第18話 十年前の少女 ※アーノルトside

 美術館の庭園にある池で、クローディアが溺れた。

 たまたま彼女を探していて近くを通りかかったから良かったものの、あともう少し到着が遅ければ、彼女はどうなっていただろう。

 近くに人影はなかったから、きっと池を覗いていたディアが一人で足を滑らせたのだろう。そう思っていた。


 それがまさか、何者かがディアを突き落としたとは。



「アーノルト殿下」

「……ガイゼル、どうした」



 リアナ嬢は先にヘイズ侯爵邸に戻り、ディアは聖女ローズマリー嬢の元に送り届けた。王城への帰り道の馬車の中は、従者のガイゼルと二人きりだ。



「クローディア嬢から離れてしまい、申し訳ありませんでした」

「そうだな。お前はディアの側についているべきだった」



 他の貴族令嬢に嫌がらせをしているのではないかという噂の真相を確かめるために、ガイゼルには秘密裏にリアナ嬢の調査を頼んでいる。

 しかし、いくらリアナ嬢を見張らねばならないからと言って、美術館の庭園で見知らぬ男に突き飛ばされたばかりのディアを一人にしたのは悪手だった。


 私がたまたま駆け付けることができたことで事なきを得たが、あのまま溺れて命を落としていても不思議ではなかったのだから。


 事の重大さを十分に理解しているのだろう、ガイゼルは項垂れたまましばらく顔を上げることはなかった。


 先日神殿を訪れた際、帰り際に聖女ローズマリーから呼び止められた。

 ローズマリー嬢からも、リアナ嬢が他の婚約者候補の貴族令嬢たちに嫌がらせをしているらしいという話を聞いた。王太子妃の座を射止めたいと狙うリアナ嬢が、障壁になりそうなライバルに釘を刺して回っているというのだ。


 幼い頃から私がよく知るリアナ嬢は、他人に嫌がらせをするような人ではない。その時はローズマリー嬢の話を信じることができなかった。


 しかし、ガイゼルから聞いた話とローズマリー嬢からの話。

 そして、立て続けに狙われたクローディア。


 ここまで状況証拠が揃えば、いくらリアナ嬢を信頼している私でも、疑いの芽が生まれるというものだ。



「お茶会の時も、美術館に行く前にヘイズ家のサロンで顔を合わせた時も、リアナ嬢はディアのことを穴が開くほど睨んでいました」

「……そうか、それは気付かなかった。しかしいくらリアナ嬢がディアに嫉妬しているとしても、ディアを池に落としたり人を雇ってわざとぶつかったり……そんな手の込んだことをするだろうか」

「リアナ嬢はそんな方じゃないと信じたいですが、実際に変な噂も立っています。それにリアナ嬢が今日ヘイズ侯爵に急遽呼び戻されたのは、リアナ嬢から嫌がらせを受けた相手の家からの苦情が原因だそうです」



 聞けば聞くほど信じがたい話だ。

 幼馴染とは言え、特に私とリアナ嬢は親密に育ったわけでもない。将来を誓い合うような言葉を交わしたわけでもない。


 顔を合わせることすら年に数回程度だという私に対して、リアナ嬢がそこまで執着心を募らせるだろうか。ましてや無関係のご令嬢たちやクローディアに対して嫉妬心を抱いて、悪事に走るような真似をするとは考え難い。


(だが、彼女の狙いが私ではなく『王太子妃の座』であればまた話は違うのだろうか)


 黙り込んだ私に、ガイゼルは遠慮がちに尋ねる。



「殿下は何故クローディアを王都までわざわざ連れて来たんですか? 毎日馬鹿みたいな本を読んでおかしなレッスンをしてるだけだし、さっさと故郷に帰せばいいと思います。それで面倒ごとが一つ減りますし」

