27

「あぁ、ヤマモトくん? いま少し話しても大丈夫かい?」

 電話をかけてきた相手はタウンハウスの大家さんだった。

 こんな時間に、いったいどうしたというんだろう。

 携帯電話を持つ手がいまだに震えて止まらない。

「あ、こんばんは。はい、ちょっとだけなら大丈夫ですけど……」

「あぁ、こんばんはの挨拶がまず先だったね。まぁそれはいいとして早速なんだけどさぁ、さっきマエゾノくんにも連絡を入れてみたんだけどね、手がふさがっているのか彼は出てくれなかったから、先にキミに話しておくけど」

「えぇはい」

 アキラくんって、苗字はマエゾノっていうんだぁ……。

 もしかして、あの『マエゾノ自動車』の御曹司だったりして……なんて、どうでもいいことを考えていると、唐突に大家さんは続けてこう言った。

「実はね……」

 実はね?

 どうしてなのか、この瞬間から心臓がバクバクと強く打ち始めてきた。大家さんは何も知らないはずだと分かっているのに、ボクの鼓動も神経も、どうしようもなく不安定になってくる。

「はい?」

 嫌な予感が当たったらどうしよう……。

「それがさぁ……」

 それがさぁって、早く言ってよもぅ……。

 大家さんはいつもこうなんだからなぁ。

「ミカさんがねぇ」

 ミカさん? 

 あぁ、リカさんのことか。

「ミカさんがなにか?」

「うん、病院へ運ばれちゃったんだよ」

 えっ!? 

 と驚いた同時に、その一方で体中が安堵のベールみたいなものに覆い包まれたような気がした。良かった、電話はリカさんの件だったんだ。

「それで、どうしたんですか?」

「まぁ落ち着いて聞いてくれな、ケンジくん」

 ここからなぜか、山元くんから健児くんへとボクに対する呼び方が変わった。もしかして、このボクを動揺させまいと気遣っているつもりなのか。

「はぁ」

 大家さんにそんなことなんかしてもらわなくても、ボクはもうとっくに落ち着きを取り戻し始めている。

「あのねぇ……」

 そこからの話を聞いたところによると、リカさんは市販されているいくつかの睡眠薬をいっぺんに飲んでしまったらしく、朦朧とした意識の中で自らエマージェンシーコールをどうにか入れて、駆けつけた救急車で最寄りの病院に運ばれたらしい。

 幸い、リカさんが非常時の連絡先を大家さん宛てにしていたらしく、運ばれた病院からの連絡を受けた大家さんが、駆けつけたその病院から今このボクへ電話を入れているとのことだった。

「キミジマくんといい、参ったよまったく」

 キミジマくん?

 あぁそっか。

 大家さんはアキラくんとリカさん以外のルームメイトのことを言いたかったはずだから、キミジマくんってゴウさんってことか。

 ゴウさんはリカさんと一緒じゃなかったのか……。

 ということはゴウさんも、大家さんの連絡がとれないどこかへ出掛けている最中なんだ。

 通話が終わって、右手首にはめているスウォッチに目を落としてみる。

 午後11時42分。

 こんな遅くに大家さんも大変だなぁ。

 と、ちょっとだけ気の毒に思ってしまうと同時に、もうあれから40分も経ったのかと、まだ夢であってほしいあの瞬間をまた思い出してしまい、不意にボクはブレーキを踏んで愛車のカムリを路肩に止めた。

 そこでやっと気が付いた。

 どうしてボクは、タウンハウスのある北へは向かわずに、真逆のロングビーチ方面へとフリーウェイを南下しているのだろう。

 そうか……。

 きっとあの時は気が動転して、どこに向かえばいいのか何も考えずに慌ててアクセルを踏んでしまったからに違いない。

 だけど、偶然のタイミングでもらった大家さんからの電話で、なんだか急に落ち着きを取り戻したような気がする。本人には失礼だけど、リカさんが病院へ運ばれてくれたおかげで、パパのような低音で包容力のありそうな大家さんの声を耳にして、ボクはちょっとだけ安心したのか、これまでの動揺が本格的に収まりつつあるのかもしれない。

 そうして次第に冷静さを取り戻しはじめた健児は、そこから710フリーウェイを北へ上がって105フリーウェイを西へ行き、そして405フリーウェイに乗り換えて、現在は誰もいなくなってしまっているはずのタウンハウスへ向かうことに決めた。

 さっきあそこで起こったことなんか、ボクはいっさい関与していない。

 いや、起きたことすら元々知らない。

 なぜならボクは、あそこに居合わせてなんかいなかったんだから。

 あれは……。

 そう。

 あれは、アキラくんがひとりでやったことなんだから。


「ヨォゥメェーン、ケンはどうした。ヤツはどこにいる」

 窓を開けた運転席から車内を覗き込むかのように、『ロサンゼルス・ドジャース』のキャップを被った黒人が、腰を屈ませながら小さな顔を近づけてくる。

 そこは、サンペドロの中心街にある大手スーパーマーケットの駐車場だった。

 以前にリカから耳にした、ケンがひとりで会っていたというドラッグの売人に、立ち寄ったスターバックスからアキラはコンタクトをとっていた。

「今夜はケンがここに来られなかったんだ。だから代わりに俺が来た」

「ホワット? 聞いてねぇぞそんなこと! ケンじゃなきゃ俺のコークは売れねぇ!」

 独特なリズムを持った早口でがなり立ててきた黒人の、その最後の一言を耳にした途端、

「コーク? ねぇアキラくん、MDMAじゃなかったの?」

 それまで恐怖のあまり助手席で固まっていた健児が、愕然とした表情で運転席に向かって声をあげた。

 しかしその一方で、

「でも俺は、ケンに頼まれてここに……」

 少しでも黒人の勢いに押されまいと運転席から身を乗り出しているアキラの耳には、健児の訴えなどまったく届いていない。

「ノーノーノー、そんなはずはない。ケンは俺との約束を破ったことなんか過去に一度もない。しかもケンは自分以外の奴なんかいっさい俺には会わせない。なぜなら、そういう契約をケンと交わしていたからだ」

