椅子に腰掛けてもらった。佐々木は冷蔵庫に向かい、コップに飲み物を注ぐと、それを緋川の正面の机に置く。
「ありがとう」
お礼を言って、緋川は一口含む。
「んで、何しに来たんだ?」
「強い性を感じるラインの確認」
「そういえば、昨日おいおい確認しようって言ってたな」
それで今日というのはどうかと思うが。
「思い立ったが吉日って言うし」
心を読まれたように反論された。
「どこからがアウトなのかって人によりけりだし、こればっかりは試してみないと分かんないじゃん? それにラインが分かれば、合コンのときみたいに不意になにかされても対処できると思う。アタシ自身もライン越えしないように注意できるし」
それはそうなのだが……
佐々木が煮え切らない態度をとっていると、緋川は何かを察したような顔になった。
「……もしかして、アタシが心の中では嫌がってるかもとか思ってる?」
「まぁ……男としては、そこらへんの機微はどうしても気になる」
「考えすぎ。嫌だったらそもそもここに来てないし。それに確認って言っても、そもそも恋愛できない佐々木じゃ日常で起きるかもしれない程度のものだし。むしろ、アタシにはご褒美なんだけど」
最後の発言は罪悪感を抱かせないための配慮だと佐々木は気付いた。
緋川の言っていることは正しい。
服越しに胸を押し付けられただけで発作が起きたんだ。
その先のことなんて今は考えても仕方ない。
「緋川がいいなら俺にも問題ねぇ。よろしく頼む」
「うん、よろしく。じゃあ、まずは握手しよ……ン」
緋川が手を差し出す。
まずは基本から、というわけだ。
「そういえば、昨日は結局しなかったな」
間をおかずに佐々木が手を握り返した。
「どう? 大丈夫そう?」
「ああ、特に何もないな」
動悸、呼吸ともに変化なし。
心のざわつきもない
「あと日常で起こるかもしれないことってなんだろ……肩を組むとか?」
「思いつく限りやってみるか」
そのあとも十分な注意を払いながら、佐々木と緋川は様々な接触を試みていく。
緋川が積極的に先導するのは、男の佐々木があれこれ言えないことに配慮してくれたのだろう。
男女間で行っているだけの、あくまで健全的な接触。
距離感の近さ、伝わってくる女子特有の柔らかさ、香水などの匂いにドギマギすることはあっても、発作が起こることはなかった。
やはり胸を押し付けられたときのように、性的なことを強く意識しなければ問題はないらしい。
「じゃあ、次……アタシの頭を撫でて?」
そう佐々木が冷静に分析していると、緋川が平然とした顔でぶっ込んできた。
「……それは日常的なものか?」
「細かいことは気にしない」
理由になってないぞ。と言いたいところだが、緋川は顔を少し伏せて、すでに受け入れ態勢に入っている。
逃がしてくれる雰囲気じゃない。
佐々木は
「ン……」
僅かに漏れた声。
緋川の赤茶げた髪を優しく撫でる。
「ど、どう?」
上目遣いの緋川と視線が重なる。
頬が僅かに赤いのは気のせいではないだろう。
「大丈夫そうだ」
「そう……よかった……」
頭を撫でながら答えると、緋川の目が気持ち良さそうに細めらていく。
まるで子猫に甘えられているようだ。
(あぁ、そうだったな……)
緋川は俺のことが好きなんだ……ようやく実感できた気がする。
そこにはもう、常に
「ねぇ、ギューってしていい?」
いつもと違う、甘えるような声と顔。
緋川の理性がどこか飛んでいるように感じる。
「いや、さすがにアウトだと思う」
根拠はないが……そんな気がした。
おそらくはここがライン。
「じゃあ……き……キス……は、しないの……?」
「……………え?」
妥協ではなく、さらに数段踏み込んだ提案をされる。
しばし場に無言の時間が流れ……自分が大胆な発言をしたことに気づいたのだろう。
蕩け切った瞳に力が戻ると、緋川はみるみる顔を赤くさせていき——
「あっ……うっ……ご、ごめん、今のなし! 佐々木の事情関係なしにライン越えだった……!」
緋川は慌てて提案を取り消す。
だがその視線は佐々木の顔……というより唇に吸い寄せられている。
心のどこかでは期待していた、ということだろう。
「俺のために頑張ってくれた結果だろ? 別に気にしてねぇ」
実際かなり動揺したが、気まずい空気になりそうなのでおくびにも出さない。
佐々木としては気遣い……のつもりだったのだが。
「…………」
緋川はなぜか不満げだった。
「けっこう攻めたつもりだったんだけど……」
「なんか言ったか?」
「なんでもない」
不満そうに頬を膨らませると、緋川はそっぽを向いた。
まるで拗ねた子供だ。
「じゃあ、次はもっと攻めたことしよ」
キスをせがまれる以上に攻めたこと……?
