第17話 濁流の記憶

 ――三日三晩、歩き回った。


 私の家があったはずの場所は濁流に飲まれ、今は何もない。

 お気に入りだった赤い屋根、隣の家の青い屋根、レンガ造りの教会。


 鮮やかな色彩に溢れていたはずのこの場所は、今は墨で描いた絵のように黒とグレーに覆われている。



「お母さん、どこ」



 一日中歩き回っても、何度声を上げて呼んでも、母親の姿は見つからない。生き残った村の人に少しずつ食べ物を分けてもらって、何とか飢えをしのいだ。


 しかしそれも、三日目くらいが限界だった。


 食べ物も飲み物も底をつき、私のような子どもに何かを分けてくれるような人はいなくなった。それどころか、少ない食べ物を取り合って、あちこちで諍いが起こるようになったのだ。


 三日前、山の方から突然鳴り響いた轟音はなんだったのだろう。

 あの音の後、小雨が降っていたこの村に濁流が押し寄せた。


 この辺りを治めるヘイズ侯爵が焚き出しなどの支援を始めてくれたけれど、洪水の原因は誰も教えてくれない。


 空腹と両親に会えない寂しさで気力が底を尽きかけたある日、河原の側で誰かが争う声が聞こえた。その中に、子供の悲鳴と泣き声もあった。


(子どもがいじめられているのかな?)


 心配になった私は、河原の方に向かった。このまま行けば、私も近いうちに命を落とすだろう。せめて最後に誰かの役に立つことをしておきたい。徳を積めば、天国に行った時にお母さんに会えるかもしれない。そんな気持ちで、その場に向かった。



「……待って! 僕はただ、助けたかっただけなんだ!」



 悲鳴の主は、頭から足の先まで泥にまみれて真っ黒になった少年だった。腕には見るからに弱ってしまった子猫を一匹抱えている。



「猫を助けるなんて、随分余裕のあるお坊ちゃんだな。どこかの貴族の子だろ? かわいそうな俺たちに、その高そうなカフスボタンでも分けてくれよ」

「……ボタンはあげる。でも二つしかないんだ」

「もっと何か持ってるんじゃないのか? 脱いでみろ」



 今にも男の子に掴みかかって身ぐるみ剝がしかねない村人の男たち。気付いた時には私は村人の中の一人の背中に飛び掛かり、うしろから男の両目に手を当てて目隠しをしていた。



「……うぉっ、何だ?! 前が見えない! やめろ!」



 目隠しをされた男が狼狽えて尻もちを付く。その勢いで、私の体は少年の目の前にゴロゴロと転がって倒れた。



「……大丈夫?!」

「大丈夫だよ。ねえ、ボタンはあげちゃダメ。無理矢理人から物を奪うのは、泥棒と同じだってお母さんが言ってた」



 こんな小娘に泥棒呼ばわりされて頭に来たのか、村人の注意は少年から私に移った。恐ろしい顔をしながら無言で私の方に詰め寄ってくる。



「てめぇ! 川に放り込んでやる!」

「きゃああっ!」



 八歳の子ども、しかも何日もまともに食事もできずにやせ細った私の体は、いとも簡単に男に持ち上げられる。そのまま、泥で真っ黒になった川の中へ放り込まれた。

 鈍い水音と共に、私の体は沈んでいく。



「やめろっ!!」



 水面の向こうで、先ほどの少年が叫ぶかすれた声が聞こえた。

 きっとあの子はあの後、村人たちに暴力を振るわれて全てを奪われるだろう。なぜ身分の高そうな貴族の子がここにいるのかは分からないけど、きっと洪水からみんなを救うためにやって来た心優しい子のはずだ。


 ごめんね、最後にあなたを助けてから死にたかったのに。何の役にも立たなくてごめんね。


 水の中でも、悲しい時は涙が出るらしい。

 瞳から溢れ出るしょっぱい涙に触れようと手を動かすと、私の手からぼんやりと青白い光が溢れていることに気が付いた。


(何これ、もしかしてお母さんが私に力をくれたのかな?)


 きっとそうだ。誰に対しても優しかったお母さんが、きっとあの男の子を助けてあげられるように力をくれたんだ。

 助けたい、あの子を助けたい。


 そう強く思った瞬間、青白い光は閃光のように水面を突き破った。





「……ディア! 大丈夫か」



 私を呼ぶ声が聞こえ、そっと瞼を開ける。すると、目の前には私の顔を覗き込む見慣れない顔があった。


(ああ……見慣れないと思ったら、兜なしのアーノルト殿下だわ)



「クローディア! 目を覚まして良かった」



 兜を被っていないから、殿下の涙ぐんだ瞳がやけにハッキリとよく見える。

 何だかさっきまで昔の夢を見ていた気がするが、ここはどう見ても美術館の庭園だ。私は先ほど誰かに口を塞がれ、池に突き落とされたのだった。

 少しずつ記憶が戻り、私は殿下の膝の上から体を起こした。



「殿下、申し訳ございません。助けて下さったんですね」

「たまたまリアナ嬢が急いで自邸に戻ることになったんだ。それで彼女と別れ、君を探していた。もう少し発見が遅かったら大変なことになっていた……」

「誰かに口を塞がれて、池に突き落とされた気がします」

「何だって?!」



 殿下の顔が一瞬曇り、私の手を握る。



「自分で足を滑らせたのではなく、誰かに故意に押されたということか……私が君を連れまわしたばかりに、危険な目に遭わせてすまない。必ず犯人は見つけ出す」

「殿下のせいではありません。それに助けて頂けてラッキーです! まだまだ私にはやらないといけないことがありますからね!」



 そうなのだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。


 アーノルト殿下にかけられた呪いが解けるまで見届けなければいけないし、いざという時には私が殿下の唇を奪うというミッションも残っている。

 エアーズ修道院にはまだまだ恩返しをしないといけないし、恋占い屋の常連客だって私がいなくなったら困るだろう。


 とにかく私は最後までちゃんと人の役に立ってから、一生を終える予定なのだから。



「クローディア。本当はすぐにでも王城に連れ帰って看病をしたいところなのだが……もしかしたら、王城に戻るよりもこのままローズマリー嬢のところに身を寄せる方が安全かもかもしれない」

「私もそうしようと思っていました。神殿もここから近いですし、そうさせて頂きます」

「本当に申し訳ない。君に迷惑をかけた人物は必ず対処する。きっとすぐに犯人は見つけるから安心して欲しい」



 殿下は苦悶に満ちた表情を浮かべた。

 私も殿下に向かって「お願いします」と頷く。

 

 でも、私の心の奥で一つ引っかかっていること。それは、リアナ様のことだった。


(まさか、私に対する嫉妬心から、池に突き落としたりはしないわよね……リアナ様……)


 私に対する冷たい視線と、ガイゼル様から聞いたリアナ様の嫌がらせの噂。それが頭の中で繋がって、疑ってはいけない人を疑い始めてしまう。


(疑ったら駄目よ。リアナ様はアーノルト殿下の婚約者になる方なんだから)


 立ち上がろうとした私をアーノルト殿下が軽々と抱き上げ、そのまま歩き始める。普段なら下ろして欲しいと暴れて頼むところだが、私はそのまま殿下の首に両腕を回した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る