ただ、予感がある。

 誰の死も僕を動かせないだろうという、確信に近い予感がある。

 僕は、大切な人を失ったことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。こんな曖昧な書き方をするのは、未だに喪失がわからないからだ。

 事実だけを述べるなら、言葉を交わし、よくしてもらった人間は数人逝去している。

 だが、僕は涙の一粒も落とさなかったし、その後思い出して悲しむとか、何も手につかなくなるとか、そういったことはなかった。

 歳を重ねていけば、いずれ僕も多くの人の死を見るのだろう。職業上死を見ることは多くはないが、それでも身近な人は亡くなるだろう。

 けれど、そのときが来ても、僕の心は凪いでいるだろう。波一つなく、いつも通りに、生命反応を行っているに違いない。


 結局相手のことが嫌いなのではないか、と思ったこともあるが、僕の心はプラスの方向にも動くことはないのだ。

 嫌いな人間の死を喜ぶことも、よくしてもらった人間の死に打ちひしがれることもない。

 ただ淡々と、事実として処理する。それだけのことだ。


 人の人生が死で終わることを、僕はもう知っている。

 知っていることに、何を驚けと言うのだろう。

 何を感じろと言うのだろう。

 知っている答えをたしかめるために答え合わせをして、そこに驚きがあるだろうか。

 僕には微塵もわからない。


 そんな風に淡々としていて、外界のことに関しては常に心が凪いでいる僕が、役に立つシーンというのも意外にもある。

 例えば、他人が大怪我をしたときや、誰かの死、またはそれを見据えて考えるときだ。

 感情が先行して、的確な対応がどこかへ飛んでいる間に時間は過ぎ、何もかもが手遅れになってもおかしくない状況で、感情を挟まず、迅速にすべきことのみをできる僕は、重宝がられることが多い。

 事態が落ち着いた後に、心の揺らぎを殺しているのではなく、本当に微塵も揺らいでいないと知って、憤慨したり僕を遠巻きにしたりする人もいて、それは面倒でしかないのだけど、僕の揺らがなさも役に立つときはあるのだ。


 僕が誰のことも好ましいと思っていないわけではない。

 でもその喪失はいつか起こりうると知っているから、心は波打たず、凪いでいる。

 それだけの事実を、どうして僕が非情とか冷血とか心がないとか、そんな論理飛躍した言葉で決めつけるのだろうか。

 僕には理解できないし、理解したくもない。

 波打つ激しい海域と、静かに波一つ立たない海域がある。

 それにいいも悪いもない。

 ただ、そこにあるだけだ。


 これからも、凪いでいるときばかりだろうな、という確信めいた予感がある。

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