AI

 僕の専攻は情報系ではないのだけど、僕はAIと聞くと心が躍る。

 データ分析に仕事上関わることもあるので、データサイエンスと切っても切り離せない存在であるAIについては、時折考えている。

 AIはSFによく出てくる存在だということもあるのだろうか。

 小説や絵を生み出すこともできるようになりつつあるAIだけど、僕は芸術分野での活用よりも、生物学や化学との融合に興味がある。

 僕の興味を惹きつける分野の一つであるAIだが、僕のありようとも無関係ではない。

「あなたがよくできたAIに取って代わられたら、見抜くのは困難だ」

 僕の小説を人形劇のようだと言った人とは別の友人に、かつてそう言われたのだ。

 褒め言葉でも、侮辱でもなく、ただ事実としての言葉だった。


 僕の判断は合理的で、ぶれることが少ないらしい。

 相手がどれほど親しかろうと、決めた一線は絶対に踏み越えさせないし、相手が強引に踏み越えれば容赦なく絶縁する。

 相手が誰であるとか、自分の感情がどうであるとか、そういうことが僕の行動を左右する変数となることは存外少ない。

 AIもそうだ。一定の入力に対し、返す出力結果は決まっている。

 人間であれば、味わい深いかもしれない揺らぎも、AIであれば、エラーでしかない。

 では、僕の判断基準をインストールしたAIが僕に成り代わったらどうか。

 友人は、「おそらく入れ代わりを見抜けない」と言った。

 僕もそれには同意する。

 僕の判断はあまりぶれないから、現在のAIになら容易に僕を演じられるだろう。


 近年、「AIに仕事を取られるのではないか」と危惧する言説をみかけるけれど、僕はありよう自体をAIに模倣され、成り代わられうることにそこまで危機感を覚えていない。

 僕の仕事はAIの普及で変化は予想されているものの、仕事自体が消失することはなさそうだから、というのが大きな理由だ。

 ありようをAIに代替されるとしたって、僕にはそこまで実害もないように思う。僕を模倣したAIの行動を僕の管理下に置けるのなら、別に模倣されてもいい気がする。

 自分で毎回考えて返事するのが面倒な相手、つまり自分の時間を使いたくないけれど関わるのを避けにくい相手が人生にはそれなりに現れるから、そのような人とのメッセージのやり取りを適当にやっておいてもらって、僕はその時間で好きなことや仕事を楽しむのは有効活用といえる。

 AIは技術なのだから、うまく使えばいいのだ。


 僕の感覚はそうなのだけど、人は意外と生身の人間であることにこだわるし、自分を模倣する何者かに取って代わられることに恐れを抱くようだ。

 誰かに対して生身の自分であることはさほど重要に思えない僕は首を傾げるばかりだ。

 いわゆるデジタルネイティブと呼ばれる世代であることも、無関係ではなさそうだが、世代のせいにするのはあまりに暴論だ。

 僕と同年代にも生身の人間であることを重視する人は少なくないし、相手が生身の人間でないことを許容する人の割合が他の世代に比べて有意に高いとする根拠を、僕は持っていない。

 財産や自由を奪われなければ、やりたくないことをAIに押しつけて楽しく暮らしていたい。

 その結果、誰かにとっての僕が僕自身でなく、AIの演じる僕になってしまっても、些末なことに思えるのだ。


 僕が肉体をあまり重要視していないこととも関係あるかもしれないが、「ありようがAIに代替されうる」は僕にとっては悪口ではない。

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