24

 依然として初代ケン宛てに、何通もの督促状がタウンハウスへ届いていた。

 ポストオフィス郵便局に本人が帰国してしまったことを伝えればそれだけで事が済むのだが、新参者の健児を除く3人は、それを行う意思などまったく持っていない。

 それどころかアキラに至っては、今は自分の身に降りかかってきた訴訟問題で頭が破裂しそうな状態に陥っているのだった。

「アキラくぅん、お酒臭いけど、運転して大丈夫なの?」

 それは、ドライバーズライセンスを取得した健児が、リース契約をしたトヨタカムリをディーラーから引き取りに行く当日の午後のことだった。

 タウンハウスのウエストLAからディーラーのあるトーランスまではフリーウェイを使っても40分はかかる。その場所まで、近々売り飛ばしてしまうアキラにとって最後の商品車で向かう約束をしたはずだったのだが、この日は朝からその運転手が酒の匂いを漂わせている。

「大丈夫だってぇコレくらぁい。っつーかぁ、今日オレが運転しなきゃならない約束を何かしてたっけぇ?」

 え?

 完全にアキラは忘れている。

「ア……アキラ、くん……?」

 あ。

 そういえば、とそこで健児は思い出す。

 一昨日のことだった。ボクがアキラくんにそのことをお願いしようと部屋のドアをノックすると、開けたドアから顔を出したアキラくんは、瞳孔が開いたままで視点が合わずにいたんだっけ。

「どうしたの?」ってボクに聞いてきたその声も鼻にかかっていたから、もしかしたら花粉か何かのアレルギーで、それで薬を飲み過ぎて少し正常じゃなかったのかもしれない。

 健児は鼻の頭に汗の粒を光らせながら、

「いいよいいよ、ディーラーに電話して、別の日にしてもらうから」

 と大きく開いた指の短い両手のひらを胸の前で激しく振って、作り笑顔を浮かべている。

 だが、

「え? 何がいいよなの? ディーラー?」

 ダメだ、ぜんぜん覚えていないよアキラくんは。

 半ば呆れもしながら、健児はその場でトヨタのディーラーに電話を入れた。

 そうして結局、翌日の午前中に担当者がタウンハウスまで納車に来てくれ、そのまま健児がその彼をまた店へ送ってやることに話はまとまったのだった。

 約束通り翌日の昼前に真っ白なカムリが到着し、是非ともこの喜びを分かち合ってもらいたいと興奮気味に健児がアキラの部屋のドアをノックするものの、反応はまったくない。

 かといってゴウもリカも、まだ2階の部屋で深い眠りについたままだろうし、仕方がないので健児はここまで運転してきてくれた担当者を送りに、トーランスのディーラーへとそのまま折り返し向かうことにした。

 この日は相変わらずの快晴だが海からの風は強く、しかしエアコンを利かせた新車のカムリはそんな状況で405フリーウェイを飛ばしても静かで安定している。

 日本では確か『セプター』って呼ばれていたはずだけど、今でもこれと同じデザインにモデルチェンジしたんだろうか……。

 健児はハンドルを握りながら余裕でそう考えているが、着ている『シュプリーム』のTシャツは、汗のシミが脇の下から腰上まで氷柱つららのように伸びている。

 緊張の度合いが脇の下までは隠せずにいるままフリーウェイを制限速度で飛ばしているそんな中、

 そうだ! 

 と突然、健児はひらめいた。

 今日はコロンブスデイでアキラくんの学校だって休みなんだから、ドライブがてらアキラくんを誘ってどこかにランチを食べに行こう!

 そうしてトーランスのディーラーから一目散にウエストLAのタウンハウスへ戻ってみると、マリブ辺りからの山火事らしい焦げた臭いが薄っすらと漂うキッチンのアイランドにもたれかかっているアキラの姿が目に留まった。

 すでにワインのボトルを半分空けている。

 見たところ、何だか少し具合が悪そうにも思える。

 それでも健児はスキップでもしそうな勢いでリビングを抜けてキッチンへと向かい、「新車が届いたよ! アキラくん、これから一緒に……」

 とまでを伝えたところで言葉が詰まった。

 なぜなら、

「ア、アキラ、くん?」

「ん゛? な゛に?」

「は、鼻血がでてるよ……?」

「え゛?」

 アキラは完全に鼻声だが、その原因は風邪を引いたわけでもアレルギーのせいでもないことを健児は知らない。

 もちろん、鼻血が垂れたその原因も分かっていない。

 乾いて固まりつつあったその血を手の甲で拭ったアキラの鼻は、実のところクラックのやり過ぎで軟骨が次第に破壊され始めているのだった。

「とにかく病院に行った方が……」

「な゛んでもな゛いよ。それよりな゛に? 新車を買ったの?」

「え? 言ってたじゃ~ん、カムリをリース契約したよってぇ。ダウン頭金を多めにさえ払えば、ボクたちみたいな学生でもリースができるんだよって、こないだアキラくんに言ったじゃない」

 はぁ?

 アキラは健児の話を何も聞いてはいなかった。

 もうアキラは鼻どころか脳ミソまでをも破壊され始めていた。

 人の話を聞くことが出来ない。たとえ耳にまでは入ったとしても、脳内でそれを理解してはいない。 

「とにかくアキラくんはクルマに詳しい人だからさぁ、一緒にドライブを付き合ってよ。そしてどこかでランチしよ~。さっきトーランスに行って色んな日本食レストランを見つけたんだよ。もう2時になっちゃうし、早く行こうよ! ねっ! アキラくぅん」

 そうして健児がアキラの腕に抱きつくと、甘えるように丸い体を左右に揺さぶった。

「ちょ、ちょっと待ってよ。オレ用意も何にもしてないからさぁ、ちょっとここで待っててよ」

 健児の腕を振り解きながら慌てた口調でそう返し、アキラが自分の部屋へと急ぎ足で戻っていく。

 いくら自分でも、ああいった甘えられ方をされるのは好きじゃない。

 ここのところあからさまにベタベタとなついてくる健児の存在が、アキラは幾分うっとうしく感じるようになり始めていた。自分の性欲を満たしたいときにだけアイツが傍にいればいい。そんな思いが次第に強くなっていた。

 自分が今どういう状況に立たされていて、今どういう心境で毎日を過ごしているのかなんて、ケンはぜんぜん分かっていない。

 デスクにばら撒かれたクラックの破片をビニールパッケージに戻し入れながら、そんなことを考えてアキラが眉間に皺をよせていた、その時だった。

 ん!?

 待てよ……。

 咄嗟に何かが閃いたのか、急いで洋服を着替えて自室を出、顔を曇らせながらキッチンで待っていた健児の手を取って足早にリビングを抜けると靴を履き、そして「なになに? 突然どうしたの?」との健児の問い掛けを背中で聞き流しながら、アキラは玄関のドアを勢いよく引き開けた。


 その一方で、流星とリカとが籠っている2階の部屋では、これから2人のあの揉め事が、今まさに始まろうとしているところだった。

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