「……似ているんだ。彼女は。十年前に出会った少女に」

「十年前? 洪水の時の、あの子?」

「そうだ」



 十年前、ヘイズ侯爵領で発生した洪水は甚大な被害をもたらした。

 生まれて初めて経験する国内での大災害に胸を痛めた私は、視察に出る国王陛下に無理を言って同行させてもらった。

 ヘイズ侯爵の屋敷に滞在させてもらっていたが、被害にあった村の様子を視察したいと言った私の申し出に、陛下は許可を出さなかった。

 どうしても納得のいかなかった私は、夜中にこっそりと一人で村に下りたのだった。


 ――被害の状況を自分の目で見て、被害にあった民を助けたい。何か手伝いができることはないだろうか。


 しかし現実は甘くなかった。私一人では、誰のことも救えない。何の役にも立たない。家をなくし、身を寄せ合って何とか生き延びている人たちを見て、私は絶望に震えた。


 そんな時に、濁流に顔を出した岩の上でぐったりしている子猫を見つけた。せめてあの子猫だけでも救えないだろうか。

 私は必死に川を泳ぎ、子猫を岸まで連れ戻した。流れの速い泥川の中で必死に泳いだからか、岸に戻った時には体力もほとんどなく、頭から足の先まで泥にまみれていた。


 そんな時に、破落戸ごろつきに囲まれたのだ。


 私を助けてくれたのは、幼い少女。

 彼女は私を守るために破落戸に飛び掛かり、彼らの怒りをかって濁流に投げ込まれた。しかし彼女は魔力を使って川から這い上がり、破落戸や村人たちの心を鎮めるために必死で神に祈ったのだ。


 真摯に平穏を願う彼女の祈りは天に伝わり、ヘイズ領全体を彼女の魔力が包んだ。私を襲った破落戸たちは何も盗まずその場を去った。

 争いごとがなくなったことでヘイズ侯爵家からの支援物資も混乱なく行き渡り、結果として早期の復興に繋がったのだ。



「諍いをおさめ、人の心に平穏をもたらす少女ですか。もしそんな子が実在したら、間違いなく今頃はとっくに筆頭聖女になっているんじゃないですか?」

「それほどに強い魔力の持ち主だった。魔力を持つ者には独特の匂いがあるだろう? あの洪水の後の泥にまみれた河原でも、確かにあの少女からは花のような匂いがした」

「よほど近付かないと普通は匂いを感じませんから、やっぱりその子は相当強い魔力を持っていたんでしょうね」



 春先のまだ冷たい空気の中で健気に咲く、繊細に見えるけど芯の強い花。泥にまみれても川に落とされても、少女からは人の気持ちを癒す花の香りがした。



「あの子は今、どこにいるんだろうとずっと気になっていた」

「まさか、クローディアがその時の少女だと言うんですか? それでディアをわざわざ王都まで連れて?」

「初めはそんなつもりじゃなかった。呪いを解くのを手伝ってもらうつもりで同行してもらったんだ。しかし、ディアも十年前にヘイズ領で洪水に遭ったらしい。あの少女と年の頃も近いし、おまけに元・聖女候補生だと言うじゃないか」

「占いもどきしかできないディアが、そんなに強い魔力の持ち主とは思えませんけどね。それにディアからは、魔力の匂いなんてこれっぽっちも感じません。人違いですよ」



 訝し気に私を見るガイゼルの視線から逃れるように、私は馬車の外を見る。


(ガイゼルに色々と言い訳したが、本当はディアがあの時の少女かどうかは重要じゃない)


 ディアはあの時、私に言った。

 相手のことが好きだと気持ちが溢れ出た時に、男性は女性をハグしたいと感じるのだと。自分よりも華奢な体を抱き締めることによって、この人を守りたいという気持ちになるのだと。


 リアナ嬢と手を繋いだ時、私の心は凪いでいた。

 手を繋ぐタイミング、指の組み合わせ方、お互いの距離。そんな物理的なことばかりを考えて、心は何一つ動かなかった。


 しかしディアとハグの練習をした時に気付いたのだ。

 本当は、ディアからあの時の花の香りがしないかと確かめたかった。しかし、彼女を抱き締めた瞬間にそんな目論見は頭から飛んで行った。

 

 ディアがあの時の少女だろうとそうでなかろうと関係ない。今目の前にいるクローディアを守りたい。そして私のその心の動きこそが、恋なのではないかと思った。


(『運命の相手』とは、一体何なんだ。リアナ嬢が運命の相手なら、何故私は手を繋いでも何も感じなかったんだろう。なぜディアを抱き締めた時に、あんな気持ちになったのだろう)


 ディアの顔を思い浮かべているうちに、胸に刻まれた呪詛文字がキリキリと痛み始める。服の上から呪いの跡を押さえながら、私は唇を噛んで耐えた。

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