2 大平原
「なるほど」
いばらに閉ざされた深い青の闇から抜け出し、頬を撫でた風が地平線まで吹き抜けてゆくのを見守る。抜けるような青空を仰ぐ。確かに、森を抜けてこそ味わえる感動かもしれない。
「美しいな。幻らしきものは見当たらないが」
「一目で発見できるものなら、もう少し何かしらの事前情報があるだろうな。どこかに羊を飼っている遊牧民がいるはずだ。まずは彼らへ聞き込みをしよう」
「オーリェン語はわからないが」
「通訳してやる」
日向に出るとじりじり暑い。着込んでいた魔術師のローブを脱いで丸めていると、丁寧に畳んで鞄に仕舞っていたタナエスが呆れた顔をした。
「畳んでやろうか」
「いい」
丸めたまま荷物に押し込みかけ、ポケットに野帳を入れっぱなしだったのに気づいて広げ直す。少しひしゃげた表紙を見て、タナエスがもの言いたげな流し目を寄越した。絵になりすぎて逆に面白い。
こちら側から見ると青い森は地図で見る通り、巨大な三日月の形をしているのがよくわかった。端の方を歩いたので短時間で済んだが、真ん中あたりは一週間歩いても抜けられないだけの広さがあるらしい。森の中にも集落が点在していて、平原の遊牧民とはまた違う文化を持っている――というのは全てあの吟遊詩人の言だが。
「あ、あれ。テントじゃないか?」
「ゥレン、だな。正確には」
「うれん」
「ゥレン。アクセントはレ。意味は『住まい』」
「ウレン」
「
「ゥレーンッ!」
「やりすぎ」
目を伏せてふふっと失笑したタナエスが、顔を上げるなりはたと立ち止まった。すぐ後ろを歩いていた私は止まりきれず彼の靴の踵を踏みつけたが、彼は文句も言わず何かを凝視している。
「どうした」
「あれ……」
彼らしくもなく自信なさげに指差した先に、私は目を凝らした。瞬きをして目をこすったが、その光景に変化はない。
「……何だ、あれ」
「わからない。フレン、私の後ろへ」
「君の方が後ろだろう、この場合は」
一歩前へ出て、右手を何度か握って指先まで魔力を行き渡らせる。
「確かに魔力では劣るが、僕の方が知識はある」
「貴族生まれの塔育ちだろう、君は。実戦は知識よりも経験がものを言う」
「実戦経験があるのか?」
「訊くな、思い出したくない」
「自分から匂わせておいて……」
強めに拳で小突いてくるタナエスの瞳は私を見ていない。彼は素早く周囲を警戒すると、野帳を取り出してもの凄い速さの殴り書きでメモを取り始めた。ちらと見下ろしたが、何が書いてあるのかさっぱりわからない。おそらく速記用の崩し文字なのだろう。
「記録は任せた」
「任された」
身を低くしてゆっくり、足を進める。近づくにつれ、あえかな光の煌めきのように見えていたそれがくっきりと像を結び始めた。夕暮れ時の麦畑よりもずっと濃い、黄金そのもののような何か。それが地表付近でキラキラと輝いている。範囲はおよそ故郷の民家五軒分。大地の一部が金に置き換わっているようにも見えるが、それにしては霞のように輪郭が曖昧で、何より、ざわざわと表面が蠢いている。真夏の眩しい光の中で踊る黄金の輝き。どうやら、調査対象を見つけたようだ。
「幻影……なのだろうか。しっかりと実体があるように見える」
「フレン。君、幻影って虹のように向こうが透けて見えるものだと思っていないか?」
「違うのか」
「違う。見えているのに存在しないもののことだ」
「へえ」
ならば、存在しているかどうか確かめればよいわけだ。蠢く金色が襲いかかってくる様子はない。私は魔力の気配を探りながら一歩ずつ慎重に近づいてゆき、手を伸ばしてそれに触ろうとして、その直前で思わずタナエスを振り返った。彼も子供のように目をまん丸にしている。
「……これ」
「動物だな」
それは金属光沢のある黄金色の毛を持った、猫ほどの大きさの動物の群れだった。とはいっても姿形は猫と似ても似つかない。強いて言えば顔はハリネズミに似ているだろうか。鼻が長く、ひげはなく、つぶらな黒い目がふたつ。顔と尾は短毛だが、胴体の毛は長くふわふわとしていて、金色の雲のように見える。雲に隠れて四肢は見えない。尻尾は長く、先端がぽこんと丸くなっている。
「……なんだ、こいつ」
「
「ビシルイ?」
「フゥゥン?」
謎の生き物が返事をするように鳴いた。私が差し出した手を興味深げにクンクンとかぎ、挨拶するように鼻先をくっつけてくる。
「人懐こいな」
「ほら、この葉を食べるようだ」
見れば、謎生物が足元に繁っている黒っぽい草をじっと見たかと思うと、長い尾の先をくるっと回してその葉に近づけ、そしてなんと、尾の先の丸い部分がガバッと開いて草を齧りとった!
「うわっ!」
尾の中にずらりと並んだ鋭い歯を見てしまった私は、飛び退こうとして足をもつれさせ尻餅をついた。タナエスが「驚きすぎだろう」と言う。
「なんだこいつらは!」
「だから、尾歯類の一種だ。おそらく新種だろう。移動する金の泉のように見えるからな、幻だと思われても不思議はない」
「何ゆえそなたはそのように落ち着き払っておる!」
「近縁種の存在を知っているからだ。素が出てるぞ」
「あっ」
慌てて口をつぐむと、タナエスは「何だ、古風だから恥ずかしいのか?」とくつくつ笑った。楽しそうに肩を震わせながら、まだ齧られていない草を数本選んで丁寧に根から掘り出し、吸い取り紙を重ね合わせた
「……いや、過去を捨てたいだけだ」
「何があったか知らないが、君はもう塔の術師だ。一度術師として名を得てしまえば、どんなに願っても二度と昔の自分には戻れないさ、フレン」
「……そうかもしれないな」
はっきり認めてしまうと負けた気がするので、私は今までになく晴れやかになってしまった己の内面に気づかないふりをして西の空を見上げ、右手をぎゅっぎゅっと握りながら立ち上がった。
「どうした?」とタナエス。
「ペンを仕舞え。グリフォンだ」
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