アクアリウム

染井雪乃

人形劇

「染井さんの小説を読んでいて、感情が小さい人なんだろうなと思った」

「あなたの小説は、人形劇を観ているようだ」

 数年の付き合いになる人との会話のなかでの言葉。

 二十数年余りの僕の疑念が確固たるものとなった瞬間だった。

 

 僕の感情は小さいのではないか、薄いのではないか、心が波打つときの波は人よりずっとずっと小さいし、波打つ頻度も少ないのではないか。

 そんな疑問を抱き始めたのは、中学生になるかならないかの頃だった。

 当時から今に至るまで、その疑念を悪いものとは思わなかったが、本当にそうなのか、あるいは違うのか、結論できないのは何だか気持ち悪かった。

 自分の感情が小さいと疑う一方で、僕は自身を激情家だと思うこともあった。

 相反する評価が自分のなかに存在しており、それぞれにそれなりの根拠を持っていた。


 感情が小さいのではないかと思ったのは、周囲の人が喜びや悲しみを目いっぱい表現しているシーンで、例えば何かを作り上げた達成感や何かを失った喪失感といったものを自分だけが感じていないように見えたからだった。

 周囲にとっては必死で作り上げた成果物であっても、僕にとってはいつも通りの仕事を淡々としたまでのことでしかなかったと言ってしまえば、前者は割と説明がつく。大抵僕はそうだ。

 どこかに余力を残した状態での完成なのだから、達成感もそれほどでなくてもおかしくはない。おかしくはないけれど、それを加味してなお、僕の感情は波打たないような気がしていた。

 何かを失った喪失感については、言い訳しようもないほどに顕著だった。

 長年を共に過ごした人との別れ、それが一生の別れであっても、僕の心は波打たなかった。

 シナリオを既に知っていて、その通りに進行する人形劇を観ているようなもので、僕にとっては、どこまでも対岸の火事だった。


 それでも、僕は自分を激情家だと思うこともあった。

 理由は簡単。

 僕は僕自身がほとんど一人で成したこと、試験の合格や仕事の完成についてはとても喜んで、気分が弾んだし、理不尽な扱いを受けたり気に入らないことがあったりすれば、すぐに苛烈な怒りを見せる方だ。

 僕の日記を見返しても、「今日は難しい仕事を完成させたから嬉しい」「こんな理不尽な目にあったから怒りを示した」などの記載は多い。

 しかし、よく見ていけば、それは情動ではなく、現象への反応に過ぎない、ということに気づいてしまう。気づけてしまった。

 こういうときはこう反応するものだと知っている。

 だから知識の通りに実践している。

 生まれ出た感情は、僕が発露する情動らしきものの何割だろうか。

 さして多くない気がした。


 冒頭の「あなたの小説は人形劇のようだ」という言葉は、僕が気分を悪くしてもおかしくないものではある。

 それでも、僕は納得してしまった。

 僕自身が、この目に映る現実を、切れば血の流れる人形がうごめく人形劇だと捉えているからだ。

 小説についての話で、僕自身の世界の認識を示す言葉が生まれてしまった。

 悲嘆にくれるでもなく、僕は長年の問いの輪郭が掴めたことに安堵さえ感じていた。

 自分の内と外を知ることに意味があるとはどこかで読んだけれど、自分の内を理解するのに欠かせない手がかりを得たのだ。

 さあ、僕自身の解析を進めようじゃないか。

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