「いや、ケンは……」

「ねぇアキラくん、ケンって、前に住んでいたケンさんのことでしょ? それとMDMAはどういった関係が……」

「ちょっと黙っててくんないかっ! いま大事なとこなんだっ!」

「ヨォゥヨォゥ! オマエは何を怒ってるんだ? さっきから隣の奴と俺の理解できない言葉で会話をしてるって、ひょっとしてオマエら、おとり検査員か?」

「えっ!? ま、まさか!」

「シャラップメェーン! さてはケンをパクッて司法取引を結んだな! そうだろっ! そうだっ! きっとそうだっ! ダムイット! ファッキンチャイニーズ、メェーン!」

「え! ち、違うよ! 俺たちは日本から来た留学生であって……」

「ファックユー! アスホゥ!」

 うわッ! 

 健児が助手席で2人のやり取りを愕然とした表情で押し黙って聞いているうち、全開にしていた運転席の窓越しから銀色に反射する小型の銃が瞬時に伸びてきたかと思うと、いきなりアキラに向かって火を噴いた。

 えっ!?

 2発の乾いた銃声が、闇夜の街に木霊している。

 ア、アキラ……くん?

 いったん頭に血が上った黒人は、興奮するとパニック状態に陥って後先を考えぬままいきなり行動に出てしまうのだと、このとき初めて健児は知った。

 駐車場の向こうから、クルマのドアを乱暴に閉める音が響いてくる。

「アキラくん!?」

 運転席でうずくまっているアキラの背中越しに、リアタイヤをスピンさせながらダッヂが姿を消していく。

「やべ……ホントに……撃たれた……」

 うずくまって苦しんでいるアキラの横顔と撃たれた腹部とを交互に見つめながら、背中に恐る恐る手を添えてみると、同じテンポで背中が大きく前後に揺れているのがわかる。呼吸が荒い。

「す……すんげぇイテェよ……き、気絶しそう……」

 それを聞いて頭の中が真っ白になってしまい、「だ……だいじょうぶ?」と一声かけただけでただただ呆然としているだけだったが、「キュー、イチ……イチ……」との蚊の鳴くようなか細いアキラの訴えにハッと我に返った健児は、慌てて尻ポケットから携帯電話を抜き出そうとした。

 ところが、手が震えてなかなか思うように抜き出せない。

 その様子に気付いたアキラが、

「そ……そこに……お……俺のケータイが、ある……から」

 と運転席側のカップホルダーを視線で示し、そこで健児はやっと911へエマージェンシーコールを入れた。

 そうして電話に出たオペレーターに大まかな場所とアキラの状態を伝え終わった後、隣で次第に弱っていくアキラの姿を無言で見つめながら、健児はしばらく考えてみる。

 今までは気が動転してしまって、自分はまず何をどうすればいいのかだけに夢中になっていたけれど、冷静になってよく考えてみれば……。

 よぉく、考えてみれば。

 ――――アキラくんは、ボクを騙した。

 ボクは、アキラくんがてっきりボクら2人のためにMDMAを仕入れてくれるのだとばっかり信じ込んでいた。

 だから、ここに来る途中でわざわざ銀行に寄って、そして並んでまでしてボクのお金を引き出したというのに……。

 結局アキラくんは、自分が欲しがっていたケンさんの上質なコカインを、ボクを利用して噂の売人から手に入れたかっただけだったじゃないかっ!

 耳鳴りが収まらない。

 そういえば、以前からアキラくんは、裁判か何かで結構な資金が必要になったとこぼしていた。だから、その上質なコカインをなんとか手に入れて、それを高値で誰かに売りさばくつもりだったのかもしれない。

 遠くの方から小さくサイレンの音が聞こえてくる……。

 こういったことは日常茶飯事で手慣れているせいなのか、アメリカって日本よりも緊急事態を対処する行動が早いんだな。

 うずくまったままのアキラくんは、どうやら本当に気を失いつつあるようだ。

 さてと……。

 ここでこのボクがこんなことに巻き込まれるわけにはいかない。

 そうだよ、これはボクなんかが知る由もない、とんでもない出来事なんだ。

 だってボクは、やっと日本から来たばかりで右も左もまだまだよく分からない、至ってまじめな留学生なんだから……。

 そこで健児は座っていた助手席を急いで降りると、運転席側へ回ってドアを開け、虫の息となっているアキラの体を引きずり出してアスファルトに寝かせた。

 アキラくんだって、さすがにこれまでの経緯を誰にも口にはできないだろうし……。

 事情を正直に言えないアキラくんは、きっと苦し紛れにまったく違うウソをつくことだろう。

「ここまで乗せて来てもらってきた黒人とチップのことで口論になって撃たれた」とかってね。

 だから……。

「だからボクは、ここには最初から居ないのだ。ボクは、この出来事なんかいっさい知らない人なのだ……」

 健児はぶつぶつとそんな独り言を口にしながらカムリの運転席へ乗り込むと、震えが止まらずにいる指先でキーを回してエンジンをかけ、誰にも気づかれないようになるべく静かに発進させようと、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。

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