「接触系のラインはなんとなく分かったから、今度は視覚系のラインも把握しよ」
状況や人でラインも変わってくると思うが、今は考えないことにする。
「視覚系ってどんな?」
「大雑把に言えば露出。肩とか胸元とか腹とか脚とかいろいろ。強く性を感じるって、言い換えれば女の子らしさを認識するようなものってことでしょ? そういうので発作を起こすなら、視覚的なラインも把握した方が良いと思う?」
緋川が言ったことは佐々木も考えていたことだ。
つくづく思うが、本当によく考えてくれている。
「小野田さんを思い出して。女子ってアピールをする時に身体を使う人もいるの。それこそ胸を押し付けたり、露出の多い服を着て、視線を誘導したりとか。しかも大学って制服じゃなくて私服じゃん?」
緋川の言っていることはもっともだ。
佐々木も昨日の経験からそういう女子が一定数いることは理解している。
しかも今は夏。性別問わず薄着になる季節だ。
自分の身を守る意味でもやっておいて損はない。だが——
「でも緋川が脱ぐ必要はねぇだろ」
「ぬ、脱ぐって……胸元のボタン外したりするだけだし……さすがに下着とかを見せたりはしないから」
「そうじゃねぇ。ネットで画像とかを調べればいいだろって話だ」
「そうかもだけど、スマホの中と現実じゃ違うじゃん。こう……やるならより実際に近い形の方がよくない?」
「そうかもな……」
「でしょ。だから気遣い無用」
緋川は後ろを向いて、ぷつん、ぷつんと服のボタンを外す。
その行為が妙に艶かしく感じて、ごくっ、と佐々木の喉が鳴る。
なんとも言えない微妙な空気感。
これは……ヤバいかもしれない。
「……緋川」
佐々木が緋川の肩に手をのせると——
「ひゃっ!?」
ビクッ、と身体を跳ねさせて、緋川がこちらに振り返る。
その拍子に、ボタンを外してはだけさせた部分から、鎖骨と僅かな谷間が見え——
ガチャ。
「おっすー、れいー。悪いんだけど課題手伝ってくれね……あ……」
玄関を開けて現れたのは田中だった。
鍵は? とか、勝手に入ってくるな、とかいろいろ言いたいことはあるが、緊急事態でどれも口から出てきてくれない。
思いがけない光景を前に、田中は玄関とリビングを繋ぐ廊下で立ち尽くした。
「「「………」」」
無言が、一帯を支配する……
「……ッ!?」
緋川が慌てて胸元を抑える。
「えっと……田中、これは違くて……っ!」
緋川が慌てて弁明する。
無理もない。
田中から見れば、二人は真昼間からおっ始めようとするバカっプルだ。
対照的に佐々木の頭の中は冴えていき、隣にいる緋川を見る。
松村のこともあってか、心のどこかで緋川を疑っていた部分があった。本気で向き合ってくれるわけがない、と。
莉央さんと緋川は全くの別人なのにな……。
佐々木が思っていた以上に緋川は身体を張ってくれた。
自惚れるなら、下心を感じたときもあったが、言動の端々からそれだけじゃできないものも感じ取れた。
「ね、ねぇ、佐々木もなんとか……言っ……て……」
緋川は佐々木の顔を見ると、なぜか言葉を詰まらせる。
「佐々木……どうかしたの?」
「いや、なんでもねぇ……ただ……ありがとな……」
「お、お礼はいい……小狡いこと考えてたし……空回り半端ないし……」
そうかもしれない。でも。
「そうじゃないだろ、緋川」
「……ン?」
「俺は感謝してるんだ。だからありがとう」
「……どういたしまして」
照れ臭そうに緋川がはにかむ。
佐々木は心の中で何かが雪解けた気がした。
「あれ……俺、お邪魔?」
廊下に佇む田中が所在なさげに